11 日本のにおい
すみれ
毎日がうつろにすぎていく。
わたしはかろうじて朝起きていた。朝起きて、のろのろと顔を洗い、そして、服を着替える。精彩のない自分の顔にメイクをする。
「いらっしゃいませ。」
何かやることがあるというのはいいことだ。もくもくと言葉すくなに働いた。夏が終わり、秋が来る。
「すみれちゃん」
タケコさんに声かけられた。
「はい。」
「たまには飲みにでもいかない?」
タケコさんは閉めがあるので、先にあがって店の近くで待っていた。
「お待たせ。どこいこっか。」
タケコさんの溌剌とした様子に少しだけ慰められた。
「チーズフォンデュとかにワインとか頼んじゃってもいい?」
「はい。」
「今日だけ太るとか言うの禁止にしよ。」
「はい。」
ちらっとタケコさんがわたしを見る。でも何も言わなかった。
しばらく他愛もない話をする。主にタケコさんが話してわたしは相槌を打つ。
「ねぇ、すみれちゃん。」
「はい。」
「別人みたいなっちゃって。どうした?」
「……」
「旅行から帰って来てからだよね。」
パンをちぎって、チーズからめて、おいしそうに食べてからワインを飲んだ。
「ほっとこうかとも思ったんだけど、さすがに心配で。」
「……」
「もしかして、旅行って、前言ってた留学しちゃった好きな人に会いに行ったの?」
こくんとうなずいた。
「それで、振られちゃった?」
「振られちゃったというか、よくわかりません。」
「うん。」
「日本に帰れないから無理だって。」
「そうか。」
「待てばうまくいくかもわからなくて、いつまで待つのかもわからなくて……。どうしたらいいのかわからないんです。」
「何歳なったんだっけ?すみれちゃん。」
「25歳です。」
「じゃあ、あんまりのんびりしたくないねぇ。結婚のチャンスってどんどん減ってくものね。いつまでに結婚したいとかある?」
ちょっと考える。
「昔はそういうのあった気がしますけど、今は……。でも、30過ぎても独身は嫌です。」
「すみれちゃんのその人は、今、留学してるってことは勉強をしているんだよね。」
「はい。」
「ということは、付き合うとか結婚とかそういうのはきっともっと先になるよね。」
「……」
「彼のことはあきらめて、もっと今結婚したがってるような男の人探したら?」
「嫌です。」
そういうと、ふふふふふとタケコさんが笑った。
「なんですか?」
「悩む必要ないじゃない。答え出てるなら。」
「え?」
「他の人じゃいやだってことはもう結論なんでしょ。今、すみれちゃんがしたいのは結婚ではなくて、彼と一緒になることなんでしょ?」
「……」
「じゃあ、腹くくって待つしかないじゃない。彼がつきあえる、結婚できるって思えるときをさ。わかってる?結婚って一人じゃできないのよ。」
「一生来ないかもしれません。」
「じゃ、あなたも留学しちゃえば。」
「え?」
「日本離れられない理由とかある?」
「え?でも……」
「長い人生、そのくらい後先考えないで突っ走っちゃうことがあってもいいと思うけどなぁ。憧れるわぁ。」
タケコさんはワイングラス片手に目をきらきらさせた。
「タケコさん。他人事だと思って。」
ワインを飲んだ。ソーセージ、粒マスタードつけて食べる。
「そうだ。そうだ。とりあえず食べとけ。人間死ぬ気になればなんだってできるって。」
「仙台からも親元からも離れたことないんですよ。わたし。」
「でも、すみれちゃんはいざとなれば、北極までだって行けるくらいパワーある子だよ。」
思わずタケコさんを見る。
「まじですか?」
「まじですよ。そのくらい底力あるって。あなたは。だから、これも、これも食べちゃいな。」
ニコニコしながら、片っ端から食べ物人の皿にのせてきた。
「太っちゃいますよ。」
「あ、それ、禁句だから。今日。」
それで、わたしも単純なものだから、本屋さんに行って、留学関係の本立ち読みしたり、ネットで留学の情報を調べたりする。スウェーデン行って一体何を勉強するんだ?と謎ではあったのだけれど。
