異世界、管理局、異邦人
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何かぬるいものが、晴光の頬を伝った。撫でるように移動した温度は、唇に触れ、歯列をなぞって舌を滑り落ちる。
血の味がする。
粘膜よりも僅かに冷たく感じる液体が胃に落ちる。一滴の滴が膨れ上がるように体の内を満たし、空いた穴を埋めていく。
晴光はぱちりと目を開けた。
薄い毛足の温かみのあるカーペットに、木調の小さなテーブルや本棚がある。ベットには手作りらしいパッチワークのカバーがかかっている。窓の桃色のカーテンは陽に焼けて褪せていた。
家具で床が埋まるほどの小さな部屋だったが、清潔で生活感があった。晴光はそんな部屋の中心に立っていた。
晴光はよろめきながら窓に近づいた。カーテンをめくると綺麗な水色の青空が広がっている。この建物は高台にあるようで、障害物に遮られず遠くの山の影まで見渡すことができた。少し視線を落とせば、隣家の瓦屋根が寄り添っているのがわかる。
「……電線が無い」
言葉の上では似ていても明確に違う。窓の外には、テレビの画面で見たような異国の風情があった。
いや、正確には“異界”の風情だ。なにせ、空の上にはぽっかりと月が二つ、銀色に反射しながら羽ばたく謎の飛行物、時々人間らしき影が飛んでいるのも見えるのