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海鳴

 部屋に最後まで残っていたのは僕だけだった。

 僕は最後まで残っていた甲虫だった。全ての甲虫は部屋から出ていった。

 いや、僕が食べつくしたのかも知れない。部屋のドアは一度だって開いてない。あんなに部屋に詰まっていたのに今は僕ひとりだ。

 ひとりきりだ。



 海が鳴っている。

 僕は波打ち際で必至になって虫を捕まえようとしていた。

 明け方の海岸は乳白色に濁っていた。遠く、白金色に光る太陽に向かって飛んでいく甲虫を追って浜辺を走る。

 数々の甲虫たちが太陽に向かって飛んでいく。幼い僕の高さでは届かない高さだった。

 なぜ海の遥か彼方にある太陽に向かって飛んでいくのだろう?決してたどり着く事は無いのに。



 僕はその甲虫を一匹でも救いたいと思って必死になって走っていた。振り回した手に偶然一匹の甲虫が当たり、海面に落ちた。

 僕は手の痛みを我慢しながら水面から甲虫を救い上げると、浜辺を縦断して茂みにそっと放した。

 僕は一匹の甲虫を救えた事に満足して、まだ海水に濡れている甲虫に話しかけた。

「もう海に向かって飛ぶなよ、そっちには何もないから」

 僕がそう言い終わった瞬間、その甲虫は硬い翅を広げると音を立てて飛び立った。



 慌てた僕の手をすり抜けて甲虫は再び海へ向かって飛ぶ。僕は海まで走りながら白金色の太陽に向かって飛んでいく黒い点になった甲虫を見ていた。

 僕の努力をあざ笑うかの様に柔らかく冷たい波が足をくすぐった。

 僕は朝陽に向かって立ち尽くしていた。海が鳴っていた。



 網戸に止まった虫を指で弾いて追い払う。

 駅に近いマンションに引っ越して、ひとつだけ失敗したと思う事がある。

 街灯の明るさで網戸に寄ってくる虫の事ではない。大通りに面した窓を開けても木々が風で揺れる海鳴りのような音が聞こえないことだ。



 別に車の走る音だとか学生の笑い声が嫌いな訳じゃない。何も聞こえない田舎よりマシだと思う。あの耳にうるさいくらいの静寂は好きじゃない。

 音が無いのは不安だ。その点、街は音に溢れている。海鳴りが聞こえない点を除けば。



 金曜日の夜は街の音が柔らかい。

 きっとみんなが金曜日を好きだからだ。金曜日の夜が愛されているのはその美しさに他ならない。

 労働者たちは月曜から金曜までの労働を終えて、疲れた体と重い鞄やその中の債務、明日の約束だとか希望も憎悪もまとめてしまった影を引きずりながら家路を急ぐ。

 金曜日は手遅れになった瞬間の甘美さが詰まっているのだ。すでに月曜日の匂いを嗅ぎながら金曜日の夜を歩く。その一瞬一瞬が取り返しのつかない愛おしさを持っている。

 そうやって暖かい光に向かうような気持ちにさせる。



 例えばブレーキランプ、遠いタワーの頂上やマンションに灯る何種類もの明かり。

 どれも月曜日みたいな刺々しさは無い。それを僕は電気を消して暗くした部屋の窓から眺めている。

 様々な光がゆっくりと部屋を回る。

 黄金色の甲虫の様に光が部屋の中を飛び回る。

 僕は手を伸ばす。

 光が僕の手をすり抜けていく。光の甲虫たちは存分に部屋を飛び回ったあと、ゆっくりと部屋を出ていく。そして月に向かう。

 僕はそれを見送っている。

 部屋には何も鳴らない。



 孤独を煮詰めた様な部屋だ。いや、全ての孤独が喰らいあって残ったのが僕だ。



 海が鳴っている。

 青黒い硬質の水が翻り、獣の咆哮じみた音を出している。月は無く、暗い。何も見えない。

 その暗闇の向こうで幾千の獣たちが吠えている。繋いだ手に力が入る。

 僕の手を握る手にも少しだけ力が入いる。

 結局のところ僕たちはこうする事でしか分かり合う勘違いもできない。

 できることなら、この誤解が解けないままでいればいいと思う。



 いや、幻滅の先にある景色を見たいだけだ。それは些細な願いだ。本当のことなどどこにもない。

 けれどそれに近づこうとする道にしかないものがある。

 本当の幸い、それこそ幻影でしかないことはとっくに気付いている。



 辺りが一段と暗くなる。

 もう少しで、夜明けだ。

 僕たちの青春はとっくに手遅れだった。すでに夜の金網は閉じられてしまった。あの時にしか見る事の出来ない景色はもうどこかに行ってしまった。

 それなのに労働とも呼べない労働を積み重ねた。生活とも呼べない生活をひきずった。回り続ける車輪そのものだ。



 僕たちが回し続ける車輪。

 僕たちの上を回る車輪。いたるところに脱ぎ捨てられた長靴下。待ちくたびれたハックルベリーが置いていった釣り竿。

 僕たちは車で旅をしなかった。

 僕たちは伊勢丹で朝食を共にしなかった。

 僕たちは眠れない夜を過ごす事もなかった。

 僕たちは目を開けたまま見る夢もちゃんと最後まで見られなかった。

 ゼロ戦に乗ってホワイトハウスに飛んでいきたかった。燃え上がる東京を見てみたかった。



「戦争でもおきねぇかな!」投げやりな希望。

 僕たちの手の中には未来が無かった。僕たちには閉じるドアも無ければ開けるドアも無かった。

 止まる時も無いし、終わるパーティーも無かったから分け合うものも無かった。

 手の中には何もなかった。

 肩は軽かったし、影の黒は薄かった。


 水平線の向こうから僅かに覗く朝陽が海を照らす。上空の雲はまるで川面を滑るかの様に流れていく。

 幾重もの白や灰色、銀色や青っぽいそれらの織り成す景色は黒っぽく渦巻く群青色の海と比べてもそう悪いものじゃない。

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