ドレスデン人の警察官は・・・・。
鉄条網に囲まれた街は、
まるで同じ形のチーズを並べたように、
直方体の、
同じ形状の建物が並んでいる。
幼児は、
母親のスカートを引っ張って、あれはなんだと質問する。
しかし返ってきた答えが彼女を納得させるわけがなかった。
それもそのはず、
ただその有り様を誠実に形容したにすぎず、
娘の気持ちを考えて、
そこまで斟酌して答えたわけではないからだ。
冷風が吹き荒む11月。
人々は一様に同じ服を着て行進している。
本人たちよりもむしろ観ている人々の心を寒くさせるほどに、
連中が袖を通しているものは薄い。
いや、本人たちの本意であるはずもないから、着せられていると表現すべきだろう。
そこまでいうとかなり錯覚が入っているだろうが、
裸体が透けて見える。
より正確を期すならば、
その骨格が動いているが見て取れる。
それはあながち錯覚だと非難できないのは、
連中の動きがやけにいそいそとしているからだ。
けっして、
きびきびとしているわけではない。
連中に、
それぞれの意思などまったく感じることはできない。
まるで軍人のような服装の警察官たちに追い立てられて、
連中はそうすることを強制されているだけなのだ。
子供ならば、
大人が当然だとおもうことに、
無邪気に不思議がるものである。
大人たちはとっくのとうに、
保身ゆえにそんなことは止めてしまった。
というよりも、
この鉄条網が巻かれたときから、
大人たちは自分の頭に、
ものを考えることを禁じたのだろう。
しかしながら、
子供たちは、
まさかあのおどろおどろしい、
鋼鉄製の、
巨大なミミズが、
それもあちらこちらに尖った針を施した、
そういうものが自分に絡まってくるなどと、
夢想だにしなかったであろう。
仮に、そう思ったところで、
自分が原因などと想像だにしない。
よって、
あのものものしい警察官たちにも、
少女は恐れを抱いていない。
こちらに近寄ってきても、
母親が身を固くするのを、非常に不思議がるほどだ。
ちなみに、
母親のスカートには神経と血管が通っていて、
それを摑む子供には、
すべてが伝わってしまう。
血の流れと発汗の如何によって、子供は親の内心を読み取ってしまうものだ、言葉に依らずに。
逆に驚く母親は必要以上に顔をしかめたことに、
さらに不安を抱いて、
悪い顔の悪循環を招く。
警察官は、
少女の目には黒曜石のように、
ピカピカと輝くブーツが印象的だった。
だから、ブーツ、ブーツと呼ぶ。
その声が、
ドレスデン人にはことさら耳障りが、よく受け止められたらしい。
彼らには馴染みのない言語のさらに方言となれば、
意味がわからないのも当然だろう。
おもわず母親は自分ばかりか、
子供の命まで危ういと、
思わず先回りしてしまい、
わざと、
子供を殴る仕草をして、
ブーツにたいして平身低頭する姿を凍り切った大地に対して晒す。
この地は、
先祖代々、ここに住む人に忌み嫌われつづけた。
きっと、子孫が絶えるまで同じ感情を抱き続けるだろうから、
彼らの代弁をしても、未来から文句が遡行してくることもあるまい。
地味は悪く、作物の育ちは悪いし、
そのうえ、
牧畜にも向かない。
せいぜいがやっと食いつなぐ作物が育つていど。
産業らしい産業がないというか、
それを育てる土壌が全くないと言っても過言ではない。
付け加えるならば、
交通路が全くない、というか、
このような辺鄙な、
文明の発展から完璧に忘れ去られた土地にも、
あるていど、
大都市への道程が用意されたことが、
かえって、
この地が先細る助けをした。
若者がぞくぞくと脱出しはじめたのである。
兵役につけば、
先進国の市民権が手に入ると知れば、そちら行きの列車に乗り込む。
それだけでなく、
戦争が始まると、べつの理由からこの地からいなくなった。
そうなる以前から、
この地を捨てたいと、
この地に住まう人たちは思い続けたが、
彼らに行くべき先は、なかった。
今日、
この地を支配しているドレスデン人たちのように、
誰か、自分たちよりも強い人たちに、
支配され、搾取され続けるのが、
先祖代々、子々孫々、神さまから与えられた運命だと思って諦めるより他にない。
