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苦手な方はご注意ください。

メルセルヴィーテ帝国

メイテル・スティーユが結婚するまで

作者: 木月橘

『メイテル・スティーユが婚約できるまで』の続編です。


こちらから読まれる方向けあらすじ∶なんかめっちゃフラれまくってたけどメイテル遂に婚約できて心がぴょんぴょんしとるんじゃ〜〜


以上です。十割ほど惚気です。




 メイテルが婚約してから十日。彼女は今、幸せに包まれている。毎日幸せで溢れていた。

 何もかもが輝いて見える。

 メイテルにとっての唯一が一番輝いているけれど、それは他の人には分からなくていい。このままでいい。


 メイテルの婚約までの道程には多くの困難と心痛が伴った。十三から始まったお見合いの日々は、それからフラれ続けたせいで四年も続いたのだから。

 そんな日々だったが思い出す事はもう無い。

 だってそんな事を思い出しても腸が煮えくり返ったり、新たな世界への扉が逃げても逃げてもあちらから押し寄せてきたりするだけなのだから。靴選びからってなんだとか考えてはいけない。


 だって、メイテルは遂に婚約できたのだから。


 例え婚約打診の書簡を見た両親が、うちのメイテルに侯爵家から本気の婚約の申し込みなど来る筈がないと決め付け、「王家の印璽が偽装されている! 皇帝陛下へ通報しなければ!」と言って登城したとしても。

 例えその途中でルートオーリと行き会って「シシアード公子! 大変です、公子の名が悪用されております!」などと言って彼を盛大に困惑させようとも。


 結果的に婚約したのだからもうこっちのものだ。



「メイテル……」

「なんですか? どうしました?」


 ある日のランチタイム。メイテルはこの日もルートオーリと待ち合わせて学生用に開放されている中庭に居た。

 今日のランチはメイテルの好物のシチューパイ。

 最高だった。

 目の前には好物と大好きな彼。忙しい筈なのになるべく時間を合わせて、こうしてメイテルと会う時間を捻出してくれる。

 メイテルは毎日幸せだった。


「どうして日に日に生傷が増えていくんだ……」


 けれどルートオーリは絶望の淵に立たされているような顔をしている。

 メイテルのせいだ。正しくはメイテルの怪我のせいだ。


「顔は無事ですわ」

「顔以外も無事でいてくれ」


 メイテルはときめいた。同年代の異性からこんなに大事にしてもらえるのは初めてだ。

 どうして彼はこうもさらりとメイテルを喜ばせるような事ばかり言ってくれるのだろう。本人にはその自覚が無いのだから恐ろしい。今までよくぞ他の誰かに捕まらずにいてくれたものだと神に感謝する。


 メイテルは心の中で彼の好きなところを数えた。

 流石幼い頃から皇子に仕えているだけあって所作の一つ一つが綺麗。洗練されている。

 溜め息を吐く時の口元、瞬きする時の睫毛、項垂れた時に覗く首筋。困った事があると耳に髪をかける癖も好きだし、驚くと首が僅かに左に傾げられる瞬間も好きだった。

 照れると片手で目元を覆う仕草も大好きだ。


「……うっとりとした顔でこちらを見詰めないでほしい。何でも許してしまいそうになる」


 世界に向かって叫びたい。メイテルは今、世界に向かって叫びたかった。

 ルートオーリはかっこいいが過ぎる。


「仕方ないのです。私の足はすぐ段差に気に入られてしまいますの」

「また躓いたのか。かと言って足元をよく見るよう言うと壁や柱にぶつかるしなあ……どうしたものか」


 ルートオーリの思案顔もまた麗しくて、メイテルは見詰めるのを止められない。

 世界が聞いてくれないのならその辺の草木でも構わないから聞いてほしいくらいには、毎秒毎刹那ひたすらに惚気けて回りたいくらいだった。


「思うに、君は歩く時に少し摺り足気味なんじゃないかな。もう少し足を上げて歩くようにすれば多少はマシになるかも知れない」

「最近は地に足をつけた覚えがありませんの」

「完全に原因それだ」


 彼女なりに浮かれている自覚はある。けれども如何ともし難い。

 だって、毎日嬉しい。



 朝起きると目の前にルートオーリがプレゼントしてくれたテディベアがあって、起き上がるとすぐにルートオーリからプレゼントされたネックレスを付けて、朝は皇子殿下に付き添わなくていい日は毎日ルートオーリが迎えに来てくれる。

 彼のエスコートで馬車に乗り、学園に着いてからも時間が許す限り側にいて、始業前に教室までまたエスコートしてもらう。ランチは基本的に一緒。ランチ帰りはまた送ってくれる。


 授業終了後も仕事が無い日は一緒に帰ってくれるし、必要があれば図書室にも付き合ってくれるし、城下へ買い物にも連れて行ってくれた。

 テディベアはこの時に買ってくれたものである。

 メイテルが通りがかりに一言「可愛い」と言ったから。そんな理由でプレゼントしてもらった時は天に召されそうだった。


 休日だってメイテルが望むから一日に一度は顔を合わせられるように都合を付けてくれる。メイテルから会いに行く時もあれば、ルートオーリが来てくれる事もある。

 皇子殿下が気を遣ってくれているらしく、学園の休日とルートオーリの休日をなるべく合わせるようにしてくれていると、どこか感慨深そうな様子で教えてくれた。

 メイテルは毎晩、皇宮に向かって感謝の念を送っている。


 だから休日は二人でとことん出掛けた。

 休日のデートは基本的にルートオーリの方が意気揚々としている。もう我慢しなくていい、隣にいるのは自分だ、自分の為にメイテルは着飾ってくれているのだと、それはそれはもう嬉しそうに笑ってくれる。

