7 記憶の大氾濫、そして鳥の名を持つ男
それは、いつだった!?
それは、誰とだった!?
判らない。記憶にない。俺にはそんな記憶はない。
(でもそれはおかしいだってお前はそんな風に感じているそれが快感だということを知っているどうやって求めたらいいか知っている)
(お前は知っている)
(お前は知っている)
(お前は知っているはずだ)
―――誰だった?
墜ちていく。
………
―――彼は伯爵との会話を思い返していた。あの美しい二連星から帰ってきた時のことだった。
庭には、遅れて咲いてきた薔薇が美しくその姿を現していた。
伯爵はその時、花でも愛でながらお茶でもどうかね、とGを誘った。
伯爵邸のお茶は実に美味しかったことを覚えていたので、彼は一も二もなくその申し出を受け取った。
そういう時間は、彼らが出会ってからよくあることだった。
最初の出会いは確かにあまり印象が良くなかったが、それでも慣れと、仲間意識と、そして伯爵自身の穏やかさがGにも馴染んでいったと言える。
「今でも不思議なんですけど、どうして盟主は僕を選んだんです?だってそりゃ素質がどうっていうのは聞きましたけど、だからと言って」
「だからと言って?」
伯爵は穏やかに問い返した。
「僕は人間だ。あなた方のように特別なものじゃない」
確かにそうだ。最高幹部会が人間以外のものの巣窟であることは、既にGも理解していた。
この伯爵にしても、どんなものであるかまではまだその時点では聞いてはいなかったが、少なくとも人間ではないことは盟主から聞いていた。
連絡員のキムは最後のレプリカントだし、中佐はその昔身体を無くして現在は脳以外全て戦闘タイプのサイボーグだという。
盟主自身にしても、ただの人間ではないのは判る。キムや中佐の話を聞くと、Mは彼らが拾われた当時とまるで変わっていないのだという。
彼らのようにメカニクルの身体を持っているのならともかく、Mは純粋な生身らしい。
そして時々囁かれる「やんごとない」という形容詞。彼につけられるそれは、一族もしくはその上の存在をうかがわせる。…「悪意と悲劇」の存在理由を考えるとそれはひどく不思議ではあるのだが。
つまりは、特別な立場にある人間の選んだ、人間以外のもので構成される最大の腹心。それが「MM」の最高幹部会のはずなのだ。
なのに自分は。
「僕はただの人間です。一体どうして僕がここに居るんでしょう? 僕にはそんな、盟主に、Mにそう呼ばれるだけのものがあるんでしょうか?」
「あるからこそ、彼は君を呼んだのだよ」
伯爵はあくまで穏やかに話す。
「必要でない者を、我らが盟主が呼ぶ訳がない。何らかの理由があって、君を招き入れたのは事実だ。私は彼と付き合いが長い。もう何世紀と、行動を共にしている」
Gはその言葉に顔を上げた。何世紀?
「彼が理由もなく、気まぐれでそんなことを決めることはない。気にするな、とは言わないが、気に病む必要はないことなんだ。最も、それは人に言われてどうこうすることではないんだろうね…」
Gはうなづいた。
「こうやって言っている私にしても、情けないかな、まだ思い切れないことが多々あるものだ」
「何世紀も?」
「そう、何世紀も」
Gはその時、覚悟を決めてその問いを発した。
「伯爵は、一体何なんです?」
「私かい?」
彼は立ち上がると、咲きかかった薔薇の一本を折った。そしてにっこりと笑うと、その花をGの目の前に突き出した。
あ、と彼は思わず声を上げていた。
つぼみから、ようやくその美しい姿をいっぱいに開こうとしていた矢先の薔薇が、みるみるうちに、しぼみ、茶色に変わり、それが茎に、葉にと回り…
やがて、からからに乾いた身体を、軽い音ともに崩れさせていった…
「伯爵あなたは…」
「そう」
彼は軽くうなづいた。
「私は吸血鬼だ」
それでは自分は何だというのだろう。
墜ちた記憶が、彼にはある。
だけど何故墜ちなくてはならない?
ただの人間の俺が。墜ちるのは、違うだろう?
