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1話 母上の思い

 ローゼン家の館には、長い間ひとつの影が落ちていた。


 それは、子を愛しながらも病に臥せり、満足に抱きしめることすらかなわぬ母――イザベラ・ローゼンの存在である。


 彼女は、華やかな宴で笑みを浮かべることの多かった日々を思い出すことさえ、今は遠い昔のように感じていた。


 結婚して、待望の子を授かり、胸に抱いたその日を思い返すたびに、胸が熱くなる。あの日、産声はなかった。


 小さな小さな命が、泣くことも、声を出すこともなく、生まれてきてしまったのだ。


 ――声がない。


 医師は「生まれつきのものだろう」と静かに告げた。


 貴族の家にとって、それは大きな痛手だった。声を持たぬ子は、命令を伝えることも、宴で己を示すことも難しい。冷たい視線や陰口が、イザベラの耳にまで届いた。


「ローゼン家の恥」「出来損ない」……。その言葉を浴びせられるたび、イザベラは胸を裂かれる思いで、ただ布団の上で震えていた。


「私が……私が弱かったから。この子に声を与えられなかった」


 そう口にするたび、彼女の体はさらに弱り、塞ぎ込む時間が増えていった。


 けれど、セイラスは母のことを恐れたり嫌ったりすることはなかった。幼い彼は、言葉の代わりに拙い字を練習し、小さな手で”だいすき”と震える線を紙に刻んで、母の枕元に置いていった。


 イザベラはそれを見るたびに涙した。


「声がなくても、この子は……ちゃんと伝えようとしてくれる」


 その紙切れは、彼女にとって世界で一番の宝物となった。


 セイラスが五歳になったある夜。

 病室に忍び込んだ小さな影に、イザベラは目を見開いた。


「セイラス……?」


 部屋の隅で揺れる燭台の火に照らされて、セイラスは小さな紙と羽ペンを抱えていた。机の上によじ登り、一生懸命に文字を並べている。


 ”おかあさんにあいたい”

 ”せいらすはしあわせ”

 ”こえがなくてもいい”


 文字はところどころ歪み、にじみ、子どもの手ではうまく書けない。けれど、そこには確かな意思と、母を思う心があふれていた。


 イザベラの胸は痛みで締めつけられるようだった。


「どうして……こんなに小さな子が、こんなに私を気づかって……」


 枕元で震える手を伸ばし、息を切らせながらセイラスを呼んだ。


 セイラスははっと振り返り、母のもとへ駆け寄った。


「セイラス……おいで」


 イザベラは力を振り絞って両腕を広げた。

 その腕に飛び込んできたのは、まだ幼く、温かな命のかたまり。胸に収まった瞬間、イザベラの頬を熱い涙がつたった。


 母の髪からは薬草と花の入り混じった匂いがした。


 その懐かしさに、セイラスもまた堰を切ったように涙を流した。声なき泣き声が、母の胸を濡らしていく。


「大丈夫、大丈夫よ……声なんていらないの。あなたが笑ってくれるだけで……私は幸せだから」


 その言葉に合わせるように、母の鼓動が耳元に響いた。


 とくん、とくん、とくん。

 病に蝕まれた体のはずなのに、その音は力強く、確かな命を刻んでいた。


 セイラスはそのリズムに合わせて小さな手を母の衣にぎゅっと握りしめた。母の体温は、熱すぎず、冷たすぎず、ただ「生きている」と伝える完璧な温もりだった。


 涙は混じり合い、二人の間に小さな湖をつくる。

 イザベラはそれを拭いもせず、ただ抱きしめ続けた。


「ありがとう、セイラス。あなたは私の希望。私が生きていられる理由。……あなたがいてくれて、私は幸せ」


 その夜を境に、イザベラの容態は少しずつ回復していった。


 彼女はもう「声のない子を産んでしまった母」ではなかった。


「声がなくても、確かに幸せをくれる子を授かった母」として、胸を張って生きられるようになったのだ。

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