2話 気に入らない弟
ルシアン・ローゼンは、今年で7歳になったばかりだった。
弟が生まれるまでは、彼の世界はまるで太陽のように両親の愛情で満たされていた。
母イザベラ・ローゼンは、ルシアンを授かった喜びからか、いつも微笑み、柔らかな手で彼の髪を撫で、寝る前には必ず小さな手を握って優しい言葉をかけてくれた。
父アルドリック・ローゼンもまた、戦術や礼法を教える際には一切の手抜かりなく、少年の成長を目を細めて見守っていた。
しかし、あの出来事以降、世界は少しずつ色を変えた。弟セイラスが生まれた直後、母イザベラは出産の負担で体調を崩し、長く病床に伏してしまったのだ。
母の表情が青ざめ、父があたふたと世話をしている様子をルシアンはただ見つめることしかできなかった。
母の体温、柔らかな匂い、温かい涙の一滴すら、手を伸ばすことしかできないもどかしさが、彼の胸を締め付けた。
父と母の目は、いつもセイラスに向けられていた。声が出せない弟を心配する両親の想いは、当然ながらルシアンにも注がれた。だが、幼いルシアンの心には複雑な感情が芽生えていた。
「弟を守るべきなのはわかっている。でも、僕にも僕だけを見てほしい」という、甘えたい気持ちがあったのだ。
そんなルシアンは、ある日ひとつの策略を思いついた。弟が少しわがままになれば、きっと自分と話してくれるはずだ、と。
そこで、彼はセイラスに読み聞かせをすることに決めた。家の掟により魔法に関する話は禁止されていたため、剣と勇者の物語を選んだ。
その日、ルシアンは書庫から厚みのある本を持ち出し、静かな屋敷の庭にセイラスを誘った。
日差しは柔らかく、鳥の声がかすかに響く。
ルシアンは小さな手で弟の肩に触れ、視線を合わせる。声は出せなくても、目と手で十分に心を伝えられると信じていた。
「勇者は、困難に立ち向かい、仲間を守るんだ」
ルシアンはページを指でなぞり、文字をなぞるように物語を“語りかける”。
セイラスは目を大きく開き、ページの挿絵に見入った。そして、勇者が魔物を倒す場面で、ふとこちらを見て、ニコッと笑った。
勇者と僕に指を出し、言葉の発せない唇を動かした。それは僕には”にぃに”に見えた。
その瞬間、ルシアンの胸に熱いものが込み上げた。
「そうだ、僕―いや、俺はお前の英雄になる――お前を守る、絶対に」
まだ幼いルシアンが心の中で誓ったその言葉は、声にならずとも、弟に確かに届いた。
読み聞かせを続けるうちに、セイラスは笑い、手を伸ばして挿絵を指さした。
その指の先にはルシアン自身がいると感じ、少年の心は胸の奥から温かさで満たされる。
ルシアンは、母の病床を思い出す。
母は、声が出ない我が子のために涙を流し、寝不足のまま病床で微笑むことさえあった。その母の苦悩を目の当たりにしているからこそ、ルシアンは自分の思いを一層強くしたのだ。
その夜、屋敷の書斎に戻ると、ルシアンは小さな手でページを閉じ、そっとセイラスの額に触れた。
体温はまだ子ども特有の柔らかさを保っており、香りは寝汗と石鹸の混ざったほのかな匂いが漂っていた。
ルシアンは目に涙を浮かべつつ、弟の額を軽く押し、胸に抱き寄せる。セイラスは小さく鼻を鳴らし、目を細めて安心した表情を見せた。
「母様が見守ってくれるから、大丈夫」
ルシアンは心の中でそう呟き、セイラスの背中に手を回した。抱きしめるたびに、母が願った「家族の絆」がここに確かに存在することを、少年は感じたのだ。
母の病は、まだ完全には癒えていない。
しかし、目の前で無垢に笑う弟、そして両親の愛情を分かち合う日々の中で、ルシアン自身もまた強く、優しい心を育てていく。
次の日も、その次の日も、ルシアンは読み聞かせを続けた。魔法は使えずとも、物語の力は絶大だった。
セイラスの笑顔は、ルシアンの胸に希望の炎を灯し、兄弟の絆は少しずつだが確かに結ばれていった。そして、ルシアンは幼い心で誓ったのだ――
「俺は、必ずお前を守る。声がなくても、俺がこの手でお前の世界を支える」
この日から、ルシアンとセイラスの小さな日々の戦いと喜びが始まった。声がなくても伝わる愛情と、幼い英雄の誓いが、屋敷の静寂の中にしっかりと息づいていたのだった。
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