だが自分たちよりも惨めな連中は、たしかにいる。
それは鉄条網に巻かれた街のことだ。
光るブーツが近づいてきたことに、
さらに喜ぶ、
幼い娘が、
ブーツ、ブーツと騒ぐのを必死に抑えつつ、
平身低頭しながらも、
鉄条網のなかに視線を送る。
黒光りする制服に身を包んだ、
ドレスデン人の警官は、
目ざとく、
母親の挙動を読み取ったらしい。
視線が行くさきを視認したのだ。
彼は、囚人が逃げ出したと言い出した。
たどたどしいながらも、
自分たちの言語をよく学んでいることが伺われる。
彼らは自分たちこそが、
世界でもっとも優秀だと叫んでいる。
というか、
そう叫びつつ戦争を始めた。
あたかもそれが目的かのようだ。
なんと彼らは幸福なことか。
自分たちとまるで真逆だと、
逸る娘を何とか制御しなから、
母親は思わざるを得ない。
目の前にいる、
年齢的には、
自分の甥くらいの青年、
やけに薄い色の瞳が光っているのかと覆うと、
髪の毛だ。
髪の毛が光って、早朝の湖面のような瞳にそれに反射していたのだ。
キャップの隙間から金髪がはみ出ている。
それに何と、肌の色の白いことか。
きっと太陽の元で肉体労働などしたことがないのだろう。
警官とはとうてい思えない。
警官とはもっと粗野で野蛮なものだ。
警官とは賄賂を取って、犯罪者を見逃すし、
警官とは冤罪で市民を牢獄に送るものだ。
そうした属性とはあきらかにこの青年は相反する。
だがあくまでも警察然とした風貌。
細身の肉体が、
黒い制服の特性を際立たせている。
剣を携えていないし、
馬にも乗っていないが、
いい意味、
そして、悪い意味においても。
まるで黒い氷の鎧を着こんだ騎士のようだ。
彼らは、
自分たちを竜騎士と自称しているほどだから、
それはあながち嘘ではないかもしれない。
ブーツは、
逃亡者について、語り始めた。
気が付くと、
母親の胸から離れて、
娘は彼の方向に走り寄っていた。
白い両手が尽かさず彼女を抱き上げた。
なんの根拠もないが、
そのしゅんかん、
薄い色の瞳が、
反転して真っ黒になり、
ピストルを抜いて、
娘の額に当てて、
青年が弾を撃ち込む。
そんな映像が脳裏を過った。
彼女の靴が地上から浮いていたが、
しかし、
それは銃声が理由ではなかった。
キャキャという笑声が、
彼女が存命中であることを証明していた。
あたかも、
通奏低音のように、
青年の冷たい声が娘の笑声に応じる。
チェンバロの音にのみ、
彼の声は擬せられるべきだ。
ドレスデン人の警官は、
娘を抱きながら、
多いに笑った。
人は笑うことによって、
ほうれい線、その他、顔に多くの皺が、
たとえその人物が若かろうと、
それこそ赤ちゃんであろうとも、
いくつも刻まれる。
人間としてはごくあたりまえのことが、
彫像のような彼には当てはまらないと、
勝手に決めつけていた。
だから、
ドレスデン人の警察官が、
そんな表情をしたとき、
少女の母親は多いに驚いたものだ。
彼は、
そんな、彼女の表情など気にも留めずに、
逃亡した連中について語り始めた。
にこやかで、
上品な笑い顔から、
迸るとはとうてい信じられないほど、
下卑た物言いだった。
母親は、思わず顔をしかめて、
まるでまだ見ぬ息子にそういうように、
叱って見せた。
ドレスデン人の警察官は、
あやうく、
少女を落としかねないといった顔をすると、
まるで小指をちょっと触れただけで壊れてしまいそうな、
非常に、
繊細なガラス細工を扱うように、
彼女を地面に立たせた。
まるで彼女の脚が固まりきらないチーズでできているかのような、
用心ぶりは、
母親の好感を買うのに十分だった。
ドレスデン人の警察官は言った。
「あなたはドレスデン語ができるのですか?」
少女の母親は、
さらに顔を強張らせたが、
それは先ほどとは、
ちょっとばかり意味合いが異なる。
彼女はドレスデン語など、
知るべくもない。
だが、
あたかも彼が、
彼女の母国語を喋っているように意味がわかったのだ。
考えてみれば、
彼があれほど流暢に、
彼女の母国語を操れるはずがなかった。
粗野な物言いは、どんな言語でも共通、
