五 赤ん坊、少年になる
一部修正しました。2020/4/6
サブタイトル変更しました。2020/4/7
結論から言えば、俺とマリアの心配は杞憂に終わった。マリアの両親の察する力があまりにも高かったからだ。彼らは直ぐにバツイチでも構わないという男を見繕うとまで言ってきたので、マリアは苦笑いしながら「さすがに早すぎる」とそれを断った。
近所の人々も常にマリアのことを心配してくれて、自分の子供のおさがりや作り過ぎたらしい食事の余りなどを頻繁に持ってきてくれた。
俺個人の感想をいうなら、正直屋敷に居た時よりも快適だった。人の目が多いから、俺が声を上げてもマリア以外の人が直ぐに面倒を見てくれるからだ。おかげで、常に下着が快適な状態に保たれていた。
時間が経つにつれ、転がれるようになったり、ハイハイできるようになったり、立てるようになったり、歩けるようになったりした。成長が早いと驚かれはしたが、前世の記憶がある俺に取ってはこのくらい朝飯前だ。
しかし、俺はこの世界が「剣と魔法の世界」であることを思い出して非常に興奮し、そして自分が魔法を使えないことを思い出して悲しみに暮れた。
ちくしょう許せん。だが、まだ知識チートの道がある。
マリアが俺を連れて教会に立ち寄った時、俺は彼女にせがんで本に触れさせてもらった。ぬかった、と思った。文字が全く読めなかったのだ。俺が当たり前のように周囲の人間が話す言葉がわかっていたのは、この異世界の言葉が日本語だからではなく、俺が異世界の言語を理解できていただけだったのだ。そうすると、文字に関しては全くの未知の外国語だ。
自分が学校での英語の成績が散々だったことを思い出して悲しくなるが、そんなことでめげてはいけない。まずは文字からだろう。だが、まだ「マリア」とも口にできない俺に、その意思が伝えられるはずもなかった。
一歳になる頃には周りの子供たちと駆け回り、そこそこ言葉を話せるようになっていた。よっしゃあ! あまりの天才っぷりにマリアが心配を始めたので、安心しろ、これは貴族の血じゃなくて、異世界転生の特典だ、という趣旨のことを舌足らずな言葉で伝えたが、彼女はあまり理解してはくれなかった。
教会の神父に頼み込み、文字を教えてもらった。アルファベットの様な文字で、単語はローマ字読みの様に文字を読めば発音できた。英語より簡単じゃないか! 俺にはまだ理解できないと思っていた神父の焦り出す顔は最高だった。
こうして田舎で井の中の蛙ごっこをしている俺ではあったが、大人たちの言いつけには従順に従った。中でも繰り返し言われたのは、森には近付いてはいけない、というものだった。
前世で言うところの「赤ずきんちゃん」のような話を繰り返し聞かされた。森へ入るとオオカミに食べられてしまうよ、と。ここは異世界だ。もしかしたらモンスターが出るのかもしれない。その仮説を裏付けるかのように、町の周りは「魔除け」と呼ばれる色付きの石が括り付けられた柵で囲まれていた。
俺が七歳になる頃には、教会の全ての本を読破し、町の中で最も素早い人間になっていた。これも才能とうぬぼれたいところだが、追いかけっこは吐くまで何度も繰り返したし、教会にも本は数冊しかなった。中身が成人男性であることを踏まえると、それほど特別なこととも思えなかった。
だからこそ、もっと鍛えねば、と躍起になった俺は、町の子供全員対俺一人、という無謀な鬼ごっこを提案した。時間制限内に鬼に捕まったらそこでその人はゲームオーバーというシンプルなルールではあるが、肝は相手が二十人以上もいることだ。
絶対に自分たちの勝ちだ、と高をくくる子供たちを、大人の頭脳を使って一人ずつ確実に追い込んでいった。子供は仲のいい同士で束になるから、その中で一番足の速い奴を先に捕まえれば、周りのやつは直ぐに諦める、という鬼畜極まりない作戦で、俺は瞬く間にほぼすべての子供たちを捕まえた。
最後に一人というところになって、俺はその子、エイブを見つけ出すことが出来なかった。終いにはエイブの家の中まで探したが、結局発見に至らず、時間切れで俺の負けとなってしまった。
やはりうぬぼれていたか。反省して、子供たちの嫌味を浴びていた俺は、ふと鬼ごっこが終了しても最後の子供が現れないことに気が付いた。
心配になって大人たちの手も借りて町中を探すが、結局エイブは見つからなかった。
誰かが言った。
──────────森に行ったんじゃないか?
