十九 少年、夜の森を行く
表彰式の後、町の集会所で盛大な宴会が開かれた。俺とバルは半ば強制的に参加する羽目になり、酒を飲みかわす大人たちの中に二人で肩身の狭い思いをしていた。
「ぼ、僕、貴族に初めて会ったんですけど、なんか、想像していたよりも、とても親しみやすくて、善い人ですよね」
会話の途中、バルがそんなことを言った。確かに、見た目には善人にしか見えない。町を結界で守り、魔物を討伐した町民と町に褒賞を与え、傷ついた町民を癒やし、低俗な宴会の中、笑顔で酒を酌み交わしている。全くもって、善人にしか見えない。
だが、だがなあ、バルよ。それは奴の本性ではない。奴は、あのクソ貴族は、生まれて間もない赤ん坊を捨てたんだ! ロクでもない奴なんだよ!
腹の底からそう叫びたい気持ちをぐっと堪え、俺は薄笑いしながら答えた。
「ああ。善人にしか見えないよ」
気を良くしたのか、「そうですよね」とにっこり笑って、バルは立ち上がった。
「ぼ、僕、ちょっと話してきます!」
予想外の発言に俺が言葉を失っている間に、バルはクソ貴族のもとへと向かった。大人たちが本当に思っていることから一片も考えたことがないようなことまで口々にクソ貴族を褒め称えている間に割り込み、バルはクソおやじに話しかけた。
周りの大人たちの嫌そうな視線に、バルは少しも気が付いていない。彼の純真無垢な瞳は、ただまっすぐ、目の前の誠実そうな貴族に注がれていた。
やりやがった! いやな顔をされるに決まってる!
俺がそう思ったこととは裏腹に、奴は嬉しそうに笑い、そしてバルの頭を優しく撫でた。
瞬間、俺は手にしていた水の盃を滑り落してしまった。あたりに水が拡散し、掛かった人々が驚きの声を上げる。
俺は水を掛けた方々に謝罪しながら杯を拾い上げようとして、再び取り落とした。
俺の手は震えていた。力が上手く入らず、握り拳を作ろうとしても指が軽く曲がるだけだった。
止む無く、両手で危なく杯を拾い上げ近くの机の上に置き、俺は夜風に当たると言って宴会場を出た。
軽い散歩のつもりがいつの間にか集会所からかなり離れてしまった。もうこのまま家に帰ろう。そう思っていたのに、足は森の方を向いていた。次第に歩調が速くなり、森の手前に着くころには走り出していた。
木の上に駆け上り、枝から枝へと飛び回った。夜の森は初めてだった。どこまでも果てしなく続く闇の中を、目的地もなく、どこにたどり着くのかもわからず駆け回った。
どこかで獣が吠えた。どれだけ森の中に分け入っても、その声はいつまでも、いつまでも耳にまとわりついた。オオカミの遠吠えにしてはあまりにも汚く、クマの雄叫びにしてはあまりにも高かった。
時間の感覚がひどく曖昧になっていた。一瞬の様な、永遠の様な。そんなわけの分からない時間走り続けた先に、俺は月に照らされた一面の白い花の園の中に迷い込んだ。
あの濃密な香りが漂ってこない。これは夢なのだろうか。
じゅるじゅるという音がして、俺は鼻が鼻水で詰まっていたことに気が付いた。
いつの間に詰まっていたのだろうか。そんなことにも気付かずに走り続けていたというのだろうか。やはり、これは夢なのだろうか。
痛みを求めて頬を抓ろうとして、自分の頬が濡れていることに気が付いた。
先程こぼしてしまった水が顔に掛かってしまっていたのだろうか。
拭いても拭いても、頬は濡れ続けたままだ。
いつまでも、いつまでも、獣の咆哮が耳に鳴り響く。
おかしい。この花畑の近くで獣が現れたことなど、ただの一度もなかったのに。今日は、何もかもがおかしい。
「─────────泣いているの?」
それは、聞こえてくるはずの無い声だった。ここに居るはずの無い少女だった。
ならば、これは夢なのだろう。
「・・・・・・シラクサ」
「うん」
「あいつが、バルを撫でたんだ」
「うん」
「俺を捨てたあいつが、バルを撫でたんだ」
「うん」
「俺を! 母さんを捨てたあいつが!」
「うん」
「あいつが俺達を捨てたから、母さんは俺を一人で育てなくちゃならなくなった! それで無理をして、体を壊して、死んだんだ! あいつは葬式にも来なかった! ロクでなしなんだよあいつは! 父親面なんてしちゃいけないんだ!」
「うん」
「なのにあいつは、この世界でも俺を捨てた・・・・・・、ロクでなしなんだ、クソ野郎なんだよ・・・・・・善人なんかじゃないんだ」
「うん」
「あいつのせいで、マリアは俺を一人で育てる羽目になった・・・・・・、あいつのせいで、マリアは体調を崩す羽目になった・・・・・・、でも、それは、それは・・・・・・、俺のせいでもあるんだ」
「うん」
「俺が魔力をもって生まれてきていたら、こんなことにはならなかったんだ・・・・・・、いや、ちがう、そもそも生まれてこなければ良かったんだ・・・・・・、でも、俺が生まれたのは、あいつのせいなんだあのロクでなしのせいなんだ! なのに・・・・・・、あいつは、あいつは、バルに、父親みたいな顔をしたんだ・・・・・・」
「うん」
「俺じゃなくて、バルに・・・・・・」
「うん」
「どうして・・・・・・、なんで・・・・・・」
「うん」
「・・・・・・俺じゃないんだ」