第79話「至近接近 — 松山上空343空要撃戦」
昭和20年(1945年)3月23日 愛媛・松山上空
青空は澄み渡っていた。
春先の陽光が、紫電改の風防を鈍く照らしている。
松山基地を離陸した剣部隊の編隊は、静かに上昇を続けていた。
「敵機B-29、単機侵入中──現在、高度一万米」
無線が報告を告げる。
紫電改のエンジンは唸りながら、なお高度を稼ぐ。
先頭に立つのは、343空の誇る撃墜王──菅野直大尉である。
「全機、冷静に──私が寄せる。僚機は距離を保て」
無線に小さな緊張が走ったが、誰も異を唱えなかった。
菅野の命令はいつも沈着で、無駄がない。
上空、銀色の巨体──B-29が悠々と進んでいた。
防御砲座の銃身がこちらを向くのが、遠目にも分かる。
だが菅野は機首をわずかに下げ、じわじわと距離を詰めていく。
極限の接近であった。
B-29の右翼端から、わずか数十メートルの位置まで迫る。
銃座が火を噴いたかに見えた。
通常であれば、12.7ミリ弾の曳光弾が鋭く機体を薙ぐはずだった。
だが──
「……!」
バラバラバラッと乾いた微かな音が、風防を叩いた。
菅野は僅かに息を呑んだ。
(違う──これは弾丸ではない)
激しい振動がキャノピー全体に伝わった。
まるで無数の小粒が機体を叩きつけるようだった。
だが、割れもせず、傷も生じない。
菅野は咄嗟に計器を確認した。
異常はない。機体も、操縦系統も、全く無傷だった。
振動はしばらく続き──そして止まった。
次の瞬間、B-29の側面銃座が突然沈黙する。
(……あの話は、本当だったのか)
思わず菅野の脳裏に、先日佐世保の隊員から耳にした奇妙な噂が蘇る。
──「奴らの撃つ弾が弾丸じゃない。粉のようなものが降ってきた」と。
正面では、B-29がゆっくりと機腹を開き始めた。
再び白い紙片が降り始め、間を縫うようにキラキラ光るものが落ちている。また甘味物だろうと感じた、
菅野は静かに呟いた。
「今日も──米軍は紙と飴を降らしているだけだ」
そのまま機体を僅かに右へ逸らす。
機銃の照準はとうに定まっていた。
引き金さえ引けば、B-29は今この瞬間、撃墜可能であった。
だが──
(奇妙な戦争だ……)
戦場にあるべき殺気が、なかった。
(機銃座にいるアメ候は、確かに俺に殺意を向けた…しかし、俺は死んでいない。戦は結果だ、殺し合いをしているはずだ…なのに俺はこの引き金を引くのを躊躇っている…)
不気味な静けさだけが、高度一万米の薄い空気の中に漂っている。
「全機、聞け──敵に攻撃の意図なし。撤収する。被弾なし」
菅野は穏やかな声で命じた。
部下たちの安堵の声が無線に溶けた。
「了解──異常なし。帰投します」
僚機の紫電改たちが、菅野機の後に続きながら、静かに旋回を開始した。
高度を下げながら振り返ると、遠くB-29はなお紙片と甘味を静かに振り撒いていた。
「……まるで神隠しにでも遭っているようだな」
誰にも聞こえぬ独白を残して、菅野直大尉は松山の空を後にした。




