第78話「静かな空襲」
昭和20年(1945年)3月22日 大阪市内 正午過ぎ
サイレンは、今日も決まり切ったように鳴り響いた。
機械的に回る警報塔のスピーカーが、「空襲警報発令」を繰り返していた。
だが、逃げ惑う人の群れは──もはや、ほとんどいない。
曇天の昼空を、銀色の一点が静かに進んでいた。
B-29──たった一機。
高すぎる。
目視できるぎりぎりの高度だ。
十二糎高角砲隊の高射指揮所も、今は静まり返っていた。
兵たちは照準装置の前に座ってはいたが、誰も砲尾に手を掛けようとはしない。
「……無理ですな」
高射砲小隊長の村山中尉が呟き頭を左右にふる。
「今日も届きませんな。あの高さでは、撃っても無駄弾になるだけです」
背後で副官が低く応じた。
「先週の大規模空襲以降、すでに砲撃命令も半ば停止状態です。もはや発射すら行っておりませぬ」
村山は空を見上げた。
B-29は、悠々と通過していく。
編隊も伴わず、迎撃機も寄せ付けず。まるで、見下ろすように日本の都市の上を流れていく。
――静かだ。
名古屋の空襲では、低高度での侵入により、砲声が轟き、砕け散るB29の爆炎があちこちで上がったと聞く。
だが今は、ただ一機の爆撃機が、毎日、高みから何かを撒き続けるだけだった。
「……来ます」
副官が双眼鏡を眺めながら、くだんの機体を指差した。
B-29の機腹が開き、何かを投下する。それは半分程度落ちると蓋が割れ、白い帯のようなものが舞い降り始めた。
ビラだった。
そしてその間を縫うように、色とりどりの粒が風に踊りながら落ちてきた。
飴玉。金平糖。キャラメル。ゼリー菓子。
大阪市街のあちこちで、子供たちの歓声が上がった。
「出た!飴玉や!」
「こっち来たで!」
「拾え拾えー!」
小さな手が空へ伸びる。
風に流された紙片と甘味の粒が、まるで春の雪のように舞い落ちていた。
狭い路地を駆け回る子供たちの姿は、空襲下とは到底思えぬ風景だった。
年寄りたちは、軒先に腰を下ろして眺めていた。
ただ黙って空を見上げ、時折ため息を漏らす者もいた。
「……わからん戦争やな」
「爆弾の一つも落とさんで飴撒くなんて、どんな魂胆やろうな」
「わしらにはもう、よう分からん」
「戦争、どないなってしもたんやろな」
「やめるならやめたらええ…」
避難壕も開け放たれ、防空壕管理係すら警報を止めに行こうとはしない。
役所の防空本部も、もはや警報解除のタイミングだけを機械的に待つようになっていた。
大阪の昼下がりは、不気味なまでに平穏だった。
市電の線路では、一部区間で普通に電車が動いてすらいた。
上空を、B-29は再びゆっくり旋回し、やがて南西の空へと消えていった。
誰もそれを追いはしなかった。
砲声の無い空襲。
爆煙の無い空襲。
焼ける街も、爆発音も、今は無い。
だが確かに「空襲」であった。
人々の胸中に、戦時下という緊張感が解かれていく、得体の知れぬ不安だけが静かに降り積もっていった。




