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三十五 貴族の子、夜の道を走る

エルトリアに白い花を取ってくるように頼まれたその日の夜の内に、俺は家を飛び出していた。三日もあればのんびりと歩いてでも間に合うような猶予があるというのに、俺は衝動的に走り回っていた。

 ジブリールに乗ってさっと行ってさっと帰ってくれば一瞬なのだ。それを頭の中では十分に理解していたが、今は無性に疲れ果てるまで走って心の中を空っぽにしてしまいたかった。だがいくら走っても、俺の心の中が空っぽになることは無かった。

 かといって、俺の心を満たすものが与えてくるのは、言い様のない空しさばかりであった。空しさから逃れるために心の中を空にしようなど、何という皮肉だと思った。それで自虐的な笑みを浮かべることが出来ないほど、俺の表情は歪んでいた。

 走って、走って、走った。夜の闇の中を、どこまでも駆けた。

 前にも、こんなことがあったような気がする。いつだろう。それほど昔の様な気はしない。それとも、単なる思い過ごしなのか。

 ──────いや、あれは、そう、オヤジが町へやって来た時だ。奴がバルの頭を撫でて、そして俺は、自分の中に嫉妬なんて感情が芽生えたことに気付かずに、その感情が何なのかもわからずに、嫌で、怖くて、逃げ出したんだ。

 苦しくて、忘れたくて、空っぽになりたくて、走って、走って、走って、そうして、気付いたらあの花畑に居た。一面の白い花が、月明かりに照らされていたんだ。

 ・・・・・・そしたら、あれは、幻ではなかったのか? 夢ではなかったのか? 何で君はあそこに居たんだ? 教えてくれよ、エルトリア。どうして君はあそこに居たんだ。

 呼吸が苦しくなり、段々と思考し辛くなってくる。それを疎ましく思いつつも、同時に俺は喜んでいた。やがて、何も考えることが出来なくなるからだ。

 町からは難なく行けた場所も、イタロスの屋敷からは遥に遠い。俺は本当に、あの町から遠く離れたところに来てしまったのだ。

 十三年。かなりの時間をあの町で過ごした。あのまま養子の話が無かったら、俺はずっとあの町で暮らしていたのだ。

 そうしたらどうしていたのかな。俺は彼女を忘れることが出来た? 誰か他の人を好きになることが出来たか?

 そもそも俺はあの町で何をしていた? 大人たちの仕事をできる範囲で手伝いながら、暇になればすぐ他の子供を集めて遊びまわっていた。正直、あの町は仕事が無さ過ぎだ。人が余っていたんだから。それでも俺を受け入れてくれた。・・・・・・そりゃそうだ。魔法が仕えなくてもあの町では普通に暮らせたんだから。

 そしたら俺は誰かと結婚した? 彼女以外の人と? そいつは誰だ? 一体誰だ?

 いや、きっと誰でも良かったのだ。好きになれたのなら誰でも良かった。だって、誰も彼をも好きになれるわけじゃないから。

 そんな風に生きていたから、前世でも年齢=恋人いない歴の男だったんだ。そんな風に運命みたいな何かに期待していたんだろう? そうやって自然と生まれた永遠の愛みたいなものに期待していたんだ。

 だって愛は終わるんだ。前世のクソおやじは前世の母親を捨てたんだ。永遠なんてないんだよ。あるわけないんだ。なのにそんなものを期待して生きていた。一生来るはずの無いものをだよ? 笑えるぜ。

 でも二回目の人生では、いや、本来はそんなものは無いんだ。まさに運命の悪戯ってやつなんだろうな。俺は記憶を持ったまま生まれ変わってしまった。もし前世の記憶を忘れていたら、俺は彼女と「義理」の姉弟でいられた? いいや、出会ってすらいない。俺の記憶が無かったら、森に行こうなんて考えるはずもないんだから。

 じゃあ、つまり、いろんな偶然が重なっちまったってだけだ。たまたま俺が好きになってしまった女の子が、生き別れの姉だったってだけの話だ。

 じゃあ、もし、意味無いってわかってても考えちまう。もし、俺が魔力を持って生まれていたら? そしたら俺達は普通の姉弟に成れた? 彼女の結婚も祝福できた。出来た、出来たよ、出来たはずだ。

 瞬間、俺は何もない平坦な道ですっころんだ。起き上がろうとして、手に力が入らないことに気が付いた。

 頭より先に、体が音を上げてしまった。情けない。もっと動けよ。

 無論体は動かない。俺は肩や腹筋やら反動やらを駆使して無理矢理起き上がると、再び走り出した。転ぶ前よりも格段に速度が落ちていた。走る度に足はおぼつかなくなり、気付けば歩くのと何ら変わらない速度になっていた。

 休みたい。

 そう思ってあたりを探すと、近くに手ごろな岩があった。俺はそこに体を預けると、泥の様に眠った。


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