親元離れたことも、仙台離れたこともないくせに、ここで行かなければ一生後悔すると思い詰めて、ああでもないこうでもないといろいろ調べて、準備しなければならない金額見て、バイト掛け持ちしようかと悩んだりしてた。
ただ1人で大地君のことを思って落ち込んでいたときより元気になった。彼に近づくためにできることが何かあると知ったからだと思う。
希望があった。絶対だめなわけではない。
いや、まだまだ全然いける。
そんなある日、タケコさんに言われた。
「すみれちゃん、今、店長から電話あったんだけど、大地君帰ってくるよ。日本に。」
思わずガン見しました。
「なんで?」
「最近、わたしと店長いろいろ忙しくしてたでしょ。お店をね、駅ビルに出店するって話があって……」
「はい。」
「それに合わせて日本にも工房を持ちたいって話が出てね。」
「はい。」
「それは、もう、大地君にしかできないじゃない。大地君が作った家具をリュースから輸入した家具と一緒に売ろうってね。準備してたの。店長と。」
「……」
「オーナーのオッケーが出て、今度、大地君がなんていうか心配してたけど、本人、帰ってくるって言ったってさ。」
タケコさんが寄ってきて、わたしの肩を軽くたたいた。
「大丈夫?すみれちゃん。」
話の途中から泣いてしまっていた。
「よかったね。」
「タケコさん、知ってたんですか?」
「うん。ごめん。知ってた。知らないふりしてただけ。」
「いつから?」
「大地君がスウェーデン行く前から、なんとなく?」
「ええっ?」
そんな素振り全然なかったのに。驚いた。
「帰ってくるってほんとですか?」
「ほんとよ。日本人だもの。いつまでも外国にいられないでしょ。」
「でも、この前は帰れないって言ってました。」
あのときの悲しい声を思い出す。寂しくてたまらなかった夜。
「きっかけがあれば帰ってきたかったんだよ。大地君だって。」
涙がまだ出た。びっくりして、嬉しくて。
「留学する準備してたのに……」
ふっと笑われた。わたしも泣き笑いになった。
「無駄になっちゃったな……。」
しばらくタケコさんが笑い続ける。今度は髪の毛ぐしゃぐしゃに撫でられながらもっかい言われた。
「よかったね。すみれちゃん。」
毎日が忙しくなった。
新規出店することが決まって、お店の内装とかいろいろ細かいこと決めて店長がばたばたしてる。また、大地君が帰って来て住むところと工房代わりに使うところ準備してて、
「すみれちゃん、ごめん。ちょっと手が回んなくてさ。これ、大地君が向こうでね、家具作るのに使ってる機械なんだって。日本で同じようなのどこでいくらで買えるか調べてみてくれない?」
店長に言われて、わたしもいろいろ調べる。
全国津々浦々、ネットで調べた後に必要あれば直で連絡して見積もりをもらう。ある程度まとまったら、店長に渡す。
「ああ、まぁまぁするなぁ。」
店長が頭を抱える。
「でも、他はけちっても、こういうのはなぁ、やっぱりけちれないよね。」
近くにいるタケコさんと相談してる。
「そうですね。なんか品物のよしあしに影響しそう。」
「でも、使ったことないからよくわかんないですよね。」
わたしがそういうと、店長がわたしを見る。
「実際に使う人に選ばせようか。」
大地君に資料メールして、意見を聞いてと言われた。
はて。
そう言えば、帰ってくるって聞いて喜んでたけど、本人とそのことについて話してなかったな。
忘れてた。
メールで事務的に済ませたくなくて、時差を計算して電話をかける。
工房で作業中は出られないだろうと思って、夕方を選んだ。
「もしもし」
「日本語で出るんだ。」
「すみれちゃん?」
意外と国際電話でも声って近いんだな。
「どうしたの?」
「うん……。」
なんでだろ?頭が真っ白になってしまった。
「日本帰ってくるんだってね。」
「え?ああ、うん……。」
嬉しかったと言いたかったんだけど。
「店長から、工房で使う機械、いろいろ調べたんだけど、どれがいいのか選べないって大地君にみてほしいんだって。」
「うん。」
「メールで送るから見てね。それだけ言いたくて。」
「ありがとう。」
「じゃあね。」