彼は自問自答する。
確かに俺はあの一族の出だ。だが既にその一族とは言っても、既に祖先の栄光は歴史の彼方だ。ただそれでも一族の一族たる誇りとか家柄とか何とやらのおかげて俺はずっとあの家でそう育てられてきた。育てられてきたはずだ。支配者階層が支配者階層たる教育という奴を。帝立大学が一族やその周辺の傍族に対して無試験で入学させるのはそのせいだ。あそこは確かに最高学府であるが、それ以上に、支配者階層の安定のために存在するのだ。ただ芸術専攻は違う。音楽専攻は違う。あれは別物だ。支配者階層は支配のための学問とそしてそれを見なしていない。そしてその天分は支配者階層であろうがなかろうが同じだ。だがそれ故に一族は俺が音楽専攻に行くのは許さなかった。そのはずだ。そういう記憶のはずだ、俺は。
そういう記憶のはずなのに、彼は。
それではつじつまが合わない。
彼には何処からか墜ちた記憶があった。
墜ちて、その時に見た空の青さを。
浮遊感を、目眩を、恐怖を、快感を。全て覚えている。
だがその記憶は、彼が記憶としてきたものとはつじつまが合わない。
そう言えば、キムが変な顔をした時がある。
ふと彼は思いだした。
先日この仕事についての連絡を受けた時のことだった。大きな人形を左手に抱えて、キムは半歩先を歩きながら彼に訊ねていた。
「そういえば、何かお前、こないだ変なこと言ってなかった?」
「変なことって何だよ」
彼は問い返した。するとキムは彼にあっけらかんと言った。
「俺がMに拾われたあたりに、まだ生まれてなかったとか何とか」
「言ったけど? 何かおかしいか?」
そう彼が言ったら、キムは黙って首をかしげた。
それだけのことだったけど。
何を忘れているというのだろう。
どうして記憶に食い違いがあるのだろう。
そして。
「――――大丈夫か?」
軽くあごを上げて、心配そうにのぞき込む相手の目を彼はのぞき込んだ。喉の震えを確かめる。ひどく喉が乾いていた。
「だいじょうぶ」
自分自身の、ひどくかすれた声にGは驚く。
ごめん、とつぶやいて、軽く相手を押し退けた。相手もそれには何も言わず、横にその身体を移動させた。
彼は大きく息をつくと、身体がひどく重いことに気付いた。腕を大きく伸ばすくらいはできるが、シーツにつけた背中が、吸い付いたように離れない。
「…水、ちょうだい」
何となしに彼は相手にねだっていた。
ひどく喉が乾いていた。セバスチャンは水の瓶を手にすると、一口含んで、動けないGに移した。ゆっくりと、水が喉に染み渡っていく。
そして、ようやく自由を取り戻した喉は、それまですべきでないと感じていた質問をたやすく口にさせた。
彼はセバスチャンの方に顔を向ける。いや、セバスチャンと名乗っている誰か、に。
「…あんたは一体、誰なんだ?」
月明かりに逆光で、相手の顔が見えない。それがやや不安ではあるのだが、それでも聞かずにはいられない。
「俺はあんたを知ってる。あんたに墜とされたことを知っている。だけどそれしか判らない」
「…G」
セバスチャンと名乗っていた彼は、Gの本名をつぶやいた。だがそれは無意識だったようで、口にした本人がやや驚いているように、Gには感じられた。
「俺は、何かを忘れている。いや違う。俺の記憶自体が、ひどく矛盾している。記憶が混乱している。あんたと昔何処かで出会った。あんたに俺は墜とされた。俺はそれを知っている。だけど、それがいつなのか、何処でなのか、どうしてなのか、判らない。少なくとも俺が今記憶だと思っているものの中には存在しないんだ」
それを聞くと、彼は軽く息をつき、ややそれまでとは違った口調になった。いや、言葉自体は大して変わらないが、それを発音する口調が。
「G、これは条件みたいなものだ。君が、ピアニスト志望の学生サンド・リヨンである以上、俺は帝立大を中退してヨハン・ジギスムントに入ったセバスチャン・フランクと名乗らなくてはならない。だけど俺は今君の名を呼んでしまった。…条件は変わったな」