 その度にメイテルの胸はきゅうっと高鳴った。

 毎日身に着けているネックレスも、日替わりで使っているリボンもハンカチも、全てこの時にメイテルの好みを聞きながら彼がプレゼントしてくれたものだ。


 ルートオーリは言う。

 彼の贈った物を身に着けているメイテルを見ると安堵するのだと。他の誰でもない、己がメイテルを手にしているのだと実感できると、そう言う。



 メイテルだって負けていない。彼女だって彼を幸せにしたいのだから。

 ルートオーリの使用するハンカチとタイは全てメイテルがプレゼントしたものだし、彼の好みを聞きながらカフスボタンやタイピンも贈った。

 ルートオーリと婚約してから爆発的に刺繍の腕が上がったと、メイテルは自画自賛している。事実だ。


 中でもメイテルが力を入れているのは彼の靴。

 好みとサイズを聞き出してからは、そこへメイテルの独断と偏見と好みをここぞとばかりに上乗せして押し込んだ靴を何足もオーダーしている。

 今はまだ一足しか出来上がっていないけれど、お気に入りの工房に発注したからきっと良い物が仕上がってくるだろう。その日がメイテルは今から楽しみだった。

 メイテルが贈った一足をいつまでも飾って眺めてばかりだったから、お願いだから履いてくれと頼み込んだ。それからルートオーリは毎日履いてくれている。

 毎日同じ靴とか聞いた事が無いので本当に早く他のも仕上がってほしいと、メイテルは毎晩お気に入りの工房に向かって祈っていた。今までの靴はどうした。


 憧れていたと言うから週に何度かお弁当なるものを作っている。両親の許可を得た上で厨房に立ち、料理人達に教えを乞うているが、これが中々楽しい。

 お世辞だと分かっていても筋が良いと褒められると嬉しかった。

 メイテルがお弁当を作って行くと毎度のように感激してくれるルートオーリもまたメイテルを喜ばせる。

 ルートオーリも一度作って来てくれたが、話し合いの結果『腕が上がるまで料理は禁止』で合意した。そんな味だった。

 交代で作ってこようと話していたが、初回で撤回となった。互いに完全合意の決定である。胃と食材は大切にしよう。



 毎日嬉しくて幸せで、婚約してからずっとメイテルは一度として地に足がついている気がしていない。物理的に。

 ずっとふわふわとした感覚に包まれている。


「メイテル、メイテル。お願いだからしっかりしてくれ。僕と婚約したせいで生傷が絶えないなんて自分が許せない」


 間違っても彼にこんな顔をさせたかったわけではない。


「……ごめんなさい。気を付けます。嬉しくて、幸せで、楽しくて、毎日ずっとその繰り返しで……夢みたいな気分なんです。ごめんなさい。でも、幸せを沢山ありがとうございます」

「んっ……、んん。……うん。そう言ってもらえるのは僕も嬉しい」

「でも、でもでも! 壁も柱も段差も、いい加減そろそろ私を避けてくれても良いと思いません?」

「彼らの方が遥か昔からそこにある。しかも自ら移動など出来ない。君が譲歩してあげよう」

「それもそうですわね。努めてそうします」


 メイテルの説得に成功したルートオーリは、酷く安堵した様子だった。






 メイテルが婚約してから半月。彼女は今、同学年の女生徒達に囲まれている。周囲は怒気で溢れていた。

 はちゃめちゃに怒ってらっしゃる。

 ルートオーリがいない日のランチタイム、メイテルは侯爵令嬢のケリーを始めとする高位貴族一派に呼び出され、学生用のオープンガーデンの奥に連れて来られていた。

 ああ、ここはルートオーリに膝の手当てをしてもらった場所だ。

 その時の事を思い出すと頬が緩んだが、目の前の怒れる令嬢ケリーの怒りが増すとそれもすぐに引きつった。


「あ、あ、の……ケリー様」

「何かしらメイテル様」

「何かございました?」

「あら。何か? 何かですって? 何も無い事が問題なのだとご自覚はなくって!?」


 どうやらメイテルは地雷を踏んだらしい。美人が怒ると本当に怖い。


「落ち着いて下さい、落ち着いて下さいケリー様。ゆっくりお話をお伺いしようと、そう決めたではありませんか」

「……そうね。そうだったわね」

「深呼吸ですよ、深呼吸。すー」

「すー」

「はー」

「はー」

「すー」

「すー」

「はー」

「はーぁぁぁあああああ駄目だわ何も変わらない」

「では、代わって私が。……ねえ、メイテル様」

「はい、イリア様」

「私、爵位の違いはあれど、貴女の事は友人だと思っておりましたの」

「それは……はい。身に余る光栄ですが、嬉しく思っておりますわ。おこがましくも私も同じように思っております」

「ならば何故、今日に至るまで婚約された事を教えて頂けなかったのかしら?」

「え……、あれ?」


 メイテルは驚いた。

 言っていなかっただろうか。ケリー達には一番最初に言った気がするけれど、果たして言っていなかっただろうか。


「こうして連れ出して問うまで忘れられていた程度の間柄だったのかしら、私達」

「とんでもございません! すみませんすみません、話したつもりになっておりましたの!」


 何故だ。何故そんな勘違いをしてしまったのだろう。なんでそんな風に思い込んでしまったのか。


「あ……」

「なにか?」

「あの……実はですね、わが家に届いた婚約の申込みの書簡を見た両親が、皇帝陛下の印璽を偽装し詐欺を働いている輩がいると勘違いしまして」

「どうしてそうなるの?」


 ご令嬢達は驚いた顔も可愛くて綺麗で凄いな。ただでさえ大きな目を更に大きくさせている彼女達を見ながら、メイテルはケリー達に釈明した。




 両親が盛大な誤解をしたその日、メイテルは皇宮に居るルートオーリから呼び出された。

 知らせと共に来た馬車で向かうと、そこにはルートオーリからの婚約申込み書簡が新手の詐欺だと憤慨している両親が居た。ルートオーリだけでなく皇宮で働いているであろう役人らしき人達まで巻き込んで、公子の名が悪用されていて大変だと怒りに燃えていた。


「メイテル」


 そんな両親の前で、ルートオーリはあえてメイテルを名で呼んだ。

 氷が凍るよりも分かり易くメイテルの両親がピシリと固まった。豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしている。


「はい、ルートオーリ様」

「スティーユ子爵、並びにスティーユ子爵夫人。その書簡は偽物ではありません。誠、私がお送りしました。冗談でも嘘でもありません。本気です」


 呼ばれたメイテルがルートオーリの隣に並ぶと、彼は胸元に手を当てた丁寧な姿勢で、間抜け面の鳩二匹……もとい、メイテルの両親に語り掛けた。


「守護神の代理たる天上人、皇帝陛下を始めとする皇族の御座す宮殿にて誓います。私の全てでもって彼女を慈しみ、愛します。どうか貴方方の大事なご息女との婚約をお認め頂きたい」


 この時のルートオーリのかっこよさを表現できる言葉をメイテルは持ち合わせていない。

 だが、確実に撃ち抜いた。メイテルの心は元より、メイテルの両親やその場に居た者達の全ての心を。しばらくは誰も口を開けないくらいには、その場に居た誰もがルートオーリに見惚れた。


