第3話 禁呪
夜の風が、硝子を震わせた。
その音を聞きながら、狭間光輝は机の上の魔導演算式を睨みつけていた。
幾百もの数式が、彼の前に浮かんでいる。
理論上は完璧な構造。
だが――ほんの一つ、決定的な要素が欠けていた。
“心”だ。
現代魔法は数と法則の体系。
古式魔法は祈りと感情の循環。
その両者を結ぶ概念は、どの論文にも存在しない。
人間が“感情”を術に取り込むこと自体、禁忌とされていた。
それでも光輝は手を止めなかった。
――彼女を救うためなら、禁じられた道でも構わない。
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「光輝くん、また研究室に籠もってたの?」
由美の声がして、彼は顔を上げた。
朝の光が差し込む。彼女は制服のまま立っていた。
笑っているが、その顔色は悪い。
「また祈ったんだな」
光輝は彼女の手首を掴む。包帯が滲んでいる。
「無理するなって言ったのに」
「……あの封印、弱まってるの。止めなきゃ、全部壊れる」
由美は微笑もうとしたが、唇が震えていた。
「光輝くん、怖いの。自分が“あれ”になってしまいそうで」
“哭きの主”――。
彼女の血に眠る、古の災厄。
もし封印が完全に解ければ、由美はその器として存在を失う。
光輝は目を閉じた。
そして、決意を固めたように言った。
「……俺が、君の中の“それ”を止める術を見つけた」
「え?」
「現代魔法と古式魔法の融合――《共鳴式》。禁呪だ」
由美の表情が凍りつく。
「光輝くん、それは……人間の精神を壊すって――」
「構わない」
光輝は言い切った。
「俺は君を失いたくない。それだけだ」
その声に、由美の瞳が揺れる。
拒絶したいのに、心が救われる。
――こんな想いを抱いてはいけないのに。
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翌夜。
学園の地下、封印の書庫。
祭壇の周囲に、光輝が描いた巨大な魔法陣が広がっていた。
無数の数式が光の軌跡となり、空間を漂う。
その中心に、由美が立つ。
白い装束に、祈りの紋様。
彼女の胸元から淡い紅の光が滲んでいた。
「本当にやるの?」
「もう後戻りできない」
光輝は端末を操作しながら答えた。
「《演算律・第零式》起動――」
光の輪が広がる。
現代魔法の式が動き出し、数列が空気を震わせる。
由美は両手を合わせ、祈りの言葉を紡いだ。
「……血に宿りし魂よ、願いの循環を閉じ、憎しみを鎮めよ」
青と紅、二つの光が重なる。
現代と古代、理と祈りが交わる瞬間。
空間が歪み、祭壇が軋みを上げた。
――その時。
由美の身体から、黒い煙のような魔力が噴き出した。
書庫の壁が裂け、叫び声が響く。
「止まれ……!まだ式が安定していない!」
光輝が叫ぶ。
だが由美の瞳は黒く染まり始めていた。
「やめて、光輝くん……私の中に、もう“あれ”が……!」
闇が形を取る。
少女の輪郭を歪め、異形の腕が伸びた。
それは“哭きの主”の覚醒だった。
光輝は即座に制御式を展開。
「《逆位相制御陣・第六層》――!」
光が迸り、闇と衝突する。
轟音と共に書庫の天井が崩れた。
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煙の中で、光輝は由美を抱きしめていた。
彼女の身体は震えていたが、まだ意識はあった。
「君の中のそれを、封じ込めた……けど」
彼の手のひらが震えている。
自分の血が、呪式の反動で滲んでいた。
由美はその血を見て、泣きそうに笑った。
「光輝くん……自分を壊してまで、私を守ろうとするなんて」
「当たり前だ。俺が君を救うって決めたんだ」
けれど、その言葉の奥に、どこか焦燥が混じっていた。
《共鳴式》は確かに成功した。
だがそれは、光輝の生命力を媒介にして成立していた。
つまり、この術は長く保たない。
もし彼が倒れれば、封印は再び破れる。