Gはひどく重い身体を、それでも力を振り絞ってゆっくりと起こす。
「その条件に関する正体は話せる。俺の名は鷹、だ」
「鷹?」
鳥の名をGは口にする。
「そうとも言う。それは俺のコードネームの方だ。だがそれ以外の名は現在の俺にはない。俺は、帝国内閣調査室の第98分署、通称『ティアーズ・オブ・クライスト』の一員、鷹だ。『MM』最高幹部会の一人、G君」
「それじゃ、情報網に鳥を――― 鷹を飛ばしていたのは」
「俺もしくは、俺の分署の仲間だ。内調には最近情報ハッカーが著しくて、帝国の最高機密を隠してある森にまで手を伸ばそうとする奴らがここいらまで侵入してきた。俺はそれを捜査して『飛ぶ**』を追ってここまでやってきた」
第三の勢力、と自分が伯爵に言ったことを、彼は思い出した。
「それじゃあんたも、『飛ぶ**』の今回の計画は」
「無論、阻止する側だ。連中は君らと違って、主義主張があってそうする集団じゃない。『騒乱』そのものを目的としている」
「『騒乱』それ自体…つまりその結果はさほど問題じゃないと」
「そうだ」
鷹はうなづいた。Gは軽く眉をひそめる。
「それはまずい」
「そう、それはまずい。正直言えば、今回内調は、『悪意と悲劇』には手を出す気はない。無論将来、君達が直接我々に対し攻撃行動を起こしてくるならともかく、現時点において、特高でも軍警でもない我々は、君達に敵対する理由がないんだ」
「それは鷹、今回のこの事態に対して、俺達の行動に目をつぶるということか?」
「目をつぶる。もしくは、手を貸そう」
それは、本当だ、とGは感じていた。
盲目的に信じるのではない。条件を考えてもそれは納得できることだった。
反乱分子を取り締まること、それ自体が役割である特高や軍警と違って、内閣調査室は、基本的にこの帝国を維持するための情報の維持管理を担当している。
それが危険になった時、その調査員はあらゆる手段を使ってその危険を回避する。目的のためなら、彼らは反乱分子すら利用する。それは『MM』内部でも充分知られたことだった。
「OK、悪くない」
Gは軽く笑った。お、と鷹が声を立てる。何、と彼は訊ねた。
「やっと笑った」
「やっとって…… 俺笑っていたじゃない」
「君が本当に俺に笑っていたことなんてないだろう?」
どうやら見破られていたらしい。
「だけど鷹、別の条件に相当するあんたの正体については、言ってはくれないのか?」
「条件が揃っていない。君が自分の正体に気付かない限り、俺はそれを言うことができないんだ」
「あんたは天使を墜としたって言った。あれは俺のことなのか?」
「なあG、俺がそうと言ってしまうことは簡単だよ」
鷹は腕を伸ばした。まだひどく重い身体を、Gは再びシーツの中に埋める。
「だけど、それでは駄目なことくらい、君にも判るだろう?」
そうだろうな、と彼は思う。うなづく。知ることと判ることは同じではないのだ。
「でも、確かにあんたの声で俺が墜ちたんだとしたら、本当だと思うよ」
「そうか?」
「この声が無かったら、俺は、ずっと自分が誰なのか気付けないままだったろうから。別に思い出した訳じゃないけど」
「思い出していないことを思い出しただけでも上等さ」
彼はGの長い前髪をかきあげた。その手を取って、Gは自分の頬に当てる。固い手だった。
「よく考えたら、御曹司がこんな手をしているはずないもんな。これは訓練を受けた人間の手だよ」
「そうだな。だけどそれに気付けなかった?」
「どうかしてる、俺は。だけどもう一つは気付いているよ。御曹司なんかじゃあない奴は」
「誰だと思う?」
「たぶん、とってもいいしつけの家で育った奴さ」
ふん、と鼻で笑うと、そのまま鷹は手を向こう側にまで回した。
その手の熱さが奇妙に気持ちがよくて、大量の眠気が急に自分に襲いかかってきたことをGは感じていた。