炎の実験
1943年7月、マサチューセッツ州・ハーバード大学敷地内。
臨時に建てられた広大な実験場に、奇妙な光景が広がっていた。
実験場の中央には、日本の民家を模した木造家屋が建てられている。障子、畳、瓦屋根。文化人類学者が参考資料として提供したという念の入れようだった。
「準備よし!」
技術主任のルイス・フィーザー博士が声を上げた。彼はこのナパーム開発計画の中心人物だった。軍服姿の視察官たちが緊張した面持ちでその様子を見つめている。
「これが新型のM69焼夷弾です。従来のガソリン系焼夷弾に比べ、粘性が高く、酸素により激しく燃焼します。標的内部まで燃え広がる構造です」
フィーザーは熱心に説明する。
「よく燃えるのかね?」
陸軍から派遣されたカーチス・ルメイ准将が尋ねた。のちに日本本土空爆を指揮する男だ。
「ええ、まるで家屋全体が蝋燭になります」
視察団の最後列に、他の誰とも異なる男が立っていた。
ジョン・アンダーソン。未来からこの時代へ送り込まれた観察者である。
《これが、彼らの正義か……?》
アンダーソンは目を細めた。彼の眼前で、米軍の火炎実験が始まる。
点火装置が作動し、ナパーム弾が落下する。
液状の燃料が一瞬にして広がり、粘性の高い火炎が家屋の隙間を這い上がってゆく。木材が黒煙を噴き上げ、障子が瞬時に消し飛ぶ。瓦は熱で弾け、炎は高く舞い上がる。
「よく燃えてるぞ!これなら東京の木造家屋も丸焼けだ!」
視察官の一人が叫んだ。
ルメイは満足げに頷く。「これだ。これで奴らの士気を叩き潰せる」
アンダーソンは一歩、後ずさった。
目の前の地獄の炎は、まるで生き物のように蠢いていた。
《人間は、ここまでやるのか……。破壊のために、これほどの工夫と知恵を費やして》
彼の心に重苦しい声が響く。
本来ならば、この炎が日本の都市を焼き尽くし、数十万の命が失われる。未来ではその記録を何度も目にしてきた。
だが彼は知っていた。未来は一つではないことを。
《本当に、これを放っておくべきなのか?》
周囲では拍手が湧き上がっていた。ルメイは軍用手帳にメモを走らせる。「これを大量生産だ」
フィーザーも笑顔だった。「科学の勝利ですな」
アンダーソンはじっとその光景を見つめる。
虹色のガラス瓶が彼のポケットの中で微かに震えていた。
《止めなければならないな……》
彼の眼差しは、すでにこの時代の倫理を超えていた。