結局たいしたこと言えずに電話切っちゃった。これじゃ、メールでやり取りするのとなんか違うか?違わんじゃん。
だめだな、わたし、何歳よ。
ま、でもいいか。これからまたチャンスがあるさ。
メールで送った機械のいろいろな資料見て、大地君から細かい質問が来て、わたし経由でメーカーさんに確認していく。
どれを買うか大体の目途がたったとこで、店長に見せる。
「店長、眉間にしわが。」
「うん。」
「厳しいんですか?予算。」
店長がわたしを見る。
「玲子さんに予算ぎりぎりまで下げられちゃって。」
「玲子さん?」
「あ、まぁ、こっちの話。大丈夫どうにかする。メーカーさんに発注して。」
機械が納入されるんなら、倉庫もちゃんと鍵つけないととか、大地君が帰ってくる前に家住めるようにしないととか、いろいろ細かなこともある。店長は店舗の内装やお金の計算で忙しくて、そういう雑用的なことはわたしが中心になってタケコさんと動く。
「なんか広い家ですね~。」
「昔ながらの農家だねぇ。」
「これは冬はちょっと寒いのではないの?」
基本的な電化製品とか家具はそろっていて、でもストーブとかふとんとか、食器一通りとか、すぐ暮らすために必要な物がない。
「ま、でも、大地君だって子供じゃないんだし。彼が戻って来てから自分で準備すればいいんじゃない?」
「あ、でも、わたしんちに使わない物とかあるし、補充できるものはわたし、補充しておきます。」
タケコさんがしばらくわたしの顔を見る。
「なんか最近別人みたいに色つやいいじゃん。」
「そんなにやつれてました?わたし。」
「幽霊みたいだったよ。わかりやすい人ね。」
大地君が帰ってくる日、カレンダーに丸をつけて、毎日過ぎた日にバツをつけながら残った日を数える。
この頃、朝起きるたびに、わたしは元気になっていった。これでもかというくらい。
「なに?この丸。」
ある日、母に聞かれる。
「なんでもない。」
そして、とうとう当日が来る。わたしは前日ワクワクして寝られなかった。
大地
日本で本当に期待されているようなことができるんだろうか。
日本へ帰ることが決まっても僕はずっと憂鬱だった。
日本に帰れる嬉しさに浸ることができずにいた。本当にこれがパパの言うそのときだったのかな?
そんなこと、ぐちゃぐちゃ考えてて、どんよりと曇った空のような気分で、空港に降り立ったときに
「あ、大地くーん」
手を振るすみれちゃんが目に入った。
その時にやっと僕は、嬉しいと思った。
そうだ、僕は帰ってきた。帰ってきたいところに。
「飛行機遅れなかったね。」
「うん。」
「疲れた?ちゃんと寝れた?」
「うん。」
彼女の車の助手席に乗る。
「もしもーし、店長ですか?飛行機遅れるとかもなく大地君ピックアップしました。これから移動しますよ。」
すみれちゃんが出発する前に電話をかけている。
「横にいますよ。代わりますか?」
その後、携帯を切った。
「店長?」
「うん。みんな今晩、大地君とこ来るよ。」
「え?」
「今晩ウェルカムパーティーみたいなのやるって、大地君とこで。」
「なんか変な感じ。」
「なにが?」
「俺のところっていうけど、みてもないのに自分のうちがあるって。」
「ああ、ははは。すぐ見られるよ。1人にはもったいないくらいおっきい家。」
「そうなの?」
「農家だからね~。あ、シートベルトしてね。」
少しうとうとしてしまって、彼女の着いたという声で目を開ける。
ぽかんとした。確かにおっきな家だった。昔ながらの。
すみれちゃんがずんずん進んで、がらがらと玄関のドアを開ける。
「着いたよ~。」
彼女が声をかけるとみんながぞろぞろと出てきた。
「あ、すみれちゃん。きゃ~。大地君!」
タケコさんが軽く抱きついてきた。思わず笑った。
「なんか雰囲気変わっちゃって。」
「お久しぶりです。タケコさん。」
オーナーもいた。
「あ、オーナー、このたびは機会あたえていただいて……」
お辞儀をしていると、店長の声がする。
「あの、みんなでそんな狭いとこいないであがったら?」
楽しい夜だった。
こんなにたくさん日本語聞いたの。久しぶり。
まだちょっと信じられないんだけど、帰ってきたんだなと思う。