「う」


 しばらくしてようやく口を開いたメイテルの父が発したのは、その一文字だった。


「……お父様?」

「うちの娘で良ければ喜んで!」


 嬉しいし有難いけれどもう少し惜しんでくれても良かったと、後のメイテルは思い出す度に思った。

 けれど致し方ない。あのルートオーリは心も頭もフルスイングで撃ち抜くほど魅力的だったのだから。


「ありがとうございます」

「ま、まさか皇子殿下の侍従を務められる御方に見初めて頂けるとは露ほども思わず……」


 メイテルの母も大混乱だった。


「呼んだ?」


 そしてまさかの皇子殿下ご本人のご登場にルートオーリ以外の誰もが息を止めた。

 皇子殿下お一人ではない。その侍従や護衛である騎士達も揃い踏みだ。壮観過ぎて夢なのではないかとすら思えた。

 そう言えば前にも同じ事があった。

 確かに同じような事はあったけれど、あまりにも遠い世界の人過ぎて半分夢だと思う事にしていた。していたのに、またもいきなり現実に現れてしまった。

 そうだ、ここは皇宮。皇子殿下からしたらご自宅。そりゃ居るに決まっている。同じ床を踏み締めている。どうしよう。


「なに。呼ばれた? それとも兄上達を呼んだ? エム兄上なら今ちょうど父上の所に居るけれど、他はどこにいるか分からない」

「いいえ、話題に出ただけですよ」

「そう。そちらの方々は?」

「スティーユ子爵夫妻です」


 ルートオーリに突然紹介されたメイテルの両親は、声も出せずひたすらに頭を下げた。ぺこぺこぺこぺこと下げ続けた。まるで鳩のようだ。

 皇子殿下ともなると小さな子爵家の者などがそう簡単に会える存在ではない。実際メイテルの両親も夜会以外で皇族を目にする事などなかったし、声を聞く機会すらなかった。

 末の皇子殿下は皇帝陛下によく似ている。それもあって子爵家一家の緊張はピークに達し、畏れ多過ぎて恐縮し震えた。


「ああ、そうか。陛下にご挨拶? 婚約おめでとう。ちょうど姉上からの伝言があったんだ。ルートオーリの婚約なら北の大地で産出した宝石を是非祝いに渡したいって。前に見せた時、気に入っていたらしいね」

「はい。綺麗な宝石でした。ありがとうございます」

「ルートオーリの瞳と同じ色の石だけ保管してあったから何かと思ったけど、この為か」

「指輪に使いたい色だと話していたのを覚えて下さっていたのですね。有難いです。婚約指輪に使用させて頂きます」


 さらりとルートオーリが言った言葉に、メイテルは思わず目を剥いた。

 誰の、何が、何だって? もしかしてその指輪はメイテルが着けるものか? と聞きたいけれどあいにく彼は皇子殿下とお話中だ。絶対に邪魔できない。


「いいね。姉上も喜びそう。次の食事会の時にでも本人から直接受け取ってほしいけど、明後日になったんだよな。休みの予定だっただろ? 来れる?」

「伺います」

「それなら今日はもう帰って良いよ」

「大臣達との会食は如何致しますか?」

「そろそろ新入り達を一人立ちさせよう。お前達、できるな?」

「はい、承知致しました」

「だそうだ。今夜の会食には皇太子殿下もいらっしゃる。僕はオマケだ、問題無い」

「そうですか、畏まりました。ありがとうございます」

「うん。じゃあね、スティーユ子爵家の方々」


 颯爽と去ってゆく皇子殿下を、メイテル達は声も出せずに見送った。


「お」


 しばしの沈黙の後、メイテルの父が発したのはやはり一文字だった。


「皇子殿下だ」

「皇子殿下でした」

「皇子殿下でしたね」

「びっくりした」

「びっくりしましたね」

「どうしよう震える」

「メイテル、お前、皇女殿下の地で産出された宝石の付いた指輪が婚約指輪になるらしいぞ。厳重に保管しような」

「はい、勿論」

「いやいや、着けて下さいね」

「はい、勿論」

「万が一その指輪に傷でも付けたら一族郎党根絶やしになろうな」

「はい、勿論」

「皆さん揃って生きて下さい。大丈夫ですよ、お優しい方ですから。それより、せっかく私も休みになりましたしメイテルのご両親もいらっしゃる。このまま婚約書類の提出へ行きましょう」

「はい、勿論」


 にこやかに笑んだルートオーリに案内された先には皇帝陛下と第二皇子がおり、メイテルは思わず両親と揃ってその場に跪いた。すぐに立ち上がらされた。

 二人揃って祝福してくるものだから、たぶん魂が幾つか抜けただろう。その場でメイテルもメイテルの両親も婚約誓約書に署名をした。

 メイテルの横から皇帝陛下も腕を伸ばして署名する。絶対に一瞬失神した。文字通り婚約は秒で認可された。


 あの時の事は控えめに言ってあまりメイテルの記憶には無い。半分以上は気絶していたからだ。

 スティーユ家の人々は大混乱だった。なんて日だろう。夜会でも式典でも何でも無いのに皇家の御方に立て続けに会ってしまった。三人だぞ、三人。しかも内お一人は皇帝陛下。控え目に言って息の仕方が分からない。

 スティーユ家側の署名は字が震えていた。




「その後、皇宮で会う人会う人に詐欺に騙されないようにと言って回っていた両親のせいで、一人一人に詐欺ではありませんでした申し訳ありませんと謝罪して回っていたのです」

「ま、まあ……大変だったわね」


 そう、大変だった。本当に大変だった。

 せっかく婚約できたのに「すみません。ごめんなさい」と言い続ける婚約報告の挨拶になってしまったのだから。


「憧れの婚約報告の筈だったのに、ずっと謝罪し通しで……、何だか切なくなってしまいましたの」

「それは……なりもしますわねえ」

「はい。だから、ずっと心の中ではケリー様達に報告をしていました。謝罪を繰り返しながら、頭の中ではケリー様達にこそ報告したい、真っ先に報告したかった、こんな風に話したいなって想像ばかりしていて……」


 これがケリー達への報告ならどれほど良かっただろう。そう思いながらメイテルは両親の暴走を各所に侘びていた。

 ずっと隣にルートオーリが居てくれて、本当にどれほど心強かったことか。


「だから、ごめんなさい。心の中でですけど、何度も何度も繰り返し色んなパターンでご報告させて頂いていたものですから、あの日の衝撃の数々も相まって現実ではご報告していなかった事に気付いていませんでした」

「…………」

「……あの、本当にごめんなさい」

「違うの……違うのよ、違うの。……メイテル様、貴女……それはつまり、ずっと私達の事を考えてくれていたということよ? 私達を心の支えにしていたと言っているも同義よ?」

「正にその通りですわ!」


 気持ちが伝わったようでメイテルは嬉しかった。

 話せば分かってくれるとは思ってはいたが、本当にいつもちゃんと話を聞いてくれる。そんなケリー達がメイテルは大好きだ。


「ああ、もう! なによ! だから貴女はずるいのよ!」

「なによ! お祝いよ、食べなさいよ!」

「なによ! 私達のこと全く忘れていないじゃないのよ! どういうことよ!」

「なによ! 可愛いのよ、貴女! 本当に可愛いのよ! なによ!」


 その日メイテルは、ケリー達が学園の各所に許可を得て持ち込んだ特別仕様の婚約祝いケーキを振る舞われて、心から存分に堪能した。

 感極まった様子のケリーが突然泣き出して、「良かった。本当に良かった。いい人と幸せな婚約が出来て良かった」と繰り返すものだから、スティーブの騒動の時ですら泣かずに毅然としていたあのケリーが子供のように泣くものだから、つられてメイテル達も少し泣いてしまった。

