第80話「滑走路の金平糖」
昭和20年(1945年)3月23日 愛媛・松山基地 343空剣部隊
紫電改が静かに滑走路を転がり、エンジン音が止まった。
整備兵たちが駆け寄り、風防が開く。
菅野直大尉がコクピットから身を起こし、軽やかに地上へ降りた。
すぐに副隊の板谷茂少尉が駆け寄る。
「大尉! 無事で……よかった!」
板谷は安堵のあまり、思わず胸を押さえた。
「もう……あんな危険な接近はなさらぬで下さい。あの至近距離、弾幕が少しでもずれておれば……」
「問題ないさ」
菅野は淡々と答えた。
表情には一切の動揺も疲労も無い。
「それに、あの連中はもう“弾”を撃ってきちゃいなかった」
その瞬間、甲高い怒声が飛び込んできた。
「貴様──何をやっておるかッ!!」
剣部隊参謀・滝川少佐が鬼の形相で駆け込んできた。
血の気の引いた部下たちが、皆一瞬身を硬くする。
「敵機だぞ! 爆撃だぞ! 撃墜できたのだ! なぜ撃たん貴様ッ!! 軍命違反だぞ菅野ッ!!」
激昂する滝川少佐は、拳を高く振り上げていた。
空気が緊迫に満ちる。
しかし──
菅野直大尉は一歩も動かず、じっと滝川を睨んだ。
静かに、だが確実に、鋭い眼光が滝川を射抜く。
滑走路の空気が張り詰めた絹のように凍りつく。
その背後では、板谷以下の若い搭乗員たち、整備兵、通信兵たちが全員沈黙していた。
彼らの誰もが、菅野直大尉の背を見つめ、黙ってそこに立っていた。
一家──その異名の理由が、まさに今ここにあった。
滝川少佐の振り上げた拳は、僅かに震え──ゆっくりと下ろされた。
怒声は、続かぬまま空気に消えた。
菅野は滑走路の足元を見下ろした。
風に流されたビラの隙間に、色鮮やかな小さな金平糖が転がっていた。
ひょいと拾い上げる。
「これが──奴らの爆弾です」
菅野は飴玉を軽く指先で転がし、そのまま口に放り込んだ。
静かな甘味が口内に広がる。
滝川少佐は顔を強張らせたまま、言葉もなく固まっていた。
やがて菅野は整備兵の方へ軽く振り返る。
「……撃墜できたことにしといてくれ。撃墜マークを一つ、増やしておけ」
整備兵の青年が驚きつつも苦笑し、敬礼する。
「はっ! 」
整備兵の敬礼に答えた菅野は踵を返す。
滑走路の春風が、金平糖とビラを優しく舞い上げる中、菅野直大尉と部下たちは何事もなかったかのように歩き去っていった。
誰もその背中を止められなかった。




