クロのマッピング
クロの朝は早い。
王女時代から厳しく躾けられ、規則正しい生活だ。
それが当たり前であったので、別段、辛いということは無い。
「ん…」
小鳥が外でさえずっている。
小さく背伸びをしたクロは、ベッドを降りると手桶で顔を洗う。丁寧に布で水気を拭き取ると、今度は空色のローブを着込み、繊細な銀髪に櫛を通した。櫛と手鏡はティーナが買ってくれた物だ。
「よし!」
身だしなみのチェックを終えて、部屋を出る。
「お早うございます!」
護衛の女騎士が元気よく挨拶してきた。
「お早うございます。いつもご苦労様」
クロも微笑んで挨拶を返す。
「いいえ、これくらい」
頼もしい騎士だ。ティーナの直属であり、たとえ相手がユーイチであろうとも夜中には追い返す忠義者である。
それはちょっと残念だけど、と心の中で思うクロであるが、口には出さない。
彼女がそのままクロに付いて来て、食堂へ向かう。
「ああ、クロ、お早うさん」
「お早う」
「お早うございます」
ミネアとリサとクレアが食堂のテーブルの席に着いていた。
「皆さん、お早うございます」
クロも隣の席に座る。
「クロちゃんは今日も地図作り?」
ミネアが聞いてきた。
「はい」
「ユーイチや、ミオや、エリカに任せても良いのよ?」
リサが言うが。
「いいえ、これはユーイチさんから頼まれたことですし、私が出来そうなことですから」
大変でもやり遂げなくちゃとクロは決意している。
「偉いなあ」
ミネアが言うが、ミネアも領内の見回りや孤児の面倒見で忙しく働いている様子。
リサはロフォールとヴァルディスを時々行き来して、情報を集めているらしい。具体的にどういうことをしているのかはクロは知らないのだが、領内のことについてはクロより遥かに多くの事をリサは知っていた。
微笑んでいるクレアも、神殿に通って司祭の仕事をやっているらしい。
みんなに負けないようにしないと、と密かに気合いを入れるクロであった。
「お待たせしました。今朝は和食でございます。豆腐とわかめと油揚げの味噌汁に、目玉焼き、ゴマ和えのほうれん草、里芋の煮っ転がしになっております」
カートを押して若葉色の髪のメイド、メリッサが澄まし顔で配膳を進めていく。
「なんやろ、もうすっかり定番っちゅう感じになって来たな」
ミネアが言う。
「そうね。白いご飯を見ると落ち着くのはなんでなのかしら」
リサが言う。
「たくわんのお漬け物もご飯に合いますね」
クレアが言う。
「ナスの味噌汁もいいですけど、豆腐と油揚げもいいですね」
クロも言う。
「フッ」
本物はそこに鮭か鯖が付くのに甘い連中、それで和食を分かったつもりか、などとメリッサが内心思っているが、口には出さない。
「うん、半熟の目玉焼き、やっぱり美味しいなあ」
ミネアは半熟が好み。
「私はしっかり焼いた方が良いけど、誰かさんはサルモネラ菌を甘く見るな、殻を拭いただけではダメだ! なんてうるさいのがいるのよね」
リサが言う。クロは念のため、分析の呪文を目玉焼きに掛けてみたが、問題無さそうだった。U-HACCPにやはり死角は無い。
「万が一の時は、私が治療しますので」
クレアが言うが、彼女がいれば安心だ。
食事はユーイチの話題がちらほら出つつ、和気藹々と進んだ。
「じゃ、ごちそうさま。先に行くわ」
リサは食べるのが早い。クロも食事を終え、口臭予防のための歯磨きをしてから、部屋に戻り、地図用の紙を持って出かける。
「では、皆さん、今日もよろしくお願いしますね」
「はいっ!」
女騎士とその部下の男の兵士が数人、そしてユーイチが集めた技師と魔術士が数人ずつ。それぞれのチームに分かれて地図を埋めていく。
ユーイチの故郷では測量というもっと大変な作業が必要らしいが、こちらでは魔法がある。