その時は皆否定したが、結局、次の日になっても彼は現れなかった。そしてその瞬間から、誰もその子の話題を口にしなくなった。
「ねえ、マリア!」
呼びかけられた彼女は「どうしましたか?」と優しい声で振り返った。屋敷を出て既に七年の月日が流れたというのに、未だに彼女は敬語が抜けていない。
「どうしてみんなエイブを探さないの? 森に行ったかもしれないなら、森を探せばいいじゃないか」
マリアは少し困ったような顔をしたが、やがて意を決したような面持ちになり、膝を折って目線を俺と同じ高さにして話し始めた。
「ルシウスさんは、『森に入った女の子』の話を覚えていますか?」
彼女の言う『森に入った女の子』は「赤ずきんちゃん」の様な昔話で、大人が子供を説教する時に何度も繰り返し言及し、そして「良い子にしてないと森へ放り出すよ」と叱られると、子供たちは皆震えあがった。
「覚えてるよ」
そう言って、俺は『森に入った女の子』の物語を口にした。
昔々、まだ人々が獣の被害に怯えていた頃。ずっと後になって「貴族」と呼ばれるようになる人々の祖先様が、町に魔除けを張りました。
「これより外に行ってはいけないよ。帰ってこられなくなるからね」
人々は「貴族」の祖先様の言いつけをしっかりと守りました。すると、獣の被害はぴったりと止みました。
ある時、一人の女の子が言いました。
「森の中には何があるの?」
すると、大人たちは口々に言い始めました。
「怖いオオカミがいるよ」
「怖いクマがいるよ」
「怖いキツネがいるよ」
「怖いウサギがいるよ」
「ウサギさんは怖くないわ」
女の子はくすくすと笑って、大人たちの話を信じませんでした。
ある日の早朝、女の子は森の中へ入りました。
きっと、かわいいウサギさんがいるわ。
きっと、賢いキツネさんがいるわ。
きっと、優しいクマさんがいるわ。
きっと、素敵なオオカミさんがいるわ。
女の子は、森の動物たちと、友達になろうと思ったのです。
森の中は、既に太陽が高く昇っているというのに薄暗く、奥へ奥へと入る度、女の子は不安になっていきました。
がさ、ごそ。がさ、ごそ。
あっちから出るかな、こっちから来るかな。
怖いのはもうたくさん。
怖くなった女の子が引き返そうとしたその時、ギラリと光る何かが見えました。
ウサギさん?
しかしよく見れば、それは牙を血で濡らしたオオカミだったのです。
女の子は静かに走り出しました。けれどオオカミの耳はとてもよく、逃げた女の子の後をすぐさま追ってきました。
女の子は一生懸命走りました。そして、町の柵が見えました。
やった。これで帰れるわ。
けれど、女の子は柵を越えることが出来ませんでした。
親の言いつけを守らなかった女の子は、悪い悪い獣になってしまったのです。
オオカミさんは、もうすぐそこよ。
オオカミさんは、貴方の後ろ。
オオカミさんは、ペロリと食べた。
どこ行った。どこ行った。女の子はどこ行った。
口の中。腹の中。オオカミさんに、食べられた。
悪い子は、食べられた。
森に入ってはいけないよ。
俺が語り終えると、マリアは嬉しそうに拍手をした。
「素晴らしいですよ、ルシウスさん。完璧です」
「ありがとう」
マリアに褒められてつい天狗になってしまったが、俺はすぐさま気持ちを切り替えた。
「でも、森に入ったからって本当に人間が獣になるわけじゃないだろう?」
「そうだとしても、女の子は町へと入れませんでした。エイブくんもきっとそうです。森へ入った子のことは忘れる。それがこの町の暗黙の了解なんです」
「そんなの間違ってるよ!」
俺が楯突くのが珍しかったのか、マリアが目を丸くした。
「生きているかもしれないんだから助けなきゃ! エイブは今も、森の中で怖くて震えているかもしれないんだよ。かわいそうだよ」
マリアはしばらくの間、俺の瞳をじっと見つめていた。やがて、ポケットからおもむろに何かを取り出して、俺の手の上に乗せた。
「・・・・・・笛?」
リコーダーの様に穴は開いておらず、どうやら吹くだけの笛の様だった。
「貴方は、そうやって危険に身を投じる人間なのかもしれません。ですから、命が危ないときは、必ずこの笛を吹いてください。良いですね。けして、森の中に入ってはいけませんよ」
マリアの言葉に俺は返事をすることが出来なかった。マリアは何かに納得したように俺のもとを離れた。
そのまま、その日は早めにベッドに入った。明日の朝、早く起きるために。