野良公女
公爵令嬢レイチェルは、第二王子に婚約を破棄され、学園から放逐される。
人気のない森の中へ置き去りにされた彼女の生き残りの日々。
「私には全く身に覚えがございませんわ。…けれど、家に迷惑を掛けるわけにも参りません。私の身は如何様にでもなさいませ、その代わり家や他の方々には無理難題を押し付けられませぬように」
きっぱり言い切る彼女は姿勢よく背筋を伸ばし、長身の貴公子相手に一歩も退かなかった。
レイチェル公爵令嬢は第二王子アーノルドの婚約者として同じ学園に学び、他の令嬢達の取りまとめ役として信任篤い。艶やかな金髪はいつも一筋の乱れもなく結われ、切れ長の瞳は澄んだ淡いブルー。学業優秀でダンスや乗馬なども上手く、社交術やその他令嬢に必要な諸々も極めて出来が良いと知られており、完璧な令嬢、とも呼ばれている。
しかしその完璧さが、婚約者である第二王子や弟の公爵家嫡男には煙たがられ、疎まれたのか。二人は学園に編入してきた男爵令嬢に入れあげていると専らの噂だった。しかしその少女は他の貴公子達をも虜にしているとも噂され、今の学園は荒れている。
令嬢達女性陣は件の男爵令嬢に冷たい視線を向け、男性達は彼女に好奇の目を向ける。第二王子はもちろん、公爵家の令息も婚約者がいる、そして何故か他のやはり既に婚約している、それなりの地位にある少年ばかりが彼女に入れあげる事態が起こった。
レイチェルはそれを傍観していた。婚約者が彼女にべったりだと嘆く令嬢を宥め、鉄槌を食らわすべきだと意気込む同級生を窘める。もともと気位は高いが気性は穏やかで、下の者に対しても理不尽なことは言わないし上の者にも媚び諂わない、同格の貴族子女からは相談を持ち込まれることも多かった。弟や婚約者に対しても、言わば一時の夢のようなもので、敢えて目くじらを立てるほどでもない、時間が経って冷静になれば彼等も己の立場を弁えようと好意的に判断していた。
けれど彼女のその静観に甘え、王子と公爵令息は暴虐に出た。或いはその男爵令嬢の言い出したことかもしれない、レイチェル公爵令嬢が自分の婚約者が親しくしている彼女をやっかんで誹謗中傷を流し、持ち物を隠したり捨てたりしたと訴えがあった、申し開きがあるならしろと、学園中の生徒の前で言い放ったのだ。
「姉上、往生際が悪いでしょう」
「あらエリオット、私この上なく潔く振る舞っていてよ。貴方方が言うような行いに心当たりはございませんわ、けれど私がそれを負わなければお父様にまでご迷惑をお掛けすると仰られては」
そもそも王子と彼女の弟にしても、本気で彼女がそんな悪質な行為に及んだと考えた訳ではない。言い訳があるなら聞いてやらないでもない、と半ば脅しつけて自分達に従わせようとしたのだ。
それに対しレイチェルは毅然と顔を上げ、彼等の言葉に怯みもしない。全く心当たりはございません、謝る筋合いももちろん弁明する理由もないと揺るぎない彼女に業を煮やして王子が口にしたのが、公爵に事の判断を仰ぐ、という言葉だ。それだけならばまだしも、事によっては公爵の一族郎党で償ってもらうと言い出し、さすがに他の貴公子達や一般の生徒からも驚愕と戸惑いの視線を向けられた。
それに対してレイチェルは諦めとも見える表情で、けれど誇り高くあっさりと自分で責を負うと言い切る。その冷静な態度がいっそうアーノルド王子の矜持に障ったらしい。
「な、ならばその身一つで森の中へ放逐してくれる! 獣にでも喰らわれれば良かろう!」
「きゃあっ、アーノルドったら!」
場違いに甘ったるい声をあげたのは、彼とエリオットに挟まれていた少女だ。
噂の男爵令嬢マリーベル。淡紅色の癖毛を小柄な背に流し、小さな拳を握って口許に添える、可愛らしいのに妙に蠱惑的な仕草。きらきらと輝く大きな瞳はダークレッド。他に類を見ないタイプの容姿ではある。そして全体に幼い印象だ。小柄なこともあるし、振る舞いが落ち着きなく小動物を思わせる。はっきり言って貴族令嬢らしくない。身分が低いのは理由にならない、だからこそこの学園で己の立場に相応しい振る舞いを身につけねばならないのだ。
しかし今も、彼女は場違いにはしゃいだ声で王子に体をすり寄せる。
「身一つ、なんてやだぁ、アーノルドのえっち」
「…はっ?」
突拍子もないことを言われてさすがにアーノルドが彼女の顔を見る。それを上目遣いで見つめ返してマリーベルは囁いた。
「だってぇ。『身一つ』って、服も全部脱いで、ってことでしょ?」
きゃあっ、と甲高い声をあげて赤く染めた頬を両手で押さえる彼女は可愛らしい。しかしさすがに場の空気を完全にぶち壊す発言に、白々したものが流れてアーノルドは赤くなったり青くなったりしている。エリオットも彼女と姉を代わる代わる見やって何と言ったらいいか判らない様子。
別に彼等を助けるつもりもないが、いっこうに話が進まないことにレイチェルは一つ溜息を吐いた。
「衣服や、その他は私が所有していても本来は公爵家の持ち物ですからお返しするのは当然ですが。…さすがに一枚くらい身にまとうものはお許しいただきたいですわ、殿下もそのような事をお望みではございませんでしょう」
さらりと告げる彼女にマリーベルは面白くもなさそうに唇を尖らせた。
「そこは恥ずかしがるところじゃないの、ふつう?」
何故か不満そうに言う彼女を綺麗に無視して、レイチェルは真っ直ぐアーノルドを見ていた。
「でしたら殿下、身の回りを片付けるお時間をいただきますわね」
「…さっさと済ませろ。四半時以内だ」
「無茶を仰らないで下さいませ。女の仕度は時間が掛かりますのよ。一時は必要ですわ」
不機嫌に吐き捨てる王子にレイチェルは背筋を伸ばしたまま仄かに笑みさえ浮かべている。睨み合う二人に、少々焦った様子でエリオットが割って入った。
「あ、間をとって半時程で如何ですか、姉上、殿下」
「…エリオット」
「そうですわね。それくらいでしたら何とか」
半目で口出ししてきた彼を睨むアーノルドに、レイチェルは僅かに表情を和らげる。
「では取り急ぎ、仕度に掛からせていただきますわ。御前を失礼いたします」
優雅な、貴族令嬢の見本のような礼をとって退席する彼女を、アーノルドとエリオットは忌々しそうに見送る。彼女の退場と同時に、他の学生達にもざわめきが広がっていった。
「で、殿下…些かやり過ぎではございませんか」
「その、放逐とは…そのような、無茶をなさると…公爵家が何と仰るか」
「父にはぼくから話す」
王子の護衛も兼ねている学友の言葉に、エリオットが声をあげる。
「姉上は、自分で罰を受けると仰ったのだ。そのことをきちんとご説明すれば、ご理解いただけるだろう」
あくまで真顔で宣う彼に王子は満足げに頷くが、彼の護衛達は疑わしげだ。彼等に挟まれ、小柄な男爵令嬢が朗らかな声をあげる。
「素敵ね、エリオット。貴方の説明ならお父様も判って下さるわよ」
「もちろんさ、マリーベル」
にっこり笑う彼女に励まされるようにエリオットも笑い返した。アーノルドは満足そうに頷いてその様子を見守っていたが、護衛とは別の学友がそっと彼に声を掛ける。
「殿下、恐れ入ります。一般の学生を退出させてもよろしいでしょうか」
「うむ。良かろう、どちらの言葉が正しいか、皆もわかっていようからな」
壇上から一般学生を見渡して言い放つ彼にはそれなりの風格が備わっていたが、その場には妙に冷え冷えと空虚な雰囲気が漂っていた。彼の許可を得て三々五々出ていく彼等は殆ど互いに言葉も交わさず足早だ。
それにアーノルドは若干気分を損ねたようにそれを見回したが、咎める程でもないと判断した。マリーベルはあくまでにこにこと機嫌良く彼を誉めそやし、エリオットも自信満々の上機嫌だ。
ただし彼等以外は、目配せを交わしごくごく小声で囁き交わして情報をやり取りする。それは今まで、マリーベルの傍らに侍っていた少年達も同じ。
剣術なら随一の騎士団団長の息子や人脈の広く特に女性には人気の伯爵家嫡男、平民ながら裕福な商家の息子。これまで、マリーベルのためなら多少の無茶を通してきた彼等から見ても、王子と公爵家の後継者のやらかした行為は無謀に思えた。
何しろ相手は王妃の覚えもめでたい公爵家の長女。跡取りは弟のエリオットがいるが、女にしておくのは惜しいと言われた才女だ。アーノルドとの婚約も、王家の側から直々の申し入れで殆ど国内でも異論が出なかったほど。
そしてまた、アーノルド自身忘れているのかもしれないが本来この学園に在学する者はその間だけ、身分の上下がないことになる。あくまで建前上ではあるが、高位貴族であろうとも或いは王族であろうとも、ここにいる間は誰もが平等な学生、ということになる。もちろんそう理想通りには行かないのだがそれにしても家のことまで持ち出して一人の少女を追いやるとはあまりに度が過ぎる。
小半時の後、女子学生の住まう寮に第二王子と彼に付けられた護衛が押し掛けた。
「で、殿下! こちらは女子寮でございます、お控えくださいませ!」
寮監を務める老嬢の教師が恐慌状態で止めに掛かる。それをアーノルドは煩わしげに退ける。
「緊急事態だと通達しただろう」
不機嫌に睨まれて卒倒寸前の女教師に、穏やかな声が掛かった。
「お騒がせしまして申し訳ございません、ミス・クロイツ」
廊下の奥から優雅な足取りで姿を見せたのは、レイチェル公爵令嬢だった。淑やかな振る舞いは普段の彼女と全く変わらないが、身に纏っているのは飾りも何もないワンピースで、髪も下ろしただけ。化粧気もなく質素なその姿は、普段の彼女を見慣れている者にもはっと瞠目させた。
コルセットも付けていないが、シンプル極まりない衣服だと女性らしい体の線が伺える。さらりと滑らかな金髪はほぼ腰まであった。髪を結いきちんと衣類を整えている彼女は、堅苦しい雰囲気が強いが今の彼女は女らしさを感じさせた。