マッパーの呪文と、メモリーとメモランダムの呪文を使い、紙に衛星写真も真っ青の精度の地図が描かれていく。ただ、クロはこの地図が精密なことは分かっても、どの程度の凄さかはよく分かっていない。それでも、ユーイチが必要としていたからきっちりやるつもりだ。
百メートル歩く度に、立ち止まって、呪文を唱え、地図を埋めていく。
地道な作業である。
森の中などはモンスターが出てくるので、それも退治しなければならない。
だが、クロとヴァルディス騎士団に掛かれば容易いことだ。
「クロ様、昼食を持って参りましたぞ」
飛空艇でやってきたセバスチャンが食事を振る舞ってくれる。
「チキンの香味焼きに、ホタテとブロッコリーのエチュペ、トリュフのパイ包み焼き、魚のフライにタルタルソース添えでございます」
同席している騎士がなぜか感涙しているが、クロには種類と量が多いな、くらいしか分からない。
「頂きます」
たとえ美味しくないパンであっても文句を言わずに食べてきたクロである。
「美味しいです」
「は」
昼食の後も地図作りを地道にやり、日が暮れる頃、作業を終了して城に戻る。
夕食はもちろん、ユーイチと一緒だ。
お風呂に入った後、クロはユーイチの部屋を訪ねてみた。空色のネグリジェに、羽織り物を着ている。
「ああ、クロ。どうかしたか?」
「えっと、リバーシで遊んでもらおうかと」
「いいぞ。さ、入れよ」
「はい」
本当は黒猫だったときのようにナデナデしてもらいたいのだが、さすがに人間に戻ってしまうとそれはお願いしにくい。
なので、他の事をして遊ぶ。
「じゃ、こっちで」
「おお、そう来たか」
クロにとってはこうして側にいるだけでも幸せに感じていた。
一時間経過――。
「じゃ、そろそろ戻りますね」
「ああ」
領主であるユーイチの仕事に支障が出てはいけないので、名残惜しいがそろそろ自室に戻ることにする。
ただ、いつも同じサイクルで物足りなく思ってしまうのも事実だ。
クロはこの間読んだ恋愛モノの物語を思い出し、勇気を振り絞って、言ってみた。
「ユーイチさん、その前に一つ、お願いが」
「なんだ? クロの頼みなら何でも聞くぞ」
「じゃあ…キス、して下さい」
言った。顔から火が出そうだが、言った。
「お、おう。そうか、キスか。……フヒッ」
ユーイチの顔が変になってくる。ここからどうなるかはクロにもよく分からない。
だが、全てを受け入れる気持ちでいた。
「んー、いや、しかしっ! ハッ、孔明の罠? いやいやいや……」
ユーイチは何やら逡巡を始めてしまった。
待つ。
「よ、よーし、行くぞー」
気合いが入ったようである。
クロは目を閉じた。
その両肩にユーイチの手が載せられた。
ドキドキする。心臓が音を立てているのが自分でも分かった。
長い長い緊張の時間の後―――。
おでこに柔らかい感触があった。
「じゃ、お休みのキスな」
ユーイチが言う。
「はい。ありがとうございます」
唇を期待していたのだが、おでこだった。
進展したから、それでいいかなとクロは思った。
「お休みなさい」
「ああ」
また明日。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
クロが部屋に戻っていった。
俺は少し、高揚した気分でいた。
行ける。次は行ける。
その場で軽くステップを踏んで『白鳥の湖』を踊り出したとき――。
「つまらん! せっかく眠りに就いたフリをして、静かにしておいてやったというのに、アレはなんじゃ? ヘタレにも程があるの」
リーファがしゃべり出した。
「起きてたのかよ。うるさいよ。物事にはペースとタイミングがあるんだっての。光源氏と若紫ちゃんの話を聞かせてやろうか?」
「ふむ、『源氏物語』とな? 聞いてやろうぞ」
俺はリーファに源氏物語の一節を聞かせ、光源氏がどこでミスったかを滔々と聞かせてやった。
――― 完 ―――