8 生きる意味
大地
お給料が出るようになって一番最初にしたことは、ネット回線を引くことだった。テレビもない。日本語の本もストックホルムまで出ないと買えない。でも、高いからそんなに何冊も買わない。全てから離れて原始的に木彫りをするのも浮世離れてて楽しかったけど、さすがに飽きた。
やっと家で一人のときに、日本語に触れられる。
「ダイチは全然強くならないな。」
「だから、もう、俺とやるのはやめたら?」
「いや。なにごとも辛抱だから。」
「……」
アラン君は、ときどき駒を持ってチェスをしにくる。
三回に二回負ける。
「ダイチはこれからどうやって生きてくの?」
急に聞かれた。
「なに?急に。」
「経営とかには携わらないのか?」
「俺が?なんで?」
どっからどう見てもただの職人が、どうして経営に携わる?
「人生は何が起こるかわからないから、チェスは真面目にしろ。」
「どうして、そこでチェスが出てくるんだ?」
「先を読めないと、生きていけないと言われて育った。」
「……」
「だから、チェスは遊びじゃないんだ。うちでは。」
ふと、懐かしい感覚に身を包まれる。
商売をしている家には、こういう側面があるのだと思う。自分たちの手で船の舵を握っている。舵を握る人が間違うと、船が沈むんだ。
アラン君はこんなに若いけど、でも、やっぱり次お家を継ぐことを考えながらもう生きてるんだなと思う。
「でも、それは俺の役割じゃない。」
兄貴の役割だ。
「違う。それは。ダイチ。」
急に否定された。
「なに?」
「役割とは自分が決めるものじゃない。選ばれるんだよ。」
ぽかんと年下の男の子の顔を見る。たしかにこの子も妖精だ。妖精の孫だ。不思議なことを言う。
「将来、ダイチが運命に選ばれたときにね。準備ができていないと苦労する。」
「準備?」
「いつも先を読まないと、生きていけない。もし、自分が自分一人じゃなくて、たくさんの人の責任を取らなければならない立場になったらどうする?そのとき慌てても、すぐには実力はつかないぞ。」
「……」
なんで、こんなにしっかりしてるんだろうな。まだ、10代なのに。
「だから、チェスは真面目にしろ。頭を使え。」
「はい。」
ずっと生きていて不安で、スウェーデンに来て自由になって楽しかったけど、でも一人になる夜や夢を見て起きる朝、誰もいない砂漠に放りだされたような気がした。自分の生まれ育った家と切れてしまった人というのは、多かれ少なかれ僕のような気分を味わうものなのだろうか。
僅かでも給料をもらえることでましになったけど、それもつかの間、また不安が押し寄せてくる。
僕は一体、何にこんなに不安になっているのだろう?と思う。
店長だって言っていた。僕がスウェーデンに来たときに、今の日本だったら要領よくやればお気楽ご気楽に生きられるじゃないって。不安定な見えない海に飛び込めるのがすごいと言っていた。
でも、飛び込んでみたものの、溺れてるじゃないか。
僕は一体、何に怯えているんだろう?
ぽつんと思う。
何者でもないまま死んでしまうのが怖い。
自分が何者なのかを知らないまま死んでしまうのが怖い。
簡単に言えば、有名になりたい?
そうなんだろうか。
いや、違う。そうじゃない。
もし、僕に生きる意味があるのだったら、僕はそれを探し出したい。
それが見つからないままに死ぬのが怖い。
僕が生まれてきた意味を知らずに死ぬのが怖い。
一人で泣きそうになって、そして、その後にしんとした気持ちになった。
人間って不思議だな。
本当の本当の自分の心の底に下りてしまったとき、逃げ回っていたような気持ちとか、不安な気持ち。そういうものがすっと消えていく。
自分の姿が見えるからなんだと思う。
自分自身が歪みもなく、くもりもなく自分の前に立って、そのままに見えるとき、おそれがなくなる。
静かな気持ちになった。
「ダイチ」
ある時、パパが話しかけてくる。
「はい。」
「最近はどんなことを考えながら生きてるの?」
「どんなこと?」
僕は少し考える。
「自分がやるべきことって何なのか、考えるようになりました。」
「答えは出た?」
「いいえ。」
「それで、苦しんでるのかい?」
僕は思わずパパを見た。パパはいつものパパだった。
「ちょっと前までとても、苦しんでました。でも、今は不思議なんですけど、落ち着いています。」
僕がそういうと、パパは目じりに皺を寄せて微笑んだ。
「ダイチ、あのね。答えというのはね、その時が来たら、向こうから歩いてくる。」
また、不思議なことを言う。妖精のようなこと。手をとめてまじまじとパパを見る。
「どんなに焦っても、人生にはね、そのときというのがあるんだよ。でも、その大事なときまで我慢して待てるかどうかが、人によって違うんだよ。」
「そうなんですか?」
「いつもいつもうまくいくわけじゃない。うまくいかないときに、今できることを一生懸命やって、がんばれる人だよ。ダイチは。」
パパのこの一言は本当にうれしかった。
僕の心の細かいことを伝えていたわけじゃないのに、どうしてこの人は僕のことがよくわかるのだろう。
誰かに大丈夫だよと言われることが、こんなにうれしいことだとはこのときまで知らなかった。
「人はさ、一人で生きているわけじゃない。必死で答えを求める人のところにはね、そのときがくると、助けてくれる人や導いてくれる人がいるし、君もいつかそうやって歩き出した後には、未来で誰かを助けるんだ。」
「パパもそうだったんですか?」
「わたしの周りにはいつも小さい頃から、手を引いて導いてくれる人がいたからなぁ。」
それから、パパは手を目の前で組んで、軽く目を閉じた。
「わたしは人生に感謝している。様々な出会いをくれた人生にね。ダイチとの出会いも、その様々な出会いのうちのひとつだよ。」
僕はそして、パパの言うその時を信じて、毎日を暮しはじめた。
何者でもない自分。
片手でも数え上げられるくらいしか、物を持っていない自分。
そんな自分を抱えている人はきっと、僕だけじゃない。
世界のいろいろなところにきっと僕みたいな人がたくさんいるのだと思う。
でも、生きている。
僕はここにいて生きている。
この世の中でたしかなことってほんとうは生きているかどうかだけじゃないのかな?
朝、起きて、毎日空を見上げる。
空がきれいだと今日はきっといい日になると思って、そして、僕は動き始める。
とある夜に僕はふと思い立って、棚の上に飾ってあったみざるいわざるきかざるの写真を撮った。
そして、彼女に短いメッセージとともにメールを送った。
『次会ったときに渡します。大地』
彼女の明るい声が久しぶりに聞きたくなった。