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翌日。
光輝は保健棟のベッドで目を覚ました。
窓の外は晴れていた。
枕元には由美の書いた祈りの札が置かれていた。
そこには、震える文字で一行。
「光輝くん、ありがとう。次は、私があなたを守るね。」
その瞬間、胸が締めつけられた。
彼女はもう、自分を犠牲にする覚悟を決めている。
光輝は拳を握りしめた。
――誰かが祈る限り、誰かが犠牲になる。
そんな魔法の仕組みそのものを、壊さなければならない。
そのとき、部屋のドアが静かに開いた。
「目を覚ましたか、光輝」
白衣の男が立っていた。
狭間玲司――光輝の兄。
「兄さん……どうしてここに」
「研究機関から派遣された。君が禁呪を使ったと報告があったからな」
玲司の目は冷たかった。
机の上の札を拾い上げ、無造作に光にかざす。
「古式の符術……まったく、時代遅れだ」
「やめろ!」
光輝が立ち上がる。
「由美を侮辱するな!」
「侮辱?違う、利用だよ」
玲司は静かに笑った。
「古式魔法の“祈り”を現代魔法に転用できれば、永続的なエネルギーが生まれる。犠牲など不要だ」
「犠牲を生まないって言葉で、誰かを実験台にするのか!」
兄弟の視線がぶつかる。
その瞬間、光輝の胸に走る痛み。
禁呪の副作用が再び発動した。
膝をつく光輝を見下ろしながら、玲司は言った。
「やはり、禁呪は君の生命力を食っている。……由美の封印を解けば、完全な融合式が完成する」
「……まさか、由美を……!」
「次の“生贄”として使う」
光輝の怒りが爆発した。
床が揺れ、魔力が暴走する。
「兄さん……俺は、そんな世界を許さない!」
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夜。
光輝は学園を抜け出した。
《共鳴式》の魔法陣を再構築するために。
彼が目指すのは、渡家の封印がある“祈りの神殿”。
そこに、由美が向かったという報せを受けたのだ。
満月が雲間から顔を出す。
風が冷たい。
彼の身体は限界を迎えつつあったが、足は止まらなかった。
――彼女を救うために。
――理を超えた祈りを、証明するために。
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神殿の扉を押し開けると、
祭壇の上で由美が祈りの姿勢を取っていた。
その背後には、黒い影が揺らめいている。
「由美!」
光輝の声に、少女は振り返った。
その瞳は悲しみに満ちていた。
「ごめんね、光輝くん。もう……時間がないの」
「やめろ!封印なんてしなくていい!」
「そうしたら、あなたが死んじゃう……!」
由美の中の光と闇が交錯する。
“哭きの主”の力が、完全に覚醒しかけていた。
光輝は走り寄り、彼女の手を握る。
「だったら、一緒に生きよう!」
その瞬間、祭壇が砕け、光が爆発した。
彼は叫びながら、彼女を抱きしめた。
青と紅の光が溶け合い、世界が白に染まっていく。
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――そして、静寂。
光輝は崩れた祭壇の上に倒れていた。
由美の姿は、もう見えなかった。
彼の掌には、彼女の札が握られている。
そこには、最後の言葉が刻まれていた。
「私の中にある祈りは、あなたの中で生きていく。
だから、泣かないで。」
光輝は、静かに目を閉じた。
涙が一滴、札の上に落ちる。
それが、封印を再び光らせた。
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――世界が、息を吹き返す。
風が吹き、満月が雲を裂く。
由美の声が、どこかで囁いた。
“光輝くん、ありがとう。私は、まだここにいるよ。”
彼は空を見上げ、微笑んだ。
「由美……俺は、君を必ず取り戻す」
その瞳には、もう恐れはなかった。
彼は理と祈りの狭間に立つ――“境界の魔法師”として。