「大地君、ちょっといい?」
「はい。」
オーナーに話しかけられた。
「これ、うちの親戚の子でね。学君。」
「どうも。」
「どうも。」
髪の毛茶色の若い子だった。
「この子、明日からここにおいてやって。」
「へ?」
「だめ?」
「いや、だめなんて。大体家賃お支払いしないのに、そんなこと言えません。」
「そうか、よかった。」
「よろしくおねがいします。」
握手した。
「家具作る作業とかさ。手伝わせていいから。」
「え?」
「難しいことはできないけどさ。」
「はぁ。」
「軌道に乗るまでは社員とかそうそう雇えないからね。ちょうどこいつわけありで宿無しだからさ。宿代代わりにこき使ってやって。」
僕が戸惑って彼を見ると、ぺこりと頭を下げた。
「さぁさぁ、みなさん。長居するのはなしですよ。」
店長がそう言って立ち上がる。
「あ、片付けはいいですよ。俺やりますから。」
「え、でも、大地君疲れてるでしょ。」
タケコさんが気を使ってくれる。
「ああ、でも、わたしたちも今日は疲れてるよね。仕事だったから。すみれちゃん手伝ってあげてよ。片付け。」
店長がそう言って、タケコさんの肘つかんで去っていく。嵐のようにみんな立ち去って、僕とすみれちゃんとぽつんと残された。
「ほら、大地君。こんなのすぐ終わるからさ。座ってなよ。疲れてるでしょ?」
「いや、大丈夫だよ。」
「さっきだって、車で寝てたじゃん。いいから、いいから。」
彼女に肩を押されて、椅子に座り込む。ダイニングで彼女がゴミをすて、テーブルを拭き、使った食器を洗うのをぼんやりと見ている。
「今、宇宙の中にいるような気分でしょ。」
「うん。」
「もう、ここはいいから、お風呂入ってきたら?」
「お風呂ってどうやって使うんだろう?」
風呂場に行ってみようと思って、立ち上がるんだけど、猛烈に眠い。
スミレちゃんが寄ってくる。
「お風呂明日の朝にしてもう、寝ちゃったら?」
「なんかお母さんみたい。」
「嬉しくないな。そう言われても。」
苦笑いされた。
「ほら、お布団こっちだよ。」
あの日、眠くてたまらない彼女を僕がひっぱって、今日は彼女が僕の手をひっぱる。されるがままに連れてかれて、畳の部屋、彼女がお布団しいてくれるのを隅っこに座って見てる。
「今度は逆の立場だな。」
「ほんとだね。」
敷いてもらった布団の上に寝っ転がる。
「せめて着替えたら?」
「君の前で?」
「あ、ごめんなさい。」
立ち上がった。
「あ~、日本帰ってきたんだなぁ。ほんとに。」
寝っ転がったままで言った。
「嬉しい?」
「うん。ずっと帰ってきたかった。」
彼女は襖の所で立ち止まったままで僕を見ている。廊下からの灯を背に。部屋の中の暗がりに寝っ転がる僕を見ている。
「前、なんかでさ。」
「うん。」
「読んだの。日本ってね、醤油のにおいがすんだって。空港におりると。」
「え?うそ?」
彼女は笑った。僕も寝っ転がったままで笑った。
「それとね、魚のにおいがすんだって。魚っていうか、だし?」
「絶対嘘だよ~。しなかったって。」
「いや、でもね。した。今日。」
「ほんと?」
「すっごいなつかしいにおい。」
「……」
「どんだけ離れてたんだ?俺。そう思った。」
思い出さないようにして、考えないように、見ないように、でも、ほんとは帰りたかった。自分の国と自分を知る人たちのところに。
彼女が廊下に出かかってた半身をまた部屋に入れて、ふとんに寝っ転がっている僕のかたわらにちょこんと座った。そして、僕の手を取った。片手を両手で取って、自分の膝の上にそっと載せて両手で包むと言った。
「おかえりなさい。大地君。」
僕は彼女のほうに顔を向けた。彼女の笑った顔を見た。
迷子になってしばらくうろうろしたあとに、家にたどりついて母親の顔を見たみたいな気分になった。
「もう、寝ちゃうでしょ。片付け終わったら、玄関しめて出てくから。鍵二つあったから、とりあえず一つ持ってくよ。」
ふいにさばさばと事務的に話して、彼女は僕の手を離して立ち上がって出て行った。僕は結局着替えずにそのまま寝てしまった。