 甘くて、少ししょっぱくて、世界一美味しいケーキだった。






 メイテルが婚約して三ヶ月。彼女は今、ダント男爵子息とビビアナ子爵令嬢と相対している。事態は逼迫していた。


「なんです? つまり、甚振る上で最も大切なのはサービス精神だと仰るの?」

「ええ、そうですわ。一部の勘違いした者達が偉そうにしたりとにかく痛めつけたり……そう言った事が支配者側だと勘違いしておりますが、それは大きな間違いですの。SとはつまりサービスのS。身勝手な己の衝動に抗えない者は失格でしてよ! 相手が何を求めているのか見定め適当に応える……それが真の甚振り!!」

「流石G.S!」


 ビビアナの力説にダントが感涙しながら拍手を送る。力強い拍手だった。

 何度聞いても、何を聞いてもメイテルには理解できない世界である。


「何も分からないなりに理解しましたわ」


 世界は広いのだとメイテルは痛感し、神妙に頷いた。


「ご理解頂けて何よりですわ。それより、スティーユ様。ご婚約されたと伺いましたわ」

「はい、シシアード家のルートオーリ様です」

「誠良い縁ですこと。心からお祝い申し上げますわ」

「おめでとうございます」

「ありがとうございます! ……あの、良い縁というのはもしかして──」

「ええ、彼からはそこはかとなくサービスの気配がしますわ…………」

「な、なんですって!?」

「彼自身は気付いていない。けれどあれは確実に影の支配者たる器。サービスにも種類がありますの。あたくしのような後天的に刻み込んだ者、相手の反応を重視する者、脊髄反射を楽しむ者……本当に様々でしてよ。彼はきっと表には出ず影から全てを支配する者」

「わ、わあ。ぴったり……」

「メイテル?」


 最近になって聞き慣れ始めた声に呼ばれて、正に今その人物の話をしていた一同はびくりと震えた。


「ルートオーリ様……」

「メイテル、そんな隅で何を……ダント男爵子息?」

「と、婚約者のビビアナ様ですわ。私達の婚約の話をお聞きしたそうで、お祝いのお言葉をくださっていましたの」

「この度はご婚約、誠におめでとうございます」

「良い方と巡り会えた幸福について話しておりましたの。おめでとうございます」

「ああ。それはどうも」

「では、あたくし達はこれで」


 ほほほほほと笑いながらビビアナがダントを連れて去って行く。去り際のビビアナにぱちんとウインクされて、メイテルは思わずときめいた。

 サービス、凄い。


「メイテル」

「はい」

「何故僕は、ダント男爵子息に潤んだ瞳で見詰められていたんだ」

「世界は広いのです」


 サービス側の素養有りだと勝手にみなされたせいで、受け取る側の素養しかない人物から憧れを抱かれただなんて、とてもとても直ぐには言えなかった。メイテルはいつ、どう言おうか悩みに悩んだ。

 メイテルが悩んでいる間にルートオーリは一人正解に辿り着き、絶対にそちら側へは行くなと強く引き留められた。頼むからここで止まってくれと。

 その時の力強い腕にうっとりとした事は、瞬時に見破られた。






 メイテルが婚約してから半年。彼女は今、聳え立つ本の山々と向き合っている。どう考えても山脈にしか見えなかった。

 今日ルートオーリはいない。

 仕事があるから学園帰りにそのまま皇子殿下と共に皇宮へ行くと言うので、メイテルは学園内のみお供させて頂いて去り行く馬車を見送った。さながら気分は新婚である。


 皇子殿下の目がウルペース・フェリラタのようになっていることをメイテルが気にしていると、虚無を見詰めているだけだから大丈夫だとルートオーリが教えてくれた。

 それはそれで大丈夫なのか疑問だが、闇よりはマシとのこと。ルートオーリは本当に凄い。皇子殿下のことをとてもよく分かっている。

 尚、その皇子殿下は「姉上助けて──」と蹲っていた。姉弟仲がとても良いようで何よりである。



 その後は卒業論文の為の資料にと、本を手当たり次第に借りて借りて借りまくって読み込んだ。

 メイテルは今、働きたい女性の就ける職について調べている。そもそも就ける職が男性と比べて遥かに少ないという問題があるのだが、それが近年少しずつではあるが解消されてきているという。

 切っ掛けは皇后陛下。彼女は人の心の安寧に努める分野というものを確立させ、新たな職業を増やす事に成功したのだ。

 流石である。今ある職業に拘らず新たな道を切り開ける皇后陛下をメイテルは心から尊敬している。


 そして、本からの知識だけではなくきちんと自分の目で現場も見なければと決意した。久しぶりにフィールドワークに出ようと本から顔を上げる。

 そこで気付いた。山脈の存在に。顔を上げたからだ。

 この本の山を築いてしまった過去のメイテルは未来のメイテルに期待し過ぎである。

 え、本当にこの本は全部私が持ってきたの? そう考え込んでしまうほど、図書室にある学生用に開放されている自習スペースの一角には本の山脈が生み出されていた。


 現実を受け止めようとメイテルは決めた。

 少しずつ片付けていればいつか終わる。必ずいつかは終わる。

 とりあえず借りたい本だけ椅子に乗せると、その他の本を数冊ずつ本棚へ戻していく。こんなに沢山一人占めして申し訳ないと反省しながら戻す。もしかしたら他の学生もこの中のどれかを探していたかも知れない。二度としないとメイテルは反省した。

 なるべく早めに戻そうと気合いを入れて、メイテルはちょこまかちょこまかと図書室内を歩き回った。常連だから足音を消す術だけは自慢できる。


「一人で片付けているのか、スティーユ嬢」


 呼ばれて振り向くと、メイテルと同じように制服を着た男子学生が立っていた。

 これは誰だろう。


「君の婚約者は手伝ってくれないのか?」

「私が使用した物は私が片付けるのが筋でしょう。婚約者だからこそルートオーリ様に雑用なんてさせたくありませんわ」


 ああ、だから世の女性陣には夫の事なら些細な事まで代わりにやる人がいるのだろうか。未だ新婚気分のメイテルは未来の夫を脳裏に浮かべながらそんな事を思った。

 これが尽くしたいという感情か。なるほど。どこまで解放しても良いのか悩ましい感情だ。何でもしたい。


「だからって、こんなに重いものを女性一人に任せるなど、私には到底できないよ」


 どこか自己陶酔に浸った様子の男子学生は、髪をかき上げてからメイテルの持っていた本を奪い取った。

 一緒に居たら必ずルートオーリは手伝ってくれる。とんだ風評被害だ。本を持っているだけでこうした難癖を付けてくるなんて、こいつは正気かとメイテルは目の前の男の人間性を疑った。

