第74話「呉の空」
1945年3月18日 9時20分 日本・呉軍港上空
呉軍港。
瀬戸内海の静かな朝を、海面を滑る艦影が縫っていく。
戦艦「伊勢」「日向」「榛名」「長門」、重巡、駆逐艦群──未だ動かぬ艦隊が係留されていた。
海軍呉鎮守府第一部屋上に、双眼鏡を手にした男がいた。
第三艦隊参謀・高村中佐である。
その隣で、通信員が緊迫した声を上げた。
「高村殿、敵大型機1、呉市上空へ侵入中! 進路南西から!」
「機種確認は?」
「B-29──1機単独です!」
高村は双眼鏡を空へ向けた。
陽光に輝く銀色の機体が、雲の上を悠々と進んでいく。
敵大型爆撃機の単機侵入──この奇妙な行動が、ここ最近頻発していた。
(何を考えている……?)
だが、視線の先で次の動きが始まった。
「……紙束だと?」
B-29の機腹が開き、大量の白い紙片が瀑布のように撒き散らされた。
高村は思わず顔をしかめた。
「またビラ撒きか……」
通信員が叫ぶ。
「高射砲隊、対空射撃開始! だが……高度届かず!」
当然だった。
敵機は一万メートル近い高空を維持していた。
九九式八糎高角砲も十二糎高角砲も、実効射高は限界に達している。
さらに、無線が叩き付けるように続く。
「零戦編隊、上昇中──しかし敵高度に届きません! 一式陸攻も離陸準備中!」
高村は歯噛みした。
零戦五二型の実用上昇限度は約11000メートル──だが、実戦ではそこまで到達するまでに時間がかかる。
まして上昇中に酸素欠乏と冷却問題がつきまとう。
「あれを叩き落とせる航空隊は……今、我が方にはない」
高村の脳裏に苛立ちが渦巻く。
戦艦群を守るはずの対空陣地は、今や形骸化しつつあった。
(奴らは分かっている。撃ち落とせぬ高度で、堂々と現れ──降伏を迫るビラを撒く)
上空で舞う白い紙片は、海風に流されながら呉市街全域に降り注いでいく。
高村は双眼鏡越しに、見ている。連日かくちに巻かれているのだ、内容は全て同じ…
その紙面にはこうある。
──『次は貴方の町だ。退避を勧告する。米陸軍第21爆撃集団司令部』
更に下部には、M69焼夷弾の分解図と燃焼試験写真。
文字はこう続いていた。
『この兵器が貴国の都市に投下され続けている。抵抗は無意味である。非戦闘員は退避せよ』
高村の胸中に、怒りとも、諦めともつかぬ感情が込み上げた。
(焼夷弾?──貴様らはそう言うが……)
(落としているのは、甘味ばかりではないか──キャラメル、砂糖玉、金平糖……)
(だが今、焼夷弾だと……攻撃をしている?どこに落としている…次はここだと丁寧に都市名まで……)
(じゃあ今までのは、何だった?──爆発もせず、燃えもせず、ただ積もる甘味──)
(この尽きぬ疑問こそが、我々を最も苦しめている)
市街の上では、既に民間人たちが空から降る紙片を拾い集めていた。
とても空襲警報下の行動とは思えない…
年寄りも、兵事係も、憲兵も──皆が混乱しながらも、もう慣れたかのように紙片を読み上げる。
子供などは甘味がいつ落ちてくるのかと楽し気に空を指さし、敵機を見つめる様子も見られるではないか…
迎撃に上がった零戦編隊は、やがて高度不足のまま旋回し、無力に降下していった。
呉の空は再び静寂に包まれる。
高村は拳を強く握り締めた。
「……黙らせろ。黙らせる手段を、早く作れ……」
その声は、呉軍港の重たい空気に吸い込まれていった。