じっさいには、
口調や表情でわかるものだろうが、
ドレスデン人の警察官は、
そういう説明で理解したが、
じっさい、
彼は白馬の騎士のような表情で、
下卑た言葉を連発したのだ。
寄生虫だの、
虫けら以下だのと、
だが、それは上品な笑顔とはどうして相入れない。
よって、言語以下のレベルで彼の言わんとしたことを理解したというのは、
理屈が合わない。
ドレスデン人の警察官も若い母親も困惑している。
ただ、一点においてだけは軌道を同一にしている。
だが、
彼の言を聴いているうちに、
気がつかないうちに首肯している自分に気づいた。
若い母親は、
彼が、
自分たちよりも劣る存在がいることを、
確認することで、
気持ちが良くなると、
誘導していることに気づいていた。
だが、
それを受け入れることの麻薬に抗することは難しかった。
再び、
自分の手と胸に戻ってきた娘を抱き上げながら、
苦々しい思いとともに、
そういう自分を否定できないことに苛立っていた。
気がつくと、
どうして知りもしない外国語が理解できたのか、
そういう疑問は、
雲散霧消とまでは言わないが、
少なくとも、
影に隠れてしまったことは事実である。
あの惨めな乞食の行列をみて、
少しは救われた思いはなかったと、
言えるだろうか。
断言できるだろうか。
とつぜん、
彼がその人物の到来を迎える態度から、
きっと上官だと思える壮年の男性がやってきて、
彼を連れ去った。
その人物が自分に対して えらく紳士的だったことに、
たったそれだけにことで、
あたかも世界の女王に即位したような高揚感を覚えた。
高揚した気持ちが冷めやらぬ前に、
この場所から立ち去りたくなった。
できれば、それを家まで持って帰りたくなったのだ。
娘は、
例の上官が姿を現してから、
帰りたがるようになっていた。
何故か、
彼と一対一で、
娘がいるのにおかしな言いようだろうが、
ドレスデン人の警察官と顔を合せることは、
もうないように思えてきた。
寄生虫だの、
虫けら以下だのと、
どうして、このような下卑た言葉だけが耳に残っているのだろう。
同時に、
脳裏に彼の上品な笑顔が記録されている。
女王然と扱われたことはすでにあさっての方向に擲っている。
11月ならば、
昼下がりとはいえ、
かなり冷える。
その日も、
その例に漏れない。
逃亡者は凍えているだろう。
彼がいなくなったとたんに、
逃亡者に対する同情が芽生えた。
不思議なことだ。
ブーツが直立していただけで、
彼はこの空間を支配していた。
移り気な・・
そういう文句で始まる詩があったような気がする。
この地には色々な人たちがやってきて、
そして、去って行った。
多くの者たちは、
収奪しにきて、
じっさいには、実入りが、何もないことに気付き、
さんざん、人殺しを楽しんだうえで去って行った。
ドレスデン人はどうか。
彼らは巨大な工場とも、刑務所ともしれぬ建物を、
この地に建設した。
いったい、何を収穫しにきたのだろう?
彼らが、
寄生虫、あるいは虫けら以下と呼んでいたのは、
チェコ人。
自分たちと違って、
根無し草と聴いた。
はるか古代自分たちの先祖が、
聖地たる故郷から追い立てられ、
それ以来、受難の歴史を、
歩んできた、
そういう神話を無邪気に信じ続けていると聴く。
自分たちには、
なぜか、
寒冷、不毛の地に縛り付けられた、という神話、物語は、
与えられていない。
そのぶん、
彼らは幸福でないかという、
想いが湧いてきた。
もしかしたら、そういう神話はあったのかもしれない。
近い未来に、
ドレスデン人の警察官が、
仕事のひまなときにでも、
片手間にする
研究で明らかになるかもしれない。
たしか、第三帝国だったか、
彼らの理想は。
その帝国の、
一番の、
代官くらいの地位はこの地も与えられるだろう。
この戦争の勝利の暁には。
だが、生きて彼にはもう会えない、
という確信にも似た予見はどうなるだろう。
彼らの勝利がまさか自分の命と、
運命を共にするとは思えない。
自分の娘か、
孫か、が
きっと彼の研究成果を手に取るだろう。
そのときに自分はこの地、
深くに眠っているだろう。