第73話「心理戦の提案」
1945年3月16日 14時02分 サイパン島・第21爆撃集団司令部作戦会議室
分厚い防音扉が閉じられると、作戦会議室には重苦しい沈黙が流れた。
カーティス・ルメイ少将は正面の椅子に腰を下ろし、葉巻に火をつけた。
その前には、作戦参謀、情報将校、心理戦担当官、航空写真分析官らが整列している。
「状況は変わらん。」
ルメイが開口一番に切り出した。
「高高度、低高度、爆弾種、誘導法──いずれも爆発しない。目標は無傷のままだ。原因は依然不明だ。」
誰も反論はできなかった。
「だが──作戦を停止するわけにはいかん。そこで、今日の議題だ」
視線が心理戦担当のモリソン少佐に集まる。
少佐はやや緊張しながら、手元の資料を掲げた。
「閣下、ご提案申し上げます。現状、実戦火力では敵の工業力破壊は困難です。ですが──心理的圧力は依然として活用可能です」
「……具体的に言え。」
「ビラの投下拡大を提案します。既に小規模に実施されている降伏勧告ビラの形式を改訂し、次回爆撃予定都市を名指しで列挙し、避難勧告を発する。これにより敵民心を直接揺さぶります。」
モリソンは次いで、別の書類を掲げた。
「さらに今回は──実際の焼夷弾の写真と威力説明 を添付します」
写真には、M69焼夷弾の分解図、着弾後の通常燃焼写真が鮮明に収められていた。
米軍試験場で撮影されたものだ。
「米国が保有する兵器の破壊力を視覚的に認識させ、敵戦意を挫く狙いです。特に民間人の避難行動を促し、敵政府への圧力となるでしょう。」
参謀長のベネット大佐が顔をしかめた。
「少佐、それはやり過ぎではないか? 日本人は女性も子供も多く都市に残っている。都市丸ごと焼き払う予告文書を撒くとは、あまりに非人道的だ」
「彼らは既に真珠湾を攻撃しました。我々に同情する必要はない。」
情報部長ハドソン中佐が冷たく言い放つ。
だが、もう一人が重く言葉を継いだ。作戦参謀ローレンス中佐だった。
「閣下──今後戦後処理を考慮すれば、こうした文面は後々国際法上の批判材料になりかねません。無防備な市民に対する"焼夷弾の予告"とは──戦争犯罪と主張される危険性もございます」
その言葉に、一瞬、会議室が静まった。
ルメイは無言で葉巻の先を見つめた。
煙がゆらりと天井へと昇っていく。
(……だが、私は何もできていない)
3月10日から、すべてが狂い始めた。
原因は不明、効果は出ず、上層部は次の戦果を要求している。
その中で、代替策を拒否する理由は──もはや存在しなかった。
そして、ルメイは思考の奥底で独白した。
(──この紙面に載せる内容は、本来なら日本人には骨身に沁みているはずだ。3月10日、東京の上空から我々が何を落としたのか──奴らは嫌というほど知った)
(だが、実際はどうだ? 家一軒、焼くことすらできていない)
(爆発しない爆弾ほど、威力が不鮮明なものもないだろう。敵がこの写真と威力図を見て、本当に恐怖するのか──それすら分からない)
「……やる。」
静かな声だった。だが全員が息を呑んだ。
「今、我々が手にできる唯一の効果だ。戦果が出せぬなら、せめて心理的圧迫を与える。市民が避難し、日本政府が動揺すれば、それも作戦成果だ。」
ベネット大佐が食い下がる。
「閣下、ホワイトハウスへの報告は──」
「私が責任を取る。」
ルメイはきっぱりと断じた。
「文面はモリソン案を採用。ただし"避難を勧告する"との文言は残せ。"我々は次の都市に爆弾を投下する"。焼夷弾の威力を明示し、警告として機能させる。」
静まり返った会議室に、ペンの走る音だけが響いた。
(何もできぬよりは、動かねばならぬ)
葉巻の煙の向こうに、ルメイは己の責務を見据え続けていた。