 ルートオーリは世界一なんだぞ。謝れ。


「止めた方が良いと思います」

「遠慮しなくていい」

「貴方が遠慮してください。頭皮に触れた後の手で本に触れたら皮脂が付きます。控えて下さい」

「えっ」


 メイテルは腹を立てていた。誰だか知らない男にルートオーリが小馬鹿にされている。

 メイテルが腹を立てないわけがない。

 驚いている男子学生から本を取り返した。


「そもそも貴方に何が出来て何が出来ないかなど問うた覚えはありませんわ。何ですか、いきなり。何の用でして? どなたなんですの? 私がルートオーリ様と婚約しているとご存知でしたら声を掛けて来ないで下さい」

「スティーユ嬢、私を忘れたのか……?」

「忘れました」


 酷く狼狽しているが、そう言うならさっさと名乗れば良いのにとメイテルは更に腹を立てた。勿体ぶった言い方が一々癇に触る。

 的確に重要事項を述べられない奴は無能だ。

 ルートオーリを見習った方がいい。彼はとても優秀なのだから。


「本当に君は男を立てられないな。ホーウェンだよ、君と見合いをした」

「…………そう言えば」


 そんなのも居た気がする。確か。


「本気か?」

「何がですか?」

「本気で私を忘れていたと?」

「何故覚えてもらえていると思っていたのですか? ルートオーリ様と出逢った私が貴方を? 何故?」

「君を一人にするような奴だぞ!?」

「婚約者と始終ずっと一緒にいる人達がどこにいるのですか。有り得ないでしょう」

「こうして困って居る時に駆け付けられない男は頼りないと思わないか?」

「全く思いませんわ。私は一人でも自力でルートオーリ様に付いて行けます。常に導いてもらうのを待つばかりでは、皇子殿下の従者の婚約者になどなれませんの」

「……本当に、ああ言えばこう言う。相も変わらずなんて可愛気の無い」


 最早言い返せる言葉が見付からないようだ。メイテルを否定するしかなくなったホーウェンとやらに、メイテルはルートオーリから贈られた指輪を見せ付けるように突き出した。


「そんな私と共に在りたいと望んで下さったのがルートオーリ様です。可愛気なんて無い私は自力で彼の隣を死守しますわ。皇女殿下から婚約指輪用にと宝石を賜るほどの御方に望まれて、例え離れている時間があっても私は幸せです。ずっと幸せなの。いい加減な事をほざかないで」


 ルートオーリの瞳と同じ色に輝く宝石をしばらく見ていたホーウェンだったが、やがてメイテルから目を反らすとそのまま踵を返して去って行った。

 言った。言ってやった。言ってやったぞと、メイテルは少し興奮して深呼吸をした。

 それからすぐに今どこに居るのか思い出して、慌てて司書に謝罪をしようと辺りを見渡す。司書は、メイテルのすぐ後方にいた。


「あ、司書さん……」

「……助けは必要ありませんでしたね」

「図書室で騒いで申し訳ありません」

「貴女は始終声を抑えていました。対応にも問題はありません。よく堂々と振舞えましたね、素敵でしたよ」

「恐縮です……」

「差し出がましい事を申しますが、この事はご婚約者さんには一言でも報告を。その方がきっと何も知らないよりは有利に動けるでしょう」

「はい、そうします」

「貴女の研究テーマに必要な本を求めている方は今はいませんから、ゆっくり戻して下さい。でも、次からはあまり溜め込まない方が良いでしょう」

「そうします。反省しました、すみません」

「いいえ。いつもご利用ありがとう」


 この司書さんにインタビューしてみるのも良いかもしれない。

 いつでも結い上げた髪を乱さない凛とした司書の後ろ姿を、思わず憧れてしまうような働く女性の姿を、メイテルは惚れ惚れと見送った。



 次の日の朝、いつものように迎えに来てくれたルートオーリに正直に何があったか報告すると、今にもホーウェンを殴りに行きそうなほど憤慨していた。今更メイテルに話し掛けるなと嫉妬に燃えている。

 これが、これが世に言うヤキモチだ。

 メイテルは感動した。今日も世界に向かって叫びたい。


 けれど「ちゃんと話してくれてありがとう」と言って、どこか嬉しそうにもしていた。話して良かったとメイテルも思う。

 怒りを抑える事に成功したルートオーリがいつものように微笑むけれど、メイテルはときめいていた。

 歯を食いしばって怒りを堪えている時にチラリと見えたルートオーリの八重歯に、実はメイテルはこっそりときめいていた。新発見だった。八重歯、いい。


 ちなみにケリー達にも素直に相談したところ、以前メイテルがフラれた時には既に『あれは平民に現を抜かす奴だ』とご令嬢情報網に乗せていたらしい。

 だが、今回新たに『頭皮の皮脂を図書室の本に付けながら貴族女性に声を掛けて回るという理解不能な行動を取る奴だ』と付け加えられた。情報って怖い。


 男の事は男が何とかするからとルートオーリが言っていたからメイテルは詳しく聞かないが、ホーウェンにとっての真実の愛のお相手は身分問わず複数いるらしい。

 守護神の雷を受ければいいと口を合わせて皆が言った。メイテルもそう思う。






 メイテルが婚約してから十一ヶ月。彼女は今、吸水性の良い大判のシーツに包まれている。更にそのシーツごとルートオーリに抱き締められていた。

 ずぶ濡れである。

 控えめに言っても率直に言っても、どう言い繕おうともずぶ濡れだった。


 そんなずぶ濡れメイテルをシーツで包んだ上に抱き締めているルートオーリは今、己の不甲斐なさと戦っているらしい。メイテルの肩口に額を乗せて動かない。

 腕もまとめて包まれているのでメイテルは身動きも出来なかった。

 メイテルだってルートオーリの背に腕を回して抱き締め返したいし、思いっ切り抱き付きたいし、この程良く付いたなめらかな筋肉を堪能したい。最愛の人を愛でたいのが男性側だとばかり思わないでほしいものだ。