「姉上、荷物は私の方で送っておきます」
王子について来ていたエリオットが賢しげな声を掛けるのに、彼女は小首を傾げる。
「それには及ばなくてよ。私の預かっていた物は全て公爵家に送り済みです。ジョイスとドロシアも帰しました」
「えっ」
宛が外れた、という表情で立ち竦む弟はそれを全く予期していなかったらしい。
しかしレイチェルは部屋にあった如何にも貴族令嬢らしい持ち物を全て手早く荷造りし、侍女達に任せて公爵邸に向かわせていた。通常の貴族子弟なら個人で荷物を出すのはさすがに手間取るはずだが、レイチェルは公爵家の馬車を保有していた。或いはエリオットが待機を指示していたら御者も動かなかったかもしれないが、レイチェルは侍女達への指示を徹底していたので彼等もお嬢様の急な命令に素早く応じた。姉の持ち物から華やかなアクセサリーの一つでも素朴な男爵令嬢に贈ってやろうというエリオットの姑息な思惑は見事に不発に終わった格好である。
「し、しかし姉上…」
「言ったでしょう、私の持ち物は私のものではないけれど、貴方のものでもありません。お父様にお返しするのが筋です」
諦めきれない弟に彼女はきっぱりしたものだ。反論も出来ず硬直した彼から、アーノルドに目を移す。
「それでは、殿下。お待たせいたしました」
軽く膝を折る礼は、他の誰がしてもこれほど美しくはなるまい。全く飾り気のない素のままでも、或いはだからこそ彼女は凛としていた。
「レディ・レイチェル! そのような格好で人前に出るなど貴女とも思えない行為です、淑女の嗜みを忘れたのですか!」
貴族にとって飾り気ない一枚布のワンピースは殆ど下着と変わらない。一瞬呆気にとられて固まっていた寮監が声を荒げるのに、レイチェルは再度優雅にお辞儀する。
「失礼をお詫び致します、ミス・クロイツ。殿下のお申し付けで、私このほど放逐されることとなりました。短い間ではございましたが、日々のご指導誠にありがとうございました」
丁寧な口上に却って何を言われたかよく判らなかったらしいミス・クロイツはきょとんとしていたが。その顔がさぁっと青ざめたかと思うと、棒のように倒れた。
「ミス・クロイツ!」
「クロイツ先生、しっかり!」
途端、遠巻きにしていた寮の女生徒達が慌てて飛びついてくる。
「まあ、大変。殿下、護衛をお貸し願えますか、先生をお部屋まで運びませんと」
レイチェルが落ち着いているのは、寮監のミス・クロイツは時々こうして倒れるからだ。口の悪い生徒はヒステリーの発作と称するが、彼女はそれには触れない。ただ淡々とそういうとき必要とされるだろう指示を行うだけだ。
「お部屋で休んでいただければ、大丈夫でしょう。後をよろしくお願いしますね」
あくまで冷静な彼女に他の女生徒達は半泣きだ。
「レイチェル様…」
「…お痛わしい…」
立場上表立って王子達の蛮行を咎めることは出来ない少女達は、レイチェルにとりすがらんばかりにしながら彼等にちらちらと非難の目を向ける。
さすがにエリオットや護衛達は気まずそうだが、アーノルドにはむしろ気に障るものらしい。険のこもった視線で周囲を睥睨し、口を開きかけたその機先を制してレイチェルが口火を切った。
「皆様、お気遣いをありがとうございます。ですがどうぞ、嘆くよりも成すべきことをお忘れになりませぬよう」
静かだがきっぱりした決意の伺える口調に女生徒達は顔を見合わせる。一人がレイチェルに歩み寄った。
「レイチェル様…今まで、本当にお世話になりました」
「貴女にばかり、ご負担をかけてしまいました…」
「挙げ句に、まさかこんなことになるなんて」
口々に言いながら涙ぐむ彼女達に、レイチェルは穏やかに微笑みながら一人一人と握手を交わす。
「後をよろしくお願いいたします。…皆様のお心のままに」
「もういいだろう、きりがない。行くぞ」
放っておいたら延々と続きそうな愁嘆場に痺れを切らしたのか、アーノルドはいきなりレイチェルの腕を掴んだ。本人より回りが抗議の悲鳴をあげるのを目線で制し、彼女はよろめいた足元を踏みしめる。
「殿下、乱暴な真似をなさらないで。よもやまさか、あの男爵令嬢にまでこのような粗雑なことはなさってらっしゃいませんわね?」
僅かに眉をひそめただけで実に雄弁に意志を伝える。その辺りが社交界を牽引する淑女の面目躍如といったところだろう。
顔を顰めたアーノルドは返事もせず彼女を引きずるように連れ出した。婚約者として夜会ではペアを組んで踊り、傍に寄り添っているのが当たり前ではあったが、そういう席でもなければ意図的な接触はあまり無い。手をつないで歩くことすら殆どなかったくらい。
それを思えば皮肉なことだ、と彼等の後ろについて行きながらエリオットはそう思う。両親は姉を理想的な淑女に育てはしたが、アーノルドにはそれがそぐわなかった。もっと無邪気で明るく、義務を押し付ける代わりに一緒に遊ぶ可愛い少女の方が望ましいと彼は感じていたのだ。
マリーベルは愛くるしく朗らかで、男達を萎縮させない。知らないことを尋ね、答えを聞いて感心し、甘い笑顔と笑い声で彼等を魅了する。義務や立場など関係ないわ、と微笑む素直な少女だ。成績なら何一つレイチェルにはかなわないだろう、それはアーノルドやエリオットにとっても驚異にならないということ。
「エリオット、アーノルドが帰って来るまで 一緒に待たない?」
「マリーベル」
姉が王子の馬車に押し込められて連れて行かれるのを見送った彼に、待ち構えていたように彼女が声を掛けてきた。朗らかな笑顔が殊更明るい。
「そうだな、一緒に待とうか。…他の皆は?」
いつもなら王子がいなくても彼女を独占することは出来ない。愛らしく魅力的な彼女の回りには、多くの少年達が近づいてくるし、その彼等もそれなりの地位があってそれぞれに才もあり見目も悪くない。エリオットもそれくらいは認めている。
「皆もそのうち来るんじゃない?」
「もうカフェも閉まっているけど、どこにしようか」
「寮の応接室でいいわよ。普段ならうるさいオールドミスもいないから」
にこにこ笑って言うにはちょっと毒の強い言葉だった。
「ミス・クロイツのことかい?」
戸惑って瞬くエリオットの言葉を彼女は笑い飛ばす。
「そうよ、いつも口うるさくてとっても嫌な人なの。二言目には淑女のたしなみがどうこうって、キンキン声張り上げて。ほんと、ああいう女性にはなりたくないわ」
あっけらかんと宣うマリーベルには、少なくとも陰湿さはない。転入して日の浅い彼女がミス・クロイツの事情を知らないのは当然だと納得してエリオットはそれを教えてやった。
「ミス・クロイツは、本当なら王女の教育係になるはずだったんだよ。婚約者が騎士団で作戦中に亡くなってね。苦労なさった方なんだ」
今はオールドミスと陰口を叩かれる彼女だが、元々の家柄は高いし不幸な事故もあって気遣う人も多い。口うるさいのだって少女達を案じるからで、面倒見のいい人なのだと姉やエリオットの婚約者は言っていた。
しかしマリーベルにはそうではなかったらしい。
「えー。昔のことはともかく、今はうるさいオバサンじゃないの。私、目の敵にされてるもの」
「…そういう人ではないように聞いていたんだが」
「私の家が男爵家だからかしら」
「…それはないと思うけど…」
大体ミス・クロイツの亡くなった婚約者も、位は低かったらしい。それを実力でそれなりの地位についた努力家だったと。本人は確か侯爵家の出で、本来なら働かずとも食べていける身分だが、少女達が後々困らないようにと監督をかって出たように聞いている。
「でも本当に酷いのよ。ここだって空いてるなら使わせてくれたっていいのに」
言いながらマリーベルは応接室の扉を開けた。小走りに駆けていって窓のドレイパリーを開け、傾きかけた陽射しを入れる。
「お茶でも淹れる?エリオット、貴方お付きの人はどうしたの?」
「あ、ああ…ちょっとね」
公爵家の後継ぎであるエリオットには普段侍従が付き従う。授業中や学校関連の活動中は遠慮させているが、今回はちょっと違う。『少しお側を離れます』とわざわざ言い置いて自分達から何事か動き始めていた。エリオットには良くわからないが、彼等には彼等のやり方があるものなのだろうと納得している。少なくとも公爵家に仇なすような真似はするまい。
「じゃあ私がお茶を淹れるわ!」
宣言して彼女が淹れた茶は普段の侍従が淹れたものより数段落ちる味わいだったが、エリオットはありがたくそれをいただく。令嬢や貴婦人は茶話会で自ら茶を淹れることもあるが、家族でもなければ手ずから淹れたそれにありつくこともない。その意味で自分は実に幸運だ、と彼は思う。
物を知らず可愛らしいだけの、自分を癒す存在としての女性しか求めていない辺りが彼の思慮の浅さなのだが、それを指摘する者は少ない。かつてその一人である姉はそれを『貴方はお母様をどう思っているの?』と突っ込んだことがある。彼等姉弟の母である公爵夫人は、その美貌より才覚で社交界の華と讃えられてきたのだ。そしてそれはアーノルドの母である王妃も同じ。更に言えば、その二人に認められたレイチェルが如何に得難い人材か、と言うことなのだ。
何の紋章もない箱馬車が停まったのは、鬱蒼と繁る森の中だった。それより先は馬車が入れない。
「さっさと降りろ」
横柄に顎をしゃくるアーノルドにレイチェルは冷ややかな目を向ける。
「今更殿下にエスコートをお願いしようとは思いませんが、少々お待ちくださいませ」
馬車を停めた御者が車輪を固定し、馬を宥めてから踏み段を用意する。普段彼等が使うような紋章入りの豪華な馬車ほどではなくても、結構高さがあるので馬車の乗り降りにはそうした手順が必要だ。
