一 社畜、異世界に転生する
大部変更しました。2020/4/5
サブタイトル変更しました。2020/4/7
夜の車窓に、様々な人々の顔が映り込んでいた。酔いが回っているのか少し陽気な顔をしている者、無表情にスマホの画面を凝視している者、疲労のあまり世界を呪っている者。
お世辞にも健康とは言えない最後の人物に見覚えがあると思っていたら、やがてそれが自分の顔であることに気が付いて、つい驚きの声を上げてしまった。自分の顔はこんなにやつれていたのだろうかと記憶を掘り返すも、今朝顔を洗った時に鏡に映っていたはずの自身の顔すらも思い出せなかった。
どれだけぼうっと生きているのだろう。不意に出た溜息が吐き終わらぬうちに、電車が家の最寄り駅に停車した。
深夜とはいえ駅の周りには人が群がっており、駅前の大型道路を無数の車が疾走していた。人が本来なら眠っているはずの時間帯に活動しているものを見ると、何故だか不快な気分になった。
後は家に帰るだけだというのにその足取りは非常に重く、酔っ払いの千鳥足にすら追い抜かされる始末だった。
明日が来なければいいのに。
叶うはずもないその願いを、無意識の内に口に出してしまっていたのだろうか。横断歩道を渡っている途中、横から猛スピードで突っ込んできたトラックに跳ね飛ばされ、そのまま意識を失った。
そして、俺は目覚めた。
随分と突飛な夢を見たと、半ば自嘲気味に笑いながら周囲を見渡すと、そこは見慣れた自分の部屋ではなく、何もない真白な部屋──────否、どこまでも、どこまでも果てしなく広がる、真っ白な空間だった。
まだ夢を見ているのだろうかと頬をつねってみるが、当然の如く痛みを感じた。
じゃあ、これは現実か?
「そうですよ」
どこからか聞こえてきた美しい音。それが声であることに気付くまでに数秒、それが言葉であることがわかるまでにさらに数秒を要した。そして、ようやくそれが俺の疑問に対する返事であることを認識したその時にはもう、目の前に、今まで見たことも無いような美しい女性が立っていた。
陶器の様に滑らかな褐色の肌と、その肌を優しく包むオレンジ色の衣。ふんわりと衣に包まれてもなお隠せぬ豊かな胸と、真っ白な空間の中でひときわ強い存在感を放つ絹の様な白い長髪。彫像のように整った顔立ちと、そこに輝く黄金の瞳。
テレビの向こうで称賛されていたどんな女性よりも美しく、そしてあまりの神々しさに不思議と畏れが湧き上がってきた。
こういう存在を、神様と呼ぶのだろうか。
「ええ。私は貴方たち人間から神と呼ばれている存在です」
瞬間、俺は間抜けな声を上げてしまった。今度は直ぐに目の前の女性が俺に話しかけていることがわかった。そして、心の中で思っていただけの言葉に対して返事をされたことに驚きを隠せなかったのだ。
「驚かせて申し訳ありません。私は貴方の心を読むことが出来るのです」
彼女のきれいな声は真っ白な空間そのものを揺らしているようで、美しい調べに身を浸していると、世界一のヴァイオリニストが目の前で演奏しているかのような錯覚に囚われた。
「貴方は、先程交通事故によって命を落としました。貴方の魂の行く末を決めるに当たり、貴方の人生を全て見させてもらいました。まっとうな人生を送ってきた貴方の魂を、次の人生を心置きなく過ごせるよう、もし貴方が望むのならば、先程まで生きていた世界とは別の世界に転生させることに決まりました」
その時、世界一の音楽に酔いしれている俺の脳裏に、一つの言葉が浮かんだ。
異世界転生。
それは近年のネット小説で多用される設定である。命を落とした主人公が記憶を持ったまま剣と魔法の異世界に生まれ変わり、世界最強の名をほしいままにしたり、前世では絶対にかかわりを持つことがなかっただろう絶世の美女たちからの愛を一身に受けたりなど、転生前に果たすことのできなかった全ての欲望を満たすことが出来るというのが、異世界転生ものの大まかな流れだ。
「他の神の例にならい、『剣と魔法の世界』に貴方を転生させます」
間違いない。俺は異世界に転生できるのだ!
「貴方は、異世界に転生することを望みますか?」
「はい! 勿論です!」
俺は即答した。
「わかりました。今回はサービスとして、貴方に異世界でただ一つの特殊な能力も授けますね」
「ありがとうございます!」
女神の微笑みは、俺の長きに渡る勤労という名の苦痛によって積もりに積もった暗い感情を全て溶かしてしまった。女神さまからもらった力で世界を手に入れたあかつきには、世界中の人々にこの女神さまを信仰させようと、そう心に誓った。
「ちなみに、その能力というのは?」
「『記憶保持』です」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・えっ?」
「この能力があれば、貴方は今までの記憶を保ったまま、次の人生を過ごすことが出来ますよ。他には誰も持っていない、異世界でただ一つの能力です」
悪意がひと欠片も混じっていない、完全な善意から放たれた言葉であることは、俺の目から見ても明らかであった。
「それでは、良い人生を」
考えることを止めていた俺は、人生で出会った中で最も美しい女性に見送られながら、まばゆい光の中に包まれて、そして意識を失った。