 せっかくだしこの機を逃すわけにはいかないと、目の前にあったルートオーリの首筋に吸い付いてみたら、中々珍しい悲鳴が聞けた。可愛い。

 不意打ちに驚いて顔を上げたルートオーリの目は、真っ赤だった。

 泣いていたわけでもないのに、ここまで充血させるほど頭に血が上っていたのかと思うと、メイテルは先程の首吸いを少し反省した。少しだけ。


 何故メイテルがこんなにずぶ濡れになってしまって、ルートオーリがここまで自身を責めているのか。それには理由がある。




 ある寒い冬の日。その日、メイテルは珍しくいつもより朝早く起きていた。

 婚約した頃からやってみたかった事があり、ルートオーリの母であるシシアード侯爵夫人に相談したところ、全面的に協力してくれる事となったのだ。うっきうきで起きた。

 前夜の内に両親にも計画の話はしてある。ようやく幸せを掴んだ娘の話を実に嬉しそうに聞いてくれた。

 使用人達にも協力を願い出たところ、大笑いした者、目頭を押さえて泣き出す者、アドバイスをしてくれて更に計画を万全にしてくれた者、反応は様々であったが皆一様に快く頷いてくれた。


 今日もルートオーリはいつもの時間に迎えに来てくれると前日に言っていた。だが、その時間よりも随分と早くにメイテルは家を出て自分の馬車に乗る。

 向かうはシシアード邸。

 そう、メイテルがやってみたかった事とはつまり所謂『来ちゃった』というやつである。


 婚約しているとは言え、メイテルは子爵家の人間。対するルートオーリは侯爵家。

 本当に何の連絡も無しに朝早くから行くなんて絶対に出来ない。あちら側の家の協力が必要不可欠である。

 だから言い出せなかった。

 けれど、婚約前にルートオーリが話していた通りシシアード侯爵夫人は素敵な女性で、何度かお会いする内にメイテルはすっかり懐いていた。次期侯爵夫人となるべく教育を受けに行くのが楽しみなくらいだ。


 侯爵夫人も侯爵夫人で、年々新しい視点の意見を取り入れ更新されるメイテルの論文を読んでくれていたらしく、初めから好意的に接してくれた。

 メイテルが夫人と顔を合わせることに緊張しなくなった今では、二人で城下街へお出掛けするくらい仲良くなっている。柔軟に物事を見定め新しい情報を取り込むメイテルはとても好ましいと言ってくれた。

 この人に育てられたからルートオーリはルートオーリなんだな、とメイテルは感激してしまった。人一人を育て上げるということは、なんて困難で、なんて尊いのだろう。


 ちなみに、仲の良い未来の嫁姑にルートオーリは少し複雑そうだった。仲が良いのは有難いけれど自分の存在を忘れてくれるなと、拗ねたような様子の彼はメイテルの心を強かに撃ち抜いた。

 ──ルートオーリ様、可愛いかよ! 可愛いだよ! どういうことだよ!?

 しばらく一人でそう繰り返すくらいには可愛かった。



 こうして侯爵夫人の協力を得たメイテルは、意気揚々と勇んで朝も早くからシシアード邸へ向かっている。


『万が一の時のことを考えて少し早めに来るように』


 喜んで協力を申し出てくれた侯爵夫人から言われた条件はそれだけだった。万が一、とは何か。メイテルにはまだ分からない。

 シシアード邸へ向かう馬車の中でも考えてみたが終ぞ分からなかった。


「お嬢様、着きましたよ」


 分からないまま着いてしまったがまあ良いだろう。夫人が指定した時間の範囲内できちんと辿り着けたのだから。

 シシアード邸の門番もサムズアップで応援してくれたし、敷地内に入ってからは侯爵家側の案内係がスティーユ家の馬車の御者を案内してくれた。

 御者に手を借りて馬車を降りると、見慣れたシシアード邸のメイド達が出迎えに出てくれている。彼女達の案内でメイテルは遂にこっそりと屋敷内へ足を踏み入れる事に成功した。

 ドキドキである。


「待ちなさい、ルートオーリ。本日の予定は?」

「本日? それは今、この後の事ですか? それとも授業後の事ですか?」


 ルートオーリの声が聞こえた。

 正面玄関前に使用人達が並ぶ。扉の両側に並んだルートオーリを見送る為の列の中央、声がした正面階段から彼が降りて来たら真っ先に目に入る位置に立って、メイテルはルートオーリを待つ。

 緊張と期待で手が震えた。

 使用人達もどことなく緊張しているようだった。けれどそれは、喜びが爆発する前兆のような緊張だ。


「授業後です」

「何もありませんよ。昨夜お伝えした通りです。今朝は如何なさいました? 何かあったのですか?」


 訝しんでいる様子のルートオーリの声が降ってくる。


「若様、本日はいつもより早起きでして……その分早く行くと仰せでしたの」


 メイテルの近くに居たメイドがこっそり耳打ちしてくれた。

 どうやら夫人はかなり無理をして時間稼ぎをしてくれていたらしい。

 今日に限って。メイテルがこうして悪戯のような事を実行する日に限って、ルートオーリはメイテルに早く会いに来ようとしてくれていた。

 これは完全に以心伝心ではないか? メイテルは感動で打ち震えた。


「いいえ、何も。気を付けて行きなさい。メイテル嬢に宜しくね」

「そうですか? ……かしこまりました」


 使用人からメイテルの準備が整ったと合図を受け取ったのか、急に夫人が引き下がった。戸惑うルートオーリの声色が可愛い。

 一段一段ルートオーリが階段を折りてくる音がやけに大きく響いている気がする。その音がどことなく急いているように聞こえるのは自惚れだろうか。


 メイテルからルートオーリが見えた。

 階段を降りながら身嗜みを整えていて、メイテルが贈ったタイピンを付け、メイテルの贈ったカフスボタンを留めて、そうして足元ばかり見ていてあちらはメイテルに気付いていない。