レイチェルは背筋をぴんと伸ばしたまま、エスコート無しに馬車を降りた。本来彼女のような立場の女性は男性のエスコート無しで公の場には出ない。特に格式の高い場では、相手の手を取るのが当たり前でパートナー同士の義務でもある。増して高さのある馬車から降りるような場合は他者の手を借りないとかなり不安定だ。
けれど彼女の姿勢は小揺るぎもしなかった。真っ直ぐ背の伸びたその姿は、質素な格好であってもうちから光り輝くものを感じさせる。
彼女の後から自分も馬車を降りたアーノルドは周囲を見渡した。午後も遅くなり、傾き掛けた日差しは木々の密集した森のなかまでは届いていない。それを見て取ると彼はレイチェルの二の腕を掴んで歩き出した。エスコート、というより連行である。
「で、殿下! どちらへ?」
「すぐ戻る!おまえ等はここで待っていろ!」
狼狽えた護衛のあげる声を切って捨て、彼は大股に木々の間を進んでいく。ズボンの彼はともかく、レイチェルのワンピースの裾はそこここで下草や小枝に引っかかったが彼はそれに頓着しなかった。レイチェル自身も文句も言わず彼に従う。
アーノルドが足を止めたのは、森の中にすっかり踏み込んでからだった。馬車の位置を見失うほど離れてはいないが、その姿は見えない。ぐい、とレイチェルの腕を強く引いて宣言する。
「おまえは、ここに捨てていく」
「はい」
きっぱりと成されたそれにレイチェルは素直に頷く。その反応にアーノルドはますます眉を顰めた。どうやらお気に召さなかったらしい。
掴んだ腕を乱暴に放り出すと、振り回されたレイチェルが蹈鞴を踏む。それでも辛うじて踏み止まって振り返る彼女に、アーノルドは憎々しげに言い放つ。
「僕は、おまえが嫌いだ。レイチェル公女」
もう少し正確に言うなら嫌いになった、だ。王族とは言え、或いは王族だからこそ、政略結婚が当たり前だ。幼い頃互いを婚約者と決められたアーノルドもそうしたものだろうと大して思い入れはなく、やがて臣籍に下り公爵家を起こすことになるだろう自分の役に立つ相手であればいいと、そう考えていた。その意味でレイチェルは理想的だった、その家柄の良さ、容姿と能力。王族の妻として或いは公爵家の女主人としても必要にして十分な素質と能力を身に付けていた。難を言えば、些か十分すぎるほど。
例えば学業成績ならエリオットの方が上だし、女子である彼女は剣を使えない。外交や政治も、一通りの知識はあるが女性は本来口を出さないものだ。
しかしレイチェルは一般的な令嬢の範疇を超えた能力と人望の持ち主だった。同じ貴族令嬢の中でも誰もが一目置き、学内に僅かばかりいる平民の特待生達も彼女を頼っている様子がある。学生だけでなく社交界の大人達も、彼女には好意的だ。それも必ずしも家柄のせいだけではなく。
それがアーノルドにとって劣等感を覚えさせなかったとは言えない。妻になるはずの女性が自分より高く評価されていれば無理もないだろう。また、エリオットも学業だけは姉より僅かに評価が高かったものの社交性その他は引き離されていた。その点で二人は意気投合したと言ってもいい。時系列で言うなら、その前に男爵令嬢マリーベルが現れたのだが。
明るく可愛らしく、無邪気で朗らかな彼女は彼等に安らぎを与える存在だった。素直な驚嘆と明るい笑顔には癒やされたし、決して身分も高くない彼女は何を与えられても目を輝かせて喜んだ。それが嬉しくて何やかやと贈り物をし、あちこち遊びに連れ出した。少なくともレイチェルには、やろうと思ったことさえ無いような甘やかし方。
その結果として彼女を選びレイチェルを切り捨てることにした、その決断をアーノルドは全く後悔していない。後悔することさえ思いつかなかった。
「ここは、王家の所有する森で狩猟シーズンも終わった今、誰も足を踏み入れることはない」
「…はい」
「ここで、野垂れ死ね」
捨て台詞を吐いて身を翻すアーノルドを、レイチェルは頭を下げて送った。
馬車に戻った彼に、護衛達がレイチェルはどうしたのかと狼狽えながら問い質している声が聞こえる。それが聞こえる程度しか離れていないが、レイチェルは動かなかった。捨ててきた、という返答にいい年の男達が卒倒しそうになっているのが伺えるが頑ななアーノルドが強引に馬車を出させてしまうまでそこにただ立ち尽くす。
騒ぎながら馬車が走り出し、遠ざかっていくのを聞いてレイチェルは吐息を吐いた。
「…なかなか、思うようには行かなかったですわね」
今まで、彼女なりに動いてはいた。マリーベルが転入して来た時はさほど気にも留めなかったのだが、彼女がアーノルドやエリオット達に接近し、他の貴公子達も籠絡しようとしていた頃には既に実家の公爵家に一報を入れている。その上で、「学内での一時のお遊びで収められるようにする」と父に約束して家からの介入を待ってもらっていたのだ。
学内で教師達が動かなかったのにはアーノルドが強権を発動していたこともあるが、生徒同士の事で済ませられるか見極めようという公爵からの申し出のためでもある。そしてそのために敢えて彼等をやんわり窘め、目を覚まさせようと密やかに動いていたレイチェルの行動はどうも密やかすぎて彼等には伝わっていなかったらしい。
婚約破棄を明言したのは今のところアーノルドとエリオットだけだ。エリオットの婚約者である令嬢はもちろんレイチェルも親しくしていたが、今頃は彼女を初めとする令嬢達が既に動いているだろう。
今まで学内の状況を親元に知らせることはせず、マリーベル個人に関しても淑女らしからぬ行動を注意するだけできつく咎めるとか苛めのようなことはなかった。それも、醜聞を避けるのと『紳士淑女らしくない』行いは差し控えるべき、というレイチェルの判断だ。
マリーベルへの注意は基本的にレイチェルが請け負っていた。彼女以外はミス・クロイツやその他の教師陣が叱責したり罰則を与えたりしていたのだが、マリーベルはそうして出された課題をまともに提出しないとか同じマナーミスを何度も繰り返す反省のなさでずいぶん早いうちから要注意人物になった。僅かな平民の少女達よりマナーがなっておらず、しかもそのことを悪いとも思っていない様子が極めて悪い方向で目立っていたのだ。
にも関わらずアーノルド達は彼女を溺愛するようになっている。盲目的な溺愛は正直なところ本人達以外には胡散臭く感じられた。可愛らしく甘える手腕はなかなか凄いが、或いは生得魔法の一種かも知れないと、そう噂されていたほど。
そしてその彼女への風辺りはレイチェルがとどめていたのだ。彼女自身そのことは自覚していて、敢えて寮を出る際に後を他の少女達に任せると告げた。それはつまり、今まで静観していた態度を変えるなり何なり、その辺も含めて彼女達に委ねるということ。
おそらく令嬢達はそれぞれの実家に連絡を取り何らかの対処を求めるだろう。レイチェル自身、公爵家に返した侍女達に手紙を言付けている。手紙というより報告書だ、そこに至るまでの推移と関係者の動向、等々極力自分の感情や意思を交えないよう綴ってあった。もちろん小半時の僅かな間に書いたものではなく、日々こつこつと書き進めていたものである。
途中でレイチェル自身、打つ手がないというか自分に出来ることがないことに気づいていた。王子や弟は全く盲目になっているし、他の少年達もそこまで行かずとも重症で。彼女や他の少女達のいうことに耳を貸さなくなった辺りで、彼女も彼等を見限っていた。その時点で実家に連絡をすれば良かったのかも知れないと、今は思う。
付き合いの長いアーノルドが、如何に自分を邪魔者扱いにしようとも命まで取るような真似はしないと考えていた。せいぜいが婚約破棄、後は公爵家へと強引に返されるか。優しい、と言うよりそこまで思いつかないだろうと。弟もその点ではあまり変わらない。
人の立ち入らない森に彼女を身一つで放り出す、という行為も彼等の思いつきそうなことではない。暴力的ではないし血を見ることもない、しかし相手の命を奪うこととほぼ同義だ。森にはそう多くなくとも肉食の獣がいる。そうでなくともレイチェルは質素なワンピース一枚、今の季節なら凍死はしないかもしれないが一晩戸外で暮らせば身体を壊してもおかしくない。増して貴族の身では、森で食物を得る術もない。すぐに命を落とすわけではないが獣に襲われるか餓死か病死か、それは却って残酷な死に方では無いだろうか。
森から出ようにも、馬車は結構な距離を走った。そろそろ日も陰ってきたし、それが完全に落ちるまでには出られない程度には森の奥にいるはず。下手に動き回るのもまずいかもしれないが、水場くらいは探しておいた方がいいだろうか。
レイチェルは頼りない足取りで歩き出した。普段の踵の高い靴とは違い、これも質素で何の飾り気もない靴は歩きやすいはずなのだが地面は草や木の根が絡まって石がごろごろと転がり、踏み跡ほどの道もない。それらに躓いたり蹌踉けたりしながら、レイチェルはそろそろ動き出した。
梢の隙間に見える空の色が暗くなり出す頃、少し開けた場所に出る。湧き水が、岩場に流れていた。ほっと安堵の溜息を漏らし、その傍らにかがみ込んで水を掬う。冷たい水は、歩き疲れて渇いた喉にとても美味しかった。
喉の渇きを癒やして辺りを見回したところで、不意に近くの茂みががさごそと音を立てた。
「!?」
恐れていた獣か、と警戒するレイチェルの前に現れたのは。
「…誰!?」
こちらも吃驚仰天という表情の、子どもだった。五つにもなっていないだろう、ぼろを着て髪もぼさぼさなので男女の区別もはっきりしない。伸び放題の前髪の下で、まん丸く見開かれた目がレイチェルを見ていた。
「…あの、あなたは…」
問い掛けようとすると子どもの表情に怯えが走った。くるっと身を翻し、思いも掛けぬ俊敏さで駆け出そうとして。
「あっ!」
「わっ!」
