空のおじさん
小さい頃、学校の帰りに妙なおじさんを見たことがある。
その日はなんだか朝から頭が痛くて、保健室の先生に多少無理を言って早退させてもらった。
普通は親が迎えに来るものだが両親とも都合がつかず、仕方がないからと渋々のことだった。
当然のことだ。
赤いランドセルを背負って保健室をあとにした。
チャイムが遠くに聞こえる。
みんなは今頃社会の授業を受けているんだろう。
授業中、教室の窓から見えるにわとり小屋を思い出した。
空を見ると、朝は雨が降ってドンヨリしていたのが嘘のように晴れていた。
まだ水たまりが残る校庭を真っ直ぐ抜けて校門を通る。
学校から出ると頭の痛みはなくなった。
自分だけが薄い膜で覆われて、世界から切り離されているような疎外感を覚えた。
なんだか走りたくなって、水たまりを避けながらアスファルトの地面を蹴る。
梅雨の湿気が半袖のシャツにまとわりついた。
妙なおじさんはそこにいた。
走るのにも少し疲れて、近所のマンションの駐車場の横を歩きながら通り過ぎようとした時だ。
おじさんは駐車場の真ん中で、空を見上げながら真っ直ぐ立っていた。
小太りで、人が良さそうな、髪が少し薄いおじさんだ。
「おじさん、何してるの」
「…ああ、こんにちは。今日は学校終わるの早いのかい?」
僕は首を横に振った。
「早退してきたんだ。頭が痛いから」
「今も痛いか?」
再び僕が黙って首を振ると、おじさんは笑った。
おじさんはずっと同じ場所に足をつけたままだった。
そういえばこのおじさんは靴下しか履いていない。
おじさんの後ろを見ると、革靴がちゃんと並べて置いてあった。
「はは、おじさんもそういう事あったなあ。母さんに叱られたっけ。君は上手くやれよ」
僕は首を縦に振った。
「おじさん、何してるの」
「…こうしてると、心が軽くなるんだよ」
おじさんはまた空を見上げた。
「嫌なことも何もかも、空にぜんぶ浮かべてみるんだよ」
そう答えるおじさんの横で、僕も空を見上げる。
首の皮がピンと張って、帽子のつばが頭の後ろに当たった。
雲が急ぎ足で流れていく。
流れる雲と一緒に僕の嫌なことも流してもらおう。
ママとパパが喧嘩していること。
そのせいでママが泣くこと。
パパが家を出て行ったこと。
パパは『僕のパパ』じゃなくて、『他の女の人の旦那さん』になってしまったこと。
ママが僕を抱きしめて泣きながら謝ったこと。
その時のママの腕の中はいつもよりずっと狭くて、もう僕は抱きしめてもらえないんだと思った。
その代わりに僕がママを守って、ママを抱きしめてあげないといけないんだと。
「…君も辛いことがあったんだね」
隣で聞こえるおじさんの声に、僕は答えなかった。
今口を開くと変な声しか出ない気がしたからだ。
唇を噛み締めて空を見ていると、ひんやりした涙がこめかみを伝い耳に入った。
「…おじさん、ばいばい」
手の平で滅茶苦茶に顔を拭い、おじさんに別れを告げた。
「ああ。君に良いことがありますように」
おじさんは笑って、僕に手を振った。
おじさん、ありがとう。
そう伝えておこうと後ろを振り向いた時、おじさんはもういなかった。
駐車場の真ん中にぽつねんと、靴だけが綺麗に取り残されていた。
『まず、重力反転薬を、地面に蒔きます。するとそこでは重力が逆に、つまり世界が逆さまになるような体験ができます。地面にぶら下がることが可能になったわけです』
『重力反転薬の開発で、重い荷物を運搬する作業などをより安易に進める事が可能になったんですねえ、これはすごい発明じゃないですか』
『効果が持続するのは30分程ということですが、使用中の安全を十分考慮しないといけません』
『こんな薬は劇薬も同然だ、ただちに政府で規制をかけて取り締まるべきじゃないんですか!』
不思議な出会いから数年が経った。
私は母と二人でなんとか暮らし、なんとか生きている。
毎日辛いこともあって、楽しいこともあって、流れる時間の渦の速さの中で立ち尽くすだけで精一杯だ。
それでも、心が重くて、何もわからなくなりそうな時。
誰にも優しくできない時は、空を見上げた。
目に溜まった涙は横に流れることがなく、瞬きをするとポタリと空へ落ちていく。
「私は私でいられているかな」
どうしようもない悲しみを、また空へ放つ。
今私を地面に繋ぎとめているものは、両足の裏だけだ。
少しでも足を離せば、私はあの青い空虚へ落ちていく。
自暴自棄な衝動にかられたこともあったが、それでも私は地面から離れることができなかった。
でも宙に舞う涙の分だけ、心が軽くなっていく気がした。
地球に引っかかっている全ての人たちの心が軽くなりますように