 以前ルートオーリが言っていた事をメイテルも実感した。

 メイテルの贈った物を身に着けているルートオーリを見ると安堵する。他の誰でもない、メイテルがルートオーリを手にしているのだと実感できた。


 最後の一段を降りると同時に身支度を終えたルートオーリが顔を上げる。

 目の前には笑顔のメイテル。


「おはようございます、ルートオーリ様」


 瞬間、今にも駆け出しそうなほど急いていたルートオーリの時間がピタリと止まった。

 きょとんという擬音語がぴったりの様子で止まっている。全く動かない。

 僅かに開かれた唇すらメイテルには可愛くて仕方が無かった。


「…………メイテル?」


 しばらくの静止からようやく復活したルートオーリは、夢でも見ているかのような声でメイテルを呼んだ。


「はい」


 メイテルの返事を聞いてもルートオーリはまだ現実を受け止め切れないようで、しばし呆然とした後で控えている執事に視線を向けた。

 そして、徐にメイテルを手で示す。


「メイテル?」

「はい、そうでございますよ」


 執事から肯定されたがルートオーリはまだ現実を受け止め切れないようだ。今度は隣の従者へ顔を向けた。


「メイテル?」

「そうですよ」


 従者から肯定されたがルートオーリはまだ現実を受け止め切れないようだ。今度は使用人達へ顔を向けた。


「メイテル?」

「はい、スティーユ嬢です」


 使用人達から肯定されたがルートオーリはまだ現実を受け止め切れないようだ。彼の後から階段を降りて来て、今合流したばかりの母をルートオーリは振り返った。


「メイテル?」

「そうですよ。ご挨拶はどうしたの」

「ごあいさつ?」

「今は朝よ」

「おはよう?」

「そうです」

「おはよう」

「はい。おはようございます」

「メイテル?」

「はい」

「なんで?」


 本当にメイテルが居るとやっと認識できたのか、ようやく他の言葉が出て来た。


「どうしても会いたくて」


 じわじわと水が染み渡るようにメイテルの言葉を飲み込んで、徐にルートオーリが目を見開いていく。

 時間をかけて実感が伴った瞬間──ルートオーリは両手で顔を覆って天を仰ぎながら勢いよく膝をついた。

 メイテルとルートオーリの周囲で、人々が歓喜と笑顔を爆発させた。



 それからメイテルは夫人が言っていた『万が一』の意味を理解した。

 メイテルの『来ちゃった』にメイテルが思っていた以上にやられてくれたルートオーリが、「メイテル」と「待って」しか言えなくなり、ろくに立ち上がる事すら出来なくなったからだ。

 ふるふると震えて目を潤ませて、メイテルの名を呼ぶ事しか出来なくなったルートオーリは堪らなかった。あまりにも可愛いが過ぎた。


 時間はあるからと、まったりルートオーリの復活を待ち過ぎた。気が付いたら陽は随分と高くまで登っていた。

 メイテルもルートオーリも早起きしたのに、結局は遅刻ギリギリに学園へ何とか辿り着く始末。

 それでもメイテルは幸せだった。

 朝のお迎えは何も男性だけの特権ではないと得意気に語るメイテルを見て、まだ頬を朱に染めたままのルートオーリはずっと笑っていた。ずっと笑顔だった。


 油断していたと後にルートオーリはメイテルに語る。


 いつものようにメイテルを教室まで送る時間すら無くて、ルートオーリは謝罪を繰り返しながら忙しなく教室へ向かって走って行った。メイテルも急いで授業へと向かう。

 間もなく教室。廊下の向こうにまだ教員の姿は見えない。良かった、間に合った。

 そう思った瞬間、メイテルは宙にいた。

 メイテルはその感覚に覚えがある。これは転んだなとどこか冷静に思いながらも、腕を強く押されたような衝撃があった事を認識していた。


 凄まじい衝撃と音と痛みでメイテルは直ぐには動けない。

 これは違うとすぐに気付いた。ただ転んだだけなら、自分で転んだだけならこうはならない。人に突き飛ばされたり足を払われなければ、こんな吹き飛ぶような倒れ方はしない。

 挙げ句何か液体も被っていた。何の匂いもない。水だ。

 辛うじて顔をあげると胸があった。バイン。

 痛みも衝撃も何もかもを忘れてメイテルは一度目を反らした。

 なんか、バインとしていなかったか。ちょっと考えて、そしてもう一度顔を上げる。バインだ。やはりバインがある。違う。お胸様だ。


「……え、あれ……。嘘。や、やってしまったわ…………なんてこと──」


 魅惑のお胸様が喋った。バインバインしている。

 いや、違う。七度見くらいしてようやく混乱から少し脱して現実が見えた。とてもとてもお胸様のみがふくよかなご令嬢がバインをふるふるしている。


「あ、あ……ああ……ご、ごめ……、ごめ」

「メイテル……?」

「あ」


 自分の教室へ向かっていた筈のルートオーリの声が静かな廊下に木霊した。


「メイテル? どうしたんだ? なんで、メイテル……」

「ルートオーリ様、どうしてここへ?」

「慌てていて君の鞄を持ったままだったと気付いて……、それより、どうしたんだ。転んだのか? 転ばされたのか? ……何故水に濡れている」

「あ……」


 驚きであ然としていたルートオーリだったが、すぐにメイテルへと駆け寄って来てくれる。

 そして、未だ倒れ伏しているメイテルの傍に来ると迷わず床に膝を付いた。濡れてしまうことなど気にもしていない。


「……何があった?」

「バ……」

「ば?」

「バイン」

「は!?」

「ご令嬢! お願いです、そのバインバインの秘訣をご伝授下さい!!」

「はあ!?」

「貴女何を仰っているの!?」

「だって、だって……羨ましいんだものっ!」


 実はメイテルの最大の悩みは慎ましやか過ぎる胸だった。

 せめて人並みの半分で良いから欲しい。成長期になればと期待していたがほぼ成長しなかった。太ったら腹に付く。もう少し上だと何度怒り狂ったことか。太る時は腹から、痩せる時は胸から。呪いか。

 そんなメイテル憧れのバインがそこにある。食いつかない訳にはいかなかった。迂闊だったとメイテルは悔いた。こんな理想が同じ学園に居ただなんて、今の今まで知らなかったのだから。


「メイテル、今はそこじゃない。そんなとこ気にしなくて良いから」

「良くありませんわ! だって、だって私、私……」

「僕は気にしないから。ね?」

「ルートオーリ様が気にするとかしないとかではありませんの。私と一番長く付き合ってゆかねばならないのは私です! 私自身です! 生まれた時から私は私で、これからも私はずっと私なんです! その私が納得できるかどうかでしてよ!!」