勢い余って派手に転ぶ。手に持っていたぼろぼろの桶がごろごろ転がった。
「だ、大丈夫ですか」
慌てて駆け寄って抱き起こしてやると、その顔がくしゃりと歪む。
「ふぇ、ふぇえーん」
びいびい泣き出す子どもを抱えてさすがにレイチェルも途方に暮れたが、結果的にそれがよかったのかもしれない。
水汲みに来たという子どもの代わりに水を満たした桶を下げ、もう一方の手をその子とつないで暮れかかる森の中を歩く。木が鬱蒼と茂っているため空に光が残っていても森の中は暗い。その子、レイという男の子に道を教えてもらわなければレイチェルは同じところをぐるぐる回っていたかも知れない。
「…あそこ、みんないる」
どれほど歩いたのか、そうレイが言ってつないでいない方の手で指さしたのは今にも崩れ落ちそうな掘っ立て小屋。
「みんな?」
レイチェルが聞き返すより先に、レイはとことこその小屋に向かっていく。自然、レイチェルもそれに着いていく形になった。
「ただいまー」
「おかえり、レイ。遅かったね…なんだ、その子」
「お、お邪魔いたします」
薄暗い室内から掛けてきた女性の声に、不審そうな色合いが混じる。それにレイチェルは申し訳なく思いながら頭を下げた。
小屋にいたのは子どもが五人、いずれもまだ幼くレイが最年長くらい。そしてもう一人は、女性だった。その子ども達の母にしては少し若い、頬に火傷の跡が目立つがそれでもそれなりに美しい容姿。
「おひめさま連れてきた!」と言い張るレイと子ども達を寝かしつけてから、彼等がここにいる訳を教えてもらう。
「入っちゃいけない森だってことは判ってるんだけど、まあ、黙認ていうかね。いろいろ事情があって街にいられない身の上だから、こっそりお目こぼししてもらってんのよ」
彼女、リラは元々花街で春をひさいでいたという。彼女のいた娼館でもめ事があり、腹いせのように火をかけた者がいて火傷を負わされた。もう商売が出来ないから賠償の意味でここに住まわせるよう、手配してもらったということらしい。もちろん公に出来ない、内密の話。
子ども達は同輩の産んだ子や他に捨てられていた子。まだ店で躾けるには早いとここで育てているが、暮らしは厳しくまともな食事も難しいという。
「一応、食料やら何やら届けに来るんだけどね、量も足りないしそうしょっちゅうは難しいってことで。…で、あんたは?」
ちろり、と伺うように見られてレイチェルは小さく溜息を吐いた。事情をぽつぽつと説明する。
「うわぁ、王子様最悪」
説明を聞いた彼女の第一声に、レイチェルは額を押さえた。
「あの、念のために伺いますが。アーノルド殿下に会われたことは…」
「いや、ないわよ。ある訳ないでしょ、あたしがいたのなんてやっすい店だからね?」
リラはレイチェルとそう年も違わない。火傷が残っていてもそれなりに美貌でばっさり切られた赤い髪が鮮やかだ。
「王子様だからってそれはないわー。悪い女に引っ掛かって身上潰すクチだわね」
物言いははすっぱだが悪意がない分、不愉快ではなかった。
「『悪い女』…なのでしょうね」
「悪質な感じするなー。物知らずなのに男誑し込むのばっか上手い女なんて、ろくなもんじゃないよ」
話を聞いてリラはレイチェルに同情してくれたものらしい。正確に言うなら彼女の語るマリーベルと彼女を囲む男性陣に嫌悪を抱いた反動かもしれない。出来るだけ冷静に話したつもりだったが、どうしてもにじむ負の感情は隠せないようだ。
「いやいやいや、普通に嫌だよ少なくともその女。礼儀も弁えずに周りを引っ掻き回して相手のいる男ぶんどってるんでしょ?おんなじ店だったら総スカンだね」
反省すべきか悩むレイチェルにリラは呆れたように言う。
「お嬢さん、それ気に病むところ? …本当ならあんた、おうちに送ってあげた方がいいのかもしれないけど…」
言いさしてリラはしみじみとレイチェルの格好を眺める。その視線を受け止めてレイチェルはごく自然な微笑みを浮かべた。
「両親には心配を掛けるかもしれませんが…今私が戻ることがいいことなのかどうか」
「正直言っちゃうと、送るのも難しいんだよね。森から出る道曖昧だしチビどもつけるのもあれだ、迷子が増えるだけっぽい」
「…では、ご迷惑かもしれませんが。ここへ置いていただけませんか、私に出来ることなら何でも致しますので」
思い切って口にしたレイチェルにリラはにっと笑った。
「いいよ。もちろんこき使うけどね」
「構いませんわ、私に出来ることでしたら」
リラもまた、この森の生活に退屈していたらしい。子ども達は幼くお喋りの相手にもならない、暮らしは何とか成り立っても生活物資を運んでくる連中は彼女と口を聞くのも面倒な様子。
子どもの世話や家事は嫌いではないが、そればかりでは息が詰まる。増して全く先が見えない。
最初レイチェルには言わなかったが、この小屋には時々乳離れした程度の子どもが連れて来られては成長した子どもが連れていかれる。リラ自身がここへ来たのは一年ほど前だが、子ども達の中で最年長のレイなどその前からここにいるのだ。
「何て言うか、孤児院みたいな? まぁこんな森の中に隠してる時点で、何かしら事情があるのはわかりきってるけど」
リラの前にここを任されていたのはかなりの老婆だった。おとぎ話の魔女といっても通りそうな風貌とそれっぽい知識もあってリラがここで子どもの世話を出来るように徹底的にしごかれた。リラはくそばばあと罵って派手に喧嘩もしたが、彼女がいなければリラも子ども達も生きてはいられなかっただろう。
今は子ども達をリラに任せて森のもっと深いところで暮らしている。薬草を持っていって薬をもらったり持ち込まれる食糧を分けたりと折々顔を出す老婆と、レイチェルが顔を合わせたのは二・三日経ってからだった。
「はじめまして、レイチェルと申します」
敢えて名前しか告げなかったのは、リラが言うには老婆が貴族嫌いだからだ。もっとも言葉遣いや振る舞いでそうと察せられないはずがなく、下手に隠すつもりもないが。
現に老婆は上から下までじろじろ無遠慮に彼女を眺める。不躾な視線が不快でないといえば嘘だが、その気持ちも理解できるので黙って微笑んでいる。
「…リラ。おまえ何を拾ってきたんだい」
「あたしじゃないよ!」
「ばーちゃん、レイだよ。レイがお姫様拾ってきたの」
不機嫌な口調にリラは慌てて言い返し、傍らから子どもがえへんと胸を張る。ぼさぼさの髪を切ってさっぱりさせてやったので今はずいぶん可愛らしくなった。苦笑しながら頭を撫でてやるレイチェルに嬉しそうに笑う。
この子を筆頭として皆なかなか可愛いのは、揃って容姿を売り物にする母から生まれたせいなのか。この数日でレイチェルはすっかり子ども達になつかれた。リラも何とか手が回るようになって、レイチェルが子ども達と薪拾いや水汲みに行っている間に他の家事をしている。
その辺の状況とレイチェルの事情を聞いて老婆は考え込む。
「まぁ、リラ一人じゃ回りきらんのはわかったがね」
あっさり言われてリラはぶうと唇を尖らせる。その表情はレイチェルの膝に昇ろうとして他の子どもと引っ張り合っているちびっ子達と変わらない。
リラの為人は何となくわかってきた。すれたところもあるが気性は素直で可愛げもある。開き直ったような開けっ広げさも今のレイチェルには気を遣わなくて済む分気楽でやりやすい。
そんな彼女の反応を見るに、この老婆には信頼を寄せているし、相手もリラを可愛がって育てている様子が伺える。そして歳がいってはいても頭の切れそうな老婆だ。
「…ふん。物語ならあんた、とんだ悪役だね。庶民的な可愛らしいお嬢さんに惚れ込んだ貴公子の婚約者でかつ姉上かい」
「…言われてみればそうですわね」
皮肉な調子で言われて思わず頷いてしまう。途端リラと子ども達が声をあげた。
「ええー!?」
「ばあちゃん、レイチェルはお姫様なの、悪役じゃないの!」
「そうだよー」
「悪役ってなぁにー」
きゃあきゃあと騒ぐ子どもに老婆は露骨に顔をしかめ、リラとレイが慌てて子ども達を静かにさせる。レイチェルも一際大声を張り上げていた子どもの一人を椅子に掛けたまま膝の上に抱き上げた。
「人とお話をしている時は、騒ぎたててはいけません」
「だってね、ばあちゃんが」
「ユーリばかり大きな声を出しては、他の方のお話が聞こえないでしょう?」
「…うん」
諭されてやんちゃ盛りの男の子が唇を尖らせながらも頷く。
「ユーリはいい子ね。これでお話がきちんと聞けますよ」
歳はともかく、食糧事情が良くなくて子ども達は成長が滞っている。聞いた年齢より小さく見えて、五歳くらいだと思っていたレイは実はもう七歳だった。ユーリも五歳だというが、もっと小さく見える。
レイとユーリの他、三人は女の子だ。そして二人より更に小さく、弱々しい。
「ユーリずるいの、キャロルも」
「セシルもだっこ!」
また騒ぎ出すのにしーっと人差し指を立ててみせる。それで唇を塞ぐように触れてやると女の子達も慌てて自分の口を塞いだ。可愛らしい仕草に微笑みながら顧みると、老婆は大袈裟に溜め息を吐いてみせた。
「全く、あんたも何かしら魔法でも心得あるのかね」
「いいえ。小さい子は素直ですもの、私に害がないとわかってくれたのでしょう」
「あとね、レイチェル姉ちゃんのお話おもしろい」
「お姫様のお話、またして」
「えー、馬の話がいい。高い塀飛び越えた馬の話」
あまり子どもとの付き合いはなかったレイチェルだが、昔から男の子より女の子の方に好かれることは多かった。それと後は目新しいのが受けているのだろう。
「…確かに、今は帰らない方がいいかもしれないね。あんたの話が確かなら、今頃は大騒ぎだ」
子ども達の様子に苦笑しながら老婆は頷いた。それにレイチェルも頷き返す。
「私もそう思います。私の家もですが、学園が荒れていると思います。…私がいない方が、話は進め易いかと」
案じてくれているだろう家族(弟除く)や学友達には申し訳ないが、今は彼女自身が亡き者になったと思われた方がいいかもしれない。
正直レイチェル自身、幼い頃から一緒だったアーノルドや実の弟であるエリオットに切り捨てられ、死んでもいいと処断されるのはさすがにきつかった。完璧な令嬢であること、あり続けることは義務と判っていても精神的に疲弊する。その挙げ句に死んでしまえと言わんばかりの放逐では、さすがに戻りたいとは言えない。
「ただ、この子等の暮らしはぎりぎりだ。あんたもここで暮らすなら、それなりのことはしてもらうよ」
「はい、心得ております。…ただ、私お役に立てますかどうか…」
何しろ箱入りのお嬢様だ、政治経済について話すことは出来ても実用的なことは殆ど身についていない。お茶会のマナーは完璧でも食べられる植物が見分けられないとか、そういう段階だ。だから、ここでリラや子ども達と一緒に暮らして行くにはお荷物になることも判っている。自分に出来ることなら何でもする、と言いたいがそれで役に立つかどうかは別だ。
しかし老婆はその言葉に上機嫌で頷く。
「よおし、よく言った。それを忘れなさんなよ。…まず、その身体で稼いでもらおうか」
「ちょっ、ばあちゃん!」
声をあげたのはレイチェルではなくリラだった。
「そ、そりゃいくら何でも…!」
「五月蠅いよ、リラ。あんたにゃ聞いてないだろ、さてどうするね、お嬢さん?」
「…わかりました。やらせていただきます」
「じゃあ、まずはこれだ」
そういって渡されたのは大きめの実に切れ味の良さそうな鋏。シャキン、と鳴らすと刃が光る。
「髪を切りな。それは一財産になるよ」
長い髪は言わば貴族令嬢の象徴だ。それを切ると言うことはすなわちそれまでの生活全てを捨てるということ。
とは言え、老婆によって課された義務は肉体労働が殆どだった。それもリラが危惧していた身体を売るようなものではなく純然たる体力勝負。それは例えば小屋の周りに作った小さな畑を耕すことや森の植物を見極めて食料を集めること、小川で魚を捕ったり罠をかけて小動物を捕まえたりすることなど。
魚はまだしも、ふかふかの毛並みとつぶらな瞳のうさぎ辺りをさばくのは正直最初は辛かった。けれどそうしなければ子ども達やレイチェル自身が命をつなげない。そうして捕らえた獲物や収穫に感謝して無駄にせずいただきましょう、とどうにか自分を納得させている。
「まさかここまでやるとは思わなかった」
感嘆、というより呆れ気味にリラが呟きレイチェルは苦笑する。
「おばば様も無茶をなさるわ」
堅苦しいのは止めてと言われてレイチェルの言葉遣いもかなりくだけてきた。
「それもあるけどあんたもだよ、レイチェル。…どこのお嬢様が鳥を射落としてくるっての」
「あら」
罠の構造はおばば様こと例の老婆に教わった。それでうさぎや野ねずみの類いを捕まえて皆で食べるようになり、ずいぶん食糧事情は良くなった。更に川で魚を捕ったりもしているが、弓矢があれば鳥も落とせると思い付いて試行錯誤していた、その成果が出てきたのだ。
「結構食べでがありそうよ、リラ。皆でいただきましょう」
あまり腕が良くないレイチェルでも落とせたくらい、獲物の鳥は大きくて動きもそう早くない、いい的だった。大きいのはつまり食べるところが多いということでとても有難い。むしった羽根や羽毛だって布団に入れたりと徹底的に使う。
大きめの綺麗な羽根は糸でくくって飾りにしたら、おばばが薬と一緒に換金出来ると持っていった。これならまだ小さな子どもでも手伝えることもあって皆一生懸命だ。
出来ることがあるというのはとても有難いし、張り合いになる。素直にレイチェルは感謝しているのだが。
「まさかここまでやると思わなかったんだよ、本当に。…今のあんた見て誰が公爵家のお嬢様だと思うんだか」
溜息混じりのリラの言葉にはレイチェルも苦笑するしかない。最初に項の辺りでばっさり切った髪は肩口まで伸びてきたが、手入れ出来る余地はなく日に焼けてばさつき気味だ。肌もやはり日に焼け、色が濃くなった。もちろん化粧も出来ない。食べるものにも事欠くことはなくなってきたが、潤沢とは言えないせいかさすがに痩せた。着ているものはリラと共用だが、森に入るレイチェルはスカートではなくズボンを穿くことが多い。靴もおばば経由で持ち込まれた頑丈で重いブーツだ。
貴族令嬢どころか町娘にも見えない、女猟師といったところだろうか。痩せたけれども体力はむしろ付いた。或いは筋肉かも知れない。うら若き乙女としてはあるまじき話だが、生きていくためにはしょうがなかった。
「私、今の自分も嫌いじゃないですよ。やり甲斐があるというか」
「本人が納得してんなら脇がどうこう言っても仕方ないけどさあ。…すっかり野生化しちゃって」
呻くようなリラの言い方がおかしくてレイチェルは声をあげて笑う。
「嫌だ、リラったら。野生化なんて、私は獣なの?」
「だってなんかそんな感じだもん! あんた完璧主義だよね、やるからには何にしても徹底的、って感じ」
「否定は出来ませんねー」
そうしていると、森から子ども達が帰ってきた。
「リラー、レイチェルー」
「木イチゴいっぱいなってたよー」
女の子達はベリーの類を摘みに行き、男の子達は。
「掛かってた掛かってた!」
「見て見て、こんなおっきい!」
川に仕掛けた網に掛かった魚を揚げてきたところだった。どちらも結構な収穫で、備蓄に回すのを置いても今夜はご馳走に出来るだろう。
「まあ、立派ね。お魚はさばいてしまいましょう、今夜食べる分以外は燻製か塩漬けにしなくちゃ」
「じゃ、こっちでベリーは処理しとくよ。ソースと蜂蜜漬けかなー」
「蜂蜜まだあった?また見つけられるといいんだけど」
わいわい言いながら皆で収穫を処理していると。
不意に聞き慣れない足音が聞こえてレイチェルは反射的に振り向いた。
森で狩りをしていれば、罠猟でも危険な生き物の気配には気を付けねばならない。特にこの森には、僅かばかり毒蛇もいる。大人や馬のように身体の大きい者は大して害にならないが、子ども達やレイチェル達のようにそうでない者には十分脅威だ。
また、この森は王家の直轄地であり狩猟期間には王族をはじめとした貴族が狩りに訪れるがその獲物は大きな鹿か猪、或いは見栄えのする狐などだ。彼女達が狩っている小動物は獲物にしないから気にすることはないとおばばに言われている。つまりそうした大型の生き物がある程度は生息している。
女子どもが生きるには最大限の用心が必要な土地だ。禁足地とは言え、自分達が住み着いているくらいでどんな人間が入り込むか知れたものではない。自分一人で森にいる時も、こうして子ども達やリラと一緒に小屋にいてもある程度の警戒は欠かせない。
咄嗟に魚をさばくのに使っていたナイフを構えて振り返ったレイチェルは、そこに立ち尽くす相手に驚きを覚える。
「…まあ、あなたは」
「…」
驚いたのは相手も同じ、或いはそれ以上だったことだろう。大きく瞠った目に内心苦笑し、それでレイチェルは落ち着きを取り戻した。
「これは、騎士団長のご令息でいらっしゃるハインリヒ様ではございませんの。このような場所に、何かご用かしら?」
ぱくぱくと口を開け閉めするだけで、まともな応答が望めそうにないのはかつての同級生だった。剣術は群を抜いており、真面目で堅物と評判だったが例の男爵令嬢に骨抜きにされたという噂もあった。
今はレイチェルのその姿に呆然と、別の意味で魂を抜かれたような表情だ。元々貴族らしい上品さよりは如何にも武人、剣士と言った無骨な印象の男だったので、こんな間の抜けた顔を見たことはない。何度も何度も口を開け閉めし、我が目を疑うように腕でごしごし擦ってからようやく言葉を絞り出す。
「あー…レイチェル殿、か」
それには応えずにっこりと微笑む。
別に親しかったわけではない、あまり接点はなかった。ただ真面目で無骨で下手に言葉を飾ることをしない、信を置くに値する人物、というのがレイチェルの評価だ。もっともそれも、マリーベルが現れるまでのことだが。
「ご無沙汰しております。ですが、今の私は一介の市民ですわ。いえ、市民権もないのではなくて? そのように気遣っていただかなくても結構でしてよ」
微笑んで宣う彼女に騎士は顔を歪めた。やっとのように言葉を絞り出す。
「…ご無事で、良かった…貴女は、公爵家の御令嬢だ。その事実は動かし様がない」
「あら。ですが…」
「レイチェル、その坊やの話を聞いたげな」
口を挟んだのは茂みの間から姿を見せたおばばだった。小柄な老婆は常のフードを深く被ったマント姿、その後ろに二人青年を従えている。彼等も、レイチェルには見知った存在だった。
「まあ、ランドルフ様にイヴァン殿。皆様お揃いでいらっしゃったの?」
伯爵家の嫡男で、その人脈の広さと甘い容姿で女子学生には絶大な人気を誇った青年と、もう一人は平民ながら裕福な商家に生まれ成績優秀で出世株と評価も高い男。またどちらの容姿もハインリヒとは別の意味で整っている。この三人にアーノルドとエリオットを加えた顔触れが、学園内のトップと称されていたことをレイチェルは覚えている。
しかし彼等もレイチェルの変貌によほど驚いたものか、ぽかんと目も口も開けっ放しのまま硬直している。それはそうだろう、彼等が知っているレイチェルはあくまで公爵令嬢、常に髪はきちんと結い上げ比較的シンプルな学園の制服を着ていてもコルセットを締めて体の線を整えて薄化粧を欠かさない、一部の隙もない姿しか見たことがない。
翻って今の彼女はと言えば、香油で艶やかに整えられていた髪は無造作にばっさり切られ、 身につけているのも粗末な服と無骨なブーツ。肌は日に焼けまくりあげた袖から覗く腕はたおやかと言うには鍛えられてきた。おまけに魚をさばきかけていたのでごついナイフを手にしたまま。
「レイチェル、刃物刃物。いい加減仕舞いな」
「ああ、そうね」
それに気づいてリラが促すのにそれを腰の鞘に戻す。そうして改めて彼等を見ると、ようやく立ち直ってきたランドルフが声を発した。
「え、えーと…レイチェル嬢?」
「はい。ご無沙汰しておりますわ」
「えと、あの…お、お元気そうで」
どうやらまだ混乱しているらしい言葉には応えず苦笑する。それにイヴァンが口を挟んだ。
「ご無事で何よりです。その、いろいろご苦労があったとは思いますが…」
言いかけて視線を巡らせるのは、子ども達が彼女に身を寄せてきたからだ。レイとユーリはぴったりとレイチェルの左右に張り付き、二人の次に年長のセシルは腹に顔を埋めるようにしがみついてきた。年少の残る二人は後ろから左右の足に抱きついて腰の両脇から顔を覗かせている。
露骨な警戒の表情で彼等を睨んでいるのに、リラが苦笑する。
「ほら、あんた達。そんなへばりついてたら、レイチェル動けないじゃん」
ぺしぺしレイの頭を叩くが子ども達はますますしがみつく力を強める。
「レイ、ユーリ。そんなにしたら苦しいわ」
見下ろすレイチェルに、二人は涙をいっぱいに溜めて言う。
「レイチェル、帰っちゃ嫌だ」
「置いてかないで」
二人だけではない、女の子達もぐすぐす鼻を啜りながらしがみついている。
「…レイチェ、お姉ちゃん」
「いなくなっちゃ、やだぁ」
「ふぇ、ふえぇん」
最年少のテレサがとうとう声をあげて泣き出し、レイチェルは慌てて彼女を抱き上げた。
「泣かないで、テレサ」
「だ、だって…レイチェ、姉ちゃ、うえぇん」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を擦り付ける子どもをレイチェルは揺すりあげる。一番歳が下でその分体も小さい。初めて会った頃より大きくはなったが、標準にはまだ届かないだろう。
「困ったわね、泣かないでテレサ。…私も、貴方達を置いていくのは嫌よ。あんまり帰りたくないわ」
「レ、レイチェル殿!?」
ぽろりとこぼれた本音に青年達が揃って悲鳴をあげた。
「公爵閣下に、貴女の捜索を頼まれたのだが!?」
「いや、悪い冗談止めよう?昔から君は冗談やおふざけは下手なんだから」
ハインリヒが真面目極まりない顔を歪めて呻き、子どもの頃から交遊のあるランドルフはひきつった声で制する。
「その、だったらその子達も連れて行けばどうだろうか」
イヴァンの提案にレイチェルはテレサを抱き直して肩を竦めた。
「ですが皆様ご存知の通り、私殿下に放逐された立場ですもの。今更どこへ帰れとおっしゃいますの?」
「それなのだが、その」
言い止してイヴァンは後の二人を見た。救いを求めるようなその目にランドルフは苦笑しながら口を出す様子がない。ハインリヒが特大の溜息を吐いた。
「その、ことだが。…貴女の放逐は、アーノルド殿下の身勝手であって到底許されることではない、と陛下直々のお言葉があった」
「…あらまあ」
王族の言葉には重みがある。それは貴族ならば子どもでも弁えていることで、そして当の王族自身一人残らず自覚していることでもあった。それをアーノルドはあの時忘れていた、その点だけでも彼の王族としての資質が疑われるに足る。
その辺りはレイチェルも承知している。公になればとんだ醜聞になること必須だ。それまでレイチェル自身が事を穏便に収めようとしていた努力を派手に無にしてくれたとも言える。
それが森から帰る気にならなかった理由の一端でもある。レイチェルが王子の我が儘で放逐され、行方知れずになったのならば、非難は彼に集中するだろう。それは公爵家からだけではない、他の貴族達だって身勝手な言いがかりでろくな証拠もなく排除されては堪らない。アーノルドの資質を問い、場合によっては王籍の剥奪もあり得なくはないだろう。
帰らないことはレイチェルの復讐でもあった。
まあ肩肘張らなくていい森の暮らしが気楽で楽しくて、帰りたくなかったのも事実。自分を慕ってくれる子ども達は可愛いし、リラとも気が合って上手くやっていた。自分の仕事にやり甲斐があって必要とされている実感、及び手応えは充実感を覚えさせる。
今更帰ってこいと言われても、公爵家だってこんな野生化した令嬢など扱いに困るのではないだろうか。リラの言い様ではないがレイチェル自身、自分が物心ついた頃から培ってきたものとは違う方向に至った自覚はある。それが思ったより楽しいことも。
しかしさすがにこの我が儘が通らないことも承知している。
「とりあえず、親御さんがご心配なさっておいでだよ、レイチェル。一応あんたの無事だけは知らせておいたんだけどね」
「ありがとうございます、おばば様。…やはり、ご承知でらしたのね」
レイチェルはここにきてから一度も家名を名乗っていない。公爵家という具体的な身分もだ。今しがたハインリヒが口を滑らせた際、リラが目を剥いたのはおそらくそこまでの家柄とは思っていなかったためだろう。
しかしそれを明らかに承知で当然のように彼女の『親』のことまで口にするおばばは、おそらく貴族社会に何らかの形で関わりが深い。
そうでなければ、王家直轄領であるこの森に住み暮らすことなど許されるはずがない。同じ直轄領でも辺境ならともかく、王都からそう離れていないここは、王宮に通じる森の可能性が高いのだ。
窓のない箱馬車で連れてこられたレイチェルに確証はないが、推察することは出来る。馬車で来た道筋はわからなくとも掛かった時間で大体の距離は見当がつく。リラや子ども達にせよ明らかに王都の古着をまとっていたし、時折彼女等がぽろりとこぼす『店』の話もそれを裏づけた。
その辺おばば自身は場所やその他特定できるようなことは全く口にしなかった。年の功というか、単純に用心深いのだろう。それもまた貴族の使用人や御用商人に見られる気遣いだ。口が固く余計な情報を漏らさないことは最低限の条件である。
老婆の知識も振る舞いも、ただの一般市民には見られないものだ。それは多分『魔女』と畏怖を込めて呼ばれる知恵ある人物。おそらくは王家ともつながりを持ち、ある程度の権威さえ認められているに違いない。
おばばは、『森の魔女』と呼ばれ王家に叡智を与える存在なのだという。当人は「大概下らないどたばただからどやしつけてやるだけだよ」と平然と宣っていたが、青年達は揃って畏怖の目を向けていた。既に彼等を納得させるようなことがあったのかもしれない。
迎えの馬車は十分に立派なものだったが、座席はいっぱいだ。レイチェルの向かいにはおばばとリラ、そしてレイチェルの膝の上で泣き疲れて眠ってしまったテレサ。キャロルとセシルはその両脇にくっつき、レイとユーリも向かい合って座っている。
最初、少年達は立っていると言ったのだが無理だからと座らせた。どんな上等の馬車でも動いている時に内部で立っているのは難しい。訓練を受けた騎士でも、別に御者のいる馬車で立っているのは困難を極める。
当然ここまでいっぱいでは青年達は同乗出来ず、それぞれ騎馬で付き添っている。いずれも学園では優秀だった彼等だ、乗馬だって無論得意である。
「おばば様は、最初からご存知でいらしたのね」
「そういうわけじゃないさ。私が話を聞いたのは、あんたがおん出された翌日かね」
「あら」
では、レイチェルが森に来た時点では事情を知らなかったことになる。
「あんたも、他の令嬢方もなかなか迅速に動いたようだが。いっぺんに情報があふれてきたもんだから王宮でも収拾がつかなくなっちまったのさ」
レイチェルが実家に送り返した荷物と侍女に持たせた手紙に、彼女の両親は驚倒しながら素早く動いたらしい。
同時に、他の令嬢や令息も皆自分達なりの行動を開始した。学園内の状況を訴え外部からの介入を求める者もいれば自分が外へ逃げる者も。実際、三割程が体調不良や家族の病気等の理由で実家に帰ってしまったという。事態の紛糾に巻き込まれないようにする、それはそれでなかなか賢明な振る舞いだ。増して学園内から外へ出た者の口から内情が暴露されれば社交界に激震が走るだろう。
「もちろん王家も大もめさ。ようやく落ち着いたってんであんたを呼び戻せることになった」
おばばの言葉にレイチェルは苦笑混じりで肩を竦めた。正直なところ今更自分を呼び戻してもどうするのか、という気もする。
心配していた父や母は自分の帰還を喜んではくれるだろうが、今の自分を見ればさぞや驚くにちがいない。我ながら様変わりし過ぎだ。到底令嬢らしくはない。
「そう言えばアーノルド殿下やエリオットはどうしました?」
騒ぎが大きくなれば、彼等の責任も追及されたはず。そう思い至って問えばおばばはにやりと不気味な笑みを浮かべた。まさに魔女のごとき笑顔。
「そいつはまあ、あんたが直接聞いてみな。公爵閣下や陛下もお待ちだ」
「ちょっ…ばあちゃん、…へ、『陛下』って」
リラの問い質す声が上ずるのも無理はない。この王国でその尊称を拝されるのはただ一人、国王陛下しかいない。唯一にして最上位の人物だ。リラには、まさに雲の上の人だろう。
「ご心配をおかけしてしまったかしら」
「その辺も本人に聞きな。リラ、心配しなくたってとって食いやしないよ」
真っ青になった彼女におばばは呆れ顔だが、レイチェルは苦笑するしかない。
「大丈夫よ、リラ。陛下はお優しい方だし、貴女には世話になったのだもの。そのこともきちんとお話します」
「いや、て言うか…ちび共はともかく、私がついてってどうするんだよ、ねぇ帰っちゃ駄目?」
「往生際の悪い子だね」
頭を抱えたリラごと馬車はやがて、王宮の一角に停まった。青年達は礼儀正しく傲岸不遜な老婆や、混乱するリラと怯え気味の子ども達に手を貸して馬車から降ろす。そして最後に、レイチェルを。
「ありがとうございます、ランドルフ様」
「今回ばかりは役得だね」
青年達の中でランドルフは一番家格が高い。レイチェルとも幼い頃から付き合いがあって彼の婚約者もレイチェルの友人の一人だ。
「ランドルフ様、アンリエッタ嬢はお元気にしてらっしゃるかしら?」
「…おかげさまで。後でその、ちょっと口利きを頼めたらありがたいんですけど」
「何の口利きですの」
その言い様がおかしくて苦笑してしまう。大体この男は顔が広く人脈も豊富で他者と繋ぎをとるのは大の得意だったはずだ。取り消されたとはいえ放逐されたレイチェルに取り成しを頼むのもおかしな話だ。
「その、アンリエッタに。…俺もやらかしてましたから、婚約破棄一歩出前で、彼女にずいぶん叱られました。…君を連れ帰らなかったら本気で縁を切られかねない」
「あら。私でよろしければお話くらいは致しますが…」
「だったら、その…ニーナにも話をしてもらえないだろうか」
いきなりイヴァンが割り込んできた。結構真剣な表情に、レイチェルは目をしばたたくが彼はこの上なく真剣だしハインリヒも真面目に言葉を添える。
「出来たら、ヴィオーレにも。彼女も、貴女に会うことを望んでいた」
「君は令嬢方や、他の女の子達にも人気あるからねえ。納得させるためにも、是非」
言葉を重ねて頭を下げるランドルフに、ハインリヒとイヴァンも倣う。彼等を眺めてレイチェルは溜め息を吐いた。
「それはまあ、お会いするのは構いませんけれど。…この状態の私に、納得していただけるものかしら」
かつて完璧な令嬢と呼ばれた姿とは全く異なる現状が、その頃の友人達にどう思われるかと案じるレイチェルにランドルフは勢い込んで頭を振る。
「いや全然問題ないよ。正直、レイチェルが変わったのは認めるけど、何か他の子に受けそう」
「おい、ランドルフ」
それにハインリヒが呆れた様子で後ろから友人をこづく。
「そういう言い方はどうかと思う。…とりあえず我々の頼みは後だ」
「全くだ、さっさとおし」
それに半分呆れ後の半分は面白がっているようなおばばが割り込んでくる。
「陛下方を待たせて餓鬼どものお喋りに付き合ってる余裕はないさね。あんた等の『お友達』は後回しにしな」
「失礼しましたー」
案内されたのは、庭園だった。秋薔薇の咲く優美な風景の中、豪奢な庭園家具が並べられている。テーブルについているのは二組の夫婦。
「…そら、レイチェル」
おばばの声に頷いてレイチェルは足を踏み出した。はっ、と女性の一人が腰を浮かせる。
「…レイチェル…!?」
「ご心配を、おかけしました」
一歩手前で立ち止まって深々とお辞儀をする。身に付けているのは粗末な衣服でも、中身は未だ気品を失わない令嬢のままだ。
深く下げていた頭を上げたところで、その女性に抱き締められた。
「服が汚れますわ。お母様」
「そういう問題ではなくてよ。貴女に比べられるドレスなど無いわ」
テーブルについていたのは、レイチェルの両親である公爵夫妻と国王夫妻だった。
侍従達がレイチェル達の椅子も用意してくれる。おばばやまだ物のわからない子ども達はともかく、リラはすっかり萎縮していたが、平気だと強情を張る男の子達と一緒に、別の席を用意される。
「ご婦人や年若い者は休んでおく方が良い。どうせしばらく時間がかかる」
そうハインリヒが言う通り、話が終わる頃にはすっかり日が傾いてしまった。途中で国王陛下は職務に戻らざるを得ないくらい。
もっとも話の大半は、レイチェルへの詫び言だった。彼等の息子の暴虐を止められなかったこと、そんな選択をするような教育をした覚えはないのに、と言う嘆き。
つまりこの二組の夫婦の息子に関してだが、レイチェルも彼等、つまり婚約者だったアーノルドと実の弟であるエリオットとの付き合いは長い。詫びる父や母、そして国王夫婦のその気持ちは素直に受け取るが自分の責任が全くないわけではないとも考えている。
「陛下、王妃殿下。それにお父様、お母様。…今回のことは、私も非があったと思うのです。一つに、自分の手に余ると判断したら速やかにご連絡差し上げるべきでした」
「…今はそのことはいい。おまえは、出来るだけのことをしてくれたと私達は思っているよ」
「お父様…」
「レイチェル、過ぎたことではなく、これからの話を致しましょう」
にっこりと微笑みかけたのは王妃だ。極めて建設的で前向きなこの女性は、後ろ髪引かれながら政に戻らねばならない夫の分もこの場を仕切っていた。
「妃殿下」
「まず、当然貴女の放逐は取り消します。アーノルドは今のところ、王宮で謹慎中なの。エリオットもそうね?」
「ええ、領地で監視させておりますわ」
王妃の問いに公爵夫人が頷く。
話によると二人は、レイチェルを追いやったほぼ直後に無理矢理実家に呼び戻され、以来軟禁状態だという。曰く、『何をするか知れたものではない』から。今まで築き上げ来たはずの信頼も何もかもすっかり喪い、本人達は憤懣やる方ないらしいがそれもある意味仕方のないこと。
「何しろエリオットときたら、まともに話を聞かず貴女を追いやったわけでしょう。従者達も全く信が置けない、気にくわない相手なら冤罪を着せて放置するのではないかと、あの子に付くのは嫌だと訴えてきたの」
「アーノルドの護衛もそうよ。貴女を置いてきたというので全員真っ青になって公爵に謝り倒していたわ」
上の主は、下の者を顎でこき使えるが、使われる方だって全く意思がないわけではない。望ましい主でなければ、更に上の主にそれを訴えるくらいは出来る。増してアーノルドやエリオットはまだ若輩、その保護者に報告や相談は当然だろう。そして二人の態度は、使われる立場の者達の不安を煽るものでしかなく、言わば彼等は自分の使用人にも見限られた形だ。
それでいてレイチェルを森に置いたままにして探しにも来なかったのは、森の魔女たるおばばが彼女の所在を掴んで報告していたからだ。
「魔女殿には、どれだけお礼を申し上げても足りませんわ」
「まあ、もしも行く当てがなけりゃあそこで子供らの面倒を見てもらっても良かったんだがね。ずいぶんと逞しいお嬢さんだ、正直あそこまでやらかすとは思わなんだよ」
「…それは、まあ…」
王妃はしげしげとレイチェルを観察した。
この公爵令嬢は幼い頃からよく見知っている。愛らしい幼女の時分からしっかり者でおのれを弁え、何をどこまですべきか慎重に見極める判断力があった。容姿も徒に華やかに装うのではなく、何が必要かを選択できる。
今の彼女は、貴族の装いとはかけ離れた襤褸をまとっている。見惚れるほど見事だった髪もばっさり切られて傷んでいるし肌も日に焼けていた。
それでも涼やかな表情はかつての彼女よりもなお生き生きし、頑是無い子ども達を気遣う様子も王妃の知る令嬢のままだ。或いは以前よりもむしろ強かに逞しくなった分輝きを増したようにさえ見える。
「…おばばには私からも礼を言うわ。この子すっかり逞しくなって、何だか充実しているみたい」
「そうさね。どうだい、レイチェル。おまえさん、この半年ばかりを後悔してるかい?」
「後悔する暇がありませんでしたわ。生きていくのに精一杯で。…でもリラや皆と一緒に暮らせてとても良かった。世話になった、その恩を返せればと思います」
「…恩はこっちの方だよう」
ぼそりとリラが呟く。顔を隠すようにフードを被って俯いて彼女はぼそぼそ言葉を継ぐ。
「あの頃、私ずいぶん自棄になってたから…ちび共の面倒もいい加減だったし、食っていくだけで精一杯で。レイチェルが来てくれたから、何とかやれたんだよ。…恩返しなんて、お嬢様に戻るあんたにはもう出来ないだろうけど本当に感謝してる」
「リラ…」
「だったらお嬢さん。レイチェルの友人でいてくれないかしら」
半ば呆然と彼女の名を呟くレイチェルに、彼女の母が割って入る。
「この子もまだまだ苦労はあるでしょう。この先『森の魔女』を受け継ぐ貴女が友人でいてくれれば、心強いわ」
裏を返せばそれは、リラがおばばの後を継ぐその後ろ楯に公爵家がつくと言うことだ。非公式ながら強い発言力を持つその地位につくのは、こうして先代に見込まれた女性だけであることも公爵夫人は承知している。
貴族社会というのはこの手の非公式な関わりが実に多い。非公式だの不文律だの、そうした雰囲気を読み取れなければ貴族としてはやっていけないのだ。
そして実は、アーノルド達の愛する男爵令嬢マリーベルは物の見事に空気が読めなかった。敢えて読まなかった節がないとは言わないが、日頃の行いを見るに空気を察する能力が低いのは確実。
「あの後ずいぶん顕著になったからな」
「あそこまでとは思わなかった」
青年達によると、レイチェルの放逐後、アーノルドとエリオットも実家に呼び戻され学内の騒ぎは一旦沈静化した。彼等も自分の婚約者に詫び、精一杯許しを乞うべく努力したらしい。
その彼等に、マリーベルはしきりと声を掛けて接近してきた。おそらく上位の二人がいない間、別の庇護者を必要としたのだろう。
現実問題として、以前からレイチェル以外に彼女に関わろうとする女生徒はまずいなかった。それをして「苛められた」と主張するマリーベルの発言だった訳だが、以降敢えて地雷に踏み込む者はいない。
もっともエリオットは一度学園に戻っている。彼女と本気で結婚するのであれば廃嫡する、と宣言されてそれでもいいのか当人に確認するよう促されたらしい。
促した公爵夫人曰く。
「本当に互いに想い合っているのだったら結婚すればいいとは思いましたわ。ただその場合、公爵家は預けられません。一から二人でというのであれば、若干は援助しても良かったけれど」
「ばっさりフラれてましたが」
それにランドルフが微妙な表情で付け加える。
学園に戻ったエリオットは内密にマリーベルを呼び出したらしいが、何しろ下働きにも彼女の味方はいない。内密のはずがあっさり知れ渡って彼の一世一代の告白は他の生徒達の衆人環視の中だったという。
「公爵家から勘当されたけど、二人で一緒に生きようって言うエリオットに『無理』一言で切って捨てたな」
「それは酷い」
「ただ二人とも周りには気づいてなかったぽいけどね」
呆れるリラにランドルフはあっさりしたものだ。むしろイヴァンの方が申し訳なさそうに付け加える。
「その、エリオットは…あまり周囲の雰囲気に敏い方ではないだろう」
学業成績は優秀ながら、人の心の機微に疎い辺りが、エリオットの短所だ。それは両親も姉もわかっていて、だからこそマリーベルでは役者が不足と判断した。
「その、男爵令嬢も気がつかなかったの?」
リラはたいそう不思議そうだ。娼婦の経験がある彼女にとって、男性に気を持たせて惚れ込ませる手管はある意味慣れたもの。逆にそうした手管を弄する類いの女なら、当然人の感情には敏感ではないかと、疑問を抱くのも無理はない。
「彼女は…何と言いますか、悪意や好意には敏感なのですけれど。全体を俯瞰して見ることが出来ない質なのだと思いますわ」
それが公爵家を継ぐ立場としては到底認められない理由の一つだ。それだけではないのだが、大局を見ることの出来ない人間には大きな権力を持たせられない。
エリオットはすっかりショックを受け、領地の屋敷に引っ込んで殆ど引きこもっているらしい。
「妃殿下、アーノルド殿下は如何してらっしゃいますの?」
「あの子も今は離宮に放り込んであるけど…何時までもそうしておく訳にもいかないわね」
アーノルドが学園に戻ってくるには、かなりの時間がかかった。父母も臣下もなかなかその本気を理解しようとせず、諌め、咎められるばかりで嫌気が差していた。
意思を曲げない彼に、とうとう両親が妥協案を出してくる。どうしても彼の想い人と一緒になりたいのなら、王家から籍を抜き一介の騎士から二人でやり直せと。
今まで王族として恵まれた地位にあったことは自覚している。けれど腕にも能力にも、それなりの自負はある。愛する女性のためなら、身分など擲って構わない。己の才覚で彼女を幸せにする、と意気込む彼に父は溜め息を吐き、母は露骨に呆れた顔をした。
それまで無言で両親と彼のやり取りを傍観していた兄の王太子がそこで、『それは、相手の女性に相談すべきだろう』と取りなしてくれてようやく学園へ戻ることができた。
紋章の無い箱馬車で学園に乗り付けると、既に連絡が届いていたのだろう教師陣が待ち構えていた。
「殿下、お話は伺いましたが」
挨拶もそこそこに声を掛けてくる学園長は、アーノルドが幼い頃王宮で教えてくれた家庭教師の愛弟子だ。だからこそいろいろ便宜も図ってくれ無理も通してくれた。さすがに婚約者を放逐したのに目を瞑ったことでだいぶ立場を悪くしたらしい。
「ああ、久しいな。…手間を掛けて済まない」
そうと知っている相手を労うことは吝かではないが、気が急いてもいる。それと察したのだろう、彼はアーノルドを促して歩き出した。
「詳しくは存じませんが、公爵家のエリオットも一度いらしたそうです」
背を向け、先導しながら彼は世間話のように口にした。さすがにアーノルドは少し驚く。
「エリオットが? おまえが知らぬうちにか」
「内密に、という話だったそうです。…マリーベル嬢に婚姻を視野に入れた付き合いを申し込んで、断られたとか」
「…それは、また」
先を越されたことを憤るべきか既にフラれていることに安堵するべきか。戸惑う彼に頓着する様子を見せず学園長は背を向けたまま彼を先導して歩を進めた。
「以来、領地で屋敷に引きこもっていらっしゃるそうです」
「…公爵家も苦労が絶えんな」
もっともアーノルドがレイチェルを穏便に実家に帰らせる程度で止めておけば苦労はずいぶん減っただろう。公爵家の後継者としてのエリオットは優れた人材ではあるが、能力以上に影響力を考えれば姉の方が重要だった。そのことの自覚はアーノルド自身にはない。
学園長が彼を通したのは応接室だった。国内の貴族子弟がいる以上ここを使うのも貴族ばかりとあって相当に豪華なその部屋の、ソファにぽつん、と心細そうに座っているマリーベル。
「アーノルド!」
入ってきた彼に気づいてぱっと輝かせる表情は実に可愛らしい。つられて自分も微笑みながら、アーノルドは彼女の向かいに腰を下ろした。
学園長が同席する場に茶が運ばれてくる。それで唇を湿して改めてアーノルドはマリーベルを見つめた。しかし彼が感慨にふけっている間に、彼女の方が勢い込んで語り始める。
「貴方がいなくて寂しかった! 戻ってきてくれて本当に嬉しいわ、今度約束してた遠乗りに行きましょうね」
ハイトーンで立て続けにまくしたてられてアーノルドは目を白黒させる。彼の大事な少女はこんな口数が多くて落ち着きのない女だっただろうか。
「あ、あー……マリーベル、ちょっと落ち着いて、話を聞いてくれないだろうか」
「え?」
きょとん、とするのもまた実に可愛い。小動物的な愛らしさが堪らないのだが。
「実は、学園にはもう戻らないことになったのだ。しかし君を愛している、どうか結婚してもらえないだろうか」
表情を引き締めて求婚するアーノルドに、マリーベルはとろけるような笑みを浮かべる。
「嬉しいわ、アーノルド。私、そう言ってもらうのずっと待ってたの」
「そうか!」
それにアーノルドも破顔一笑して膝を打った。
「それならば、くよくよと気に病まず早く口にすべきだったな。しかしこれからは、いつも一緒だ。王族からも籍を抜いて一介の騎士として、共に生きていこう」
浮かれた彼の高揚は不意に投げ込まれた堅い声にたたき落とされた。
「…何それ」
「…マリーベル?」
つい今し方可愛らしく求婚を受け入れた少女は、いきなり表情を変えていた。表情豊かな大きな瞳が眇められ、ひどく剣呑な雰囲気を醸し出している。
「今、何て言ったの? 王族から籍を抜くって、どういうこと?」
「い、いや、だから…君と結婚するには、王族のままでは不可能だ」
「だったら公爵とかでもいいじゃない、なんで!?」
「いや、それは…マリーベル、君の家は男爵家だし…」
「だからこそじゃないの!」
きんきんと甲高い声で詰問され、何とか宥めようとするアーノルドもどんどん顔色が悪くなっていく。
「し、しかしだな、この条件でなければ我々の結婚は許さないと」
「冗談じゃないわ、何でただの騎士と結婚することになるの!? 王子か、せめて次期公爵くらいじゃなくちゃ納得いかない!」
「そ、それでは単なる身分目当てではないか!!」
「というわけで現在大変な修羅場になっています」
こちらは学園内でも男子寮と女子寮の間に設けられたサロン。学生達の保護者が使うことも多いので設備は整っている。そこにはランドルフとハインリヒ、イヴァンに彼等の婚約者達とそしてレイチェル、リラがくつろいでいた。
「まあ、予想された事態ではありますが」
「殿下、本当にわかってらっしゃらなかったのね」
一同は呆れ半分慨嘆半分というところだ。
「そういう人を放置しといて大丈夫なの? ですか?」
フードをかぶったリラが誰にともなく問うのにレイチェルは苦笑する。
「まあ、マリーベル嬢と結婚はなさらなくても、臣下に下られるそうですし。この先も監視は付くでしょうから、何かあれば動く人達もおいででしょう」
正直、彼等の行く末にあまり興味はない。
エリオットは公爵家の継承権を放棄して文官として職に就くことになった。代わりに、レイチェルが婿を取って後を継ぐが問題はその相手。これから当分は忙しくなるだろうから、他人事にかかずらっている暇は無い。
森の、リラの元にいた五人は公爵家で引き取ることになった。今は実家に置いてきている。レイとユーリは従者、もう少し大きくなって本人が希望すれば護衛として育ててみる。女の子達は侍女だ。その代わり、でも無いが『森の魔女』には王家だけでなく公爵家も援助することになった。また新しい子ども達が連れてこられるのだろう。
久しぶりに会った学友達は、すっかり変貌したレイチェルに驚き、戸惑いながらけれど彼女が生きていたことを何より喜んでくれた。公爵家はどうなることかと案じていた者、彼女の消息が掴めず心配していた者、そうした彼女達を安心させられて本当に良かった。
令嬢達はレイチェルが恩人と紹介したリラにも『森の魔女』を継ぐことは知らずとも好意的で、どうやら一応の交友関係を築けそうだ。双方のためにもいいことだろう。
「後ですね、男爵家の方でも『そんな不忠な真似をする者は我が家の人間では無い』とか言う話になってるとか」
要はマリーベルの実家も、彼女と絶縁する方向で動いているらしい。
「…それは、なりますわね」
その気持ちは判る。王子に、そして公爵家に対して失礼と言うより既に有害だ。その個人を切り捨てることで家を守ろうとする、それは貴族として当然の判断だろう。
ただしそれをわかっていない当人達には、ずいぶんと迷惑を被った。反省して欲しいしもう会いたくない。それはお互い様だろう、彼等がレイチェルを放逐することで自分達の前から追い払ったように。
「でしたら、いずれにせよもう私達には関わり合いのない方々ね。気に病まない方がよろしくてよ」
つん、と澄まして言えば男性陣が忍び笑う。どこからどう見ても完璧なこの令嬢が、サバイバルを身に付けたことを知っている彼等には妙におかしいらしいがレイチェルは素知らぬ顔を通す。
どんな状況でも案外生きていけるものだと、内心己の図太さに感心しながら。
乙女ゲームっぽい世界ですが実際はどうだろうか。
明確な転生者もいません。マリーベルは疑わしいかな、あと意外なところでおばばとか。