第16話「最初の異変」
1945年3月10日 午前1時40分――
東京都下、浅草区。
夜空に響くサイレンの咆哮が、町内を貫いていた。既に何度も繰り返されてきた空襲警報だ。だが今夜は、いつもと何かが違っていた。
「落ち着いて!順番に防空壕へ!」
町内会長の田島源蔵は、提灯片手に人々を誘導していた。
婦人会の人々が子供を抱え、老人たちが必死に肩を貸し合って走る。
その頭上――
一機の巨大なB-29が、火を噴きながら墜落していくのが見えた。
「危ない!伏せろ!!」
次の瞬間――
ゴォォォォォン――!!
鈍い衝撃音とともに、B-29は区内の寺院裏手の空き地に墜落した。
爆発音は思ったより小さかったが、衝撃波でガラスが割れ、木造家屋がぐらりと揺れた。
「消火班、急げ!」
男たちが手押しポンプを押しながら駆け付ける。
墜落現場では機体の残骸が赤く燃え、機油が流れ、炎が草地をなめていた。
「火が広がるぞ!水を回せ!」
桶から水を撒き、砂を投げ、濡れ布で消火する。
空襲下の簡易消火は、もはや町内の日常業務と化していた。
「お母さん、空からなにか降ってくる……」
寺の裏手、防空壕へ避難していた少女・美代は、空を見上げて呟いた。
確かに、夜空から次々に光が落ちてくる。
普通なら焼夷弾M-69が火球となって撒き散らされるはずだった。だが――
「火が、ついてない……?」
母は少女の肩を抱き寄せた。
「大丈夫だから!伏せて!」
だが少女はそのまま両手で空から降ってきた物体を受け止めた。
ゆっくりと手のひらに落ちてきたのは――
小さな四角い物体。
紙に包まれたそれは、ほんのりとした甘い香りを漂わせていた。
「これ……お菓子?」
包み紙には薄く英語の文字が印字されていた。
"CARAMEL"
その時、消火に奔走していた田島源蔵も異様な光景に気づいた。
「……あの爆撃で、火災が起きていない……?」
彼は空を仰いだ。
焼夷弾の雨が降るはずの市街に、まるで霧のような白い粒子が漂っていた。
煙の代わりに、甘いような、妙な香りが混じる夜気。
「何が……起きているんだ……?」
誰も、説明できる者はいなかった。
こうして、東京の空に――
「おかしな戦争」の最初の異変が、静かに忍び寄り始めていた。