「あ、はい。すみません」

「ご令嬢、どうか! どうかその魅惑のバインの秘訣を!!」

「何ですの魅惑のバインって!」

「お胸様!」

「落ち着けメイテル!」

「大切なのは現場の声!!」

「……貴方達、廊下で何をしているんですか…………」

「あ」

「あっ」


 呆れ返った様子の教師の声が響いた。



 その後、教師の指示でずぶ濡れで怪我までしているメイテルは医務室へ行く事となり、当然のことながらルートオーリか付き添ってくれた。そこからの首吸い事件である。

 魅惑のバイン令嬢は教師の助手が連れて行ってしまった。事情を聞いてから助手を通しての話し合いとなるが、大方の予想通りルートオーリに長年想いを寄せていたそうだ。

 メイテルのバイン発言で度肝を抜かれてどこか冷静になったのか、魅惑のバイン令嬢は素直に事情を話し、謝罪が許されるのならしたいと言っていると伝言を受け取った。

 だが、ルートオーリの怒りは収まらない。


「絶対に話なんてしなくていい。許さなくていい。謝罪も受け付けない」

「ルートオーリ様……」

「ごめんで済んだらあの世に地獄もこの世に拷問も要らないと皇女殿下も仰っていた。その通りだと思う。絶対に許さない」


 どんな修羅場をくぐってきたらそんな言葉が出てくるようになるのだろうか。強烈だ。


「僕のせいでこんな、こんな……、ああ嫌だ。嫌だ。嫌だな。幸せにしたくて婚約したのに……」

「ルートオーリ様、メイテルの幸せはね……バインの秘訣の伝授ですわ」

「そこから離れてくれないかな」

「無理ですわね」

「どうしてそんなに拘るんだ?」

「だって、綺麗に花嫁衣裳を着こなしたいではありませんか」

「……メイテル、それは…………そうか、そうか──」

「何ですか?」

「安心して、メイテル。僕よりあるじゃないか」

「何言ってんですか、ルートオーリ様」


 メイテルは皇子殿下直伝のウルペース・フェリラタ顔でルートオーリを見詰めた。






 メイテルが婚約してから間もなく一年。彼女は今、ルートオーリに後ろから抱き締められている。ここのところ毎日こんな感じだった。

 とても論文が書きにくい。


 メイテルがバイン令嬢による廊下でずべんばしゃん事件から後、すぐに卒業生は自由登園の時期に入った。授業もないので、学園内に居ようが城下に居ようがルートオーリは一切メイテルから離れない。

 学園側も風紀が……と初めは言っていたが、「皇太子殿下も在学時は皇太子妃殿下、当時は婚約者だったご令嬢にこうしていたと教わった」と言い返され、皇太子という強過ぎる権力者による前例を前に口を閉ざした。

 何が何でもメイテルから離れる気はないらしい。

 致し方なく人気の少ない場所に居るが、これはこれで人目の無い所でイチャついているようにしか見えなかった。由々しき問題だ。


 ルートオーリは自分のせいで事件が起きたと自身を責め続けている。

 正直、メイテルとしては想定内の出来事だった。むしろ今までよく何も起きなかったものだと感心している。

 だってルートオーリだぞ。こんな最高の人が子爵家の女なんかと婚約して、世の女性達が黙っていられるわけがない。逆に今まで平和だったのが不思議なくらいだ。

 爵位の差だってあるから覚悟していたのに、今までがあまりにも平和過ぎた。

 ケリー達のお陰だろうか。メイテルはふと友人達の顔を思い出した。


 魅惑のバイン令嬢からは謝罪の手紙が届いた。

 対面の謝罪はルートオーリが拒否している。メイテルとしてもどうしても会いたいわけではないし、何よりも優先すべきなのも優先したいのもルートオーリだから会っていない。

 ルートオーリとメイテルが婚約してからの仲の睦まじさに嫉妬し、けれど諦めようと自分に言い聞かせ続けていたところに、遅刻ギリギリに駆け込んで来るメイテル達を見て彼女の中で何かが切れたらしい。

 失恋の痛みはメイテルもよく知っている。

 まだ恋になる前にフラれたメイテルですらあんなにつらかったのに、長いこと想っていた人が他の女性と寄り添う姿を見るのはどんなに辛かったことだろう。


 けれどメイテルは同情しない。

 だってメイテルはルートオーリの婚約者。彼に選ばれた婚約者。そんなメイテルがどんなに耳触りの良い言葉を並べたところで、所詮は選ばれた者の余裕からくる上から目線発言にしか聞こえないだろう。

 何を言っても嫌味にしかならない。

 メイテルに手を出してしまった時の後悔に揺れる瞳を見ていた。今もこうして誠意を示してくれている。学園からの処分として卒業直前のこの時期に停学となったが、一切の言い訳をせずに粛々と受け入れたという。

 だから返信には、どうかバインの秘訣をと書いた。そこだけは諦められない。



「皇太子殿下の研究の一つに匂いでどこまで脳を操れるかというのがあるんだ。相性が良い相手はとてもよい匂いがするという。それは本当なのか。匂いにどんな成分が含まれていて何に反応しているのか。匂いはどこから来るのか。内側からではないのか。外側に出ているのに何故、頭皮は匂いが濃いのか。皇太子殿下は髪も頭皮もお気に入りらしい。そう感じるのは何故か。そんな研究をしているそうだ。人間は殆どの情報を視覚から得ているから初めはそちらの研究をしていたよ。すぐに結果は出ていた。だが、あまりにも分かり易過ぎるとのことで、ならば嗅覚からの情報で無意識下を操れば見目には分からないのではないかと考えたらしく、幾人かサンプルとなる人間が欲しいと仰っておられた。ならば僕がメイテルの匂いを嗅いで──」

「何言ってんですか、ルートオーリ様」


 どうにも情緒不安定なままのルートオーリをこのままにはしておけない。メイテルはやる気で溢れていた。

 皇后陛下の新事業を知っていて良かった。

 きっとこういった場合のルートオーリにも必要だと思う。心が疲れているのだとか。皇子殿下が珍しく泣きそうなお顔でメイテルに色んな情報をくれた。有難く活用させて頂く所存。


 メイテルはルートオーリが好きだ。ルートオーリの笑顔が好きだ。彼の屈託なく笑う姿が好きだ。

 一部の同級生に「ヤンデレヤンデレ」と喜ばれたが、メイテルはとても喜べない。間違ってもこんな、少しでもメイテルから離れたら不安で居られないような、そんな状態のルートオーリを見て喜べるわけがない。

 苦しんでいる彼を見て喜べるわけがなかった。

 あんなに仕事を頑張っていたのに、あれから一度もまともに行けていないのも問題だ。皇家の皆様はおおらかに待ってくれているそうで本当に頭が上がらない。


「よし。準備万端ですわ! 参りますよ、ルートオーリ様!」

「どこへ?」

「ミルイニ海溝です」

「なんで?」

「反復横飛びをしに」

「え!?」


 ルートオーリがここまで思い悩むようになってしまったのはきっとメイテルのせいだと彼女は思っている。

 婚約できた事に浮かれて生傷を絶えず作り心配をさせ続けていたところにずべしゃ事件。きっとそれがトドメだった。


 メイテルは負けていられない。

 だってメイテルは彼を幸せにしたいのだから。陽だまりのような彼の笑顔が大好きなのだから。

 彼の心が疲弊してしまったのならメイテルが支えればいい。

 何だかんだ言いながらも、学園卒業後に皇子殿下の側近になる事を楽しみにしていた。やってみたい研究もあると言っていた。領地のことだって色々と考えていた。

 何一つとして諦めさせて堪るものか。もう彼には何も諦めさせないとメイテルは決めている。


 お気に入りの工房から、仕上がった靴がいくつか届いていた。初めて靴をプレゼントした時のような笑顔がまた見たいから、素敵な靴を履いてたくさん一緒に出掛けよう。

 靴もきっと幸せへ連れて行ってくれる。


 メイテル・スティーユが結婚するまで、あと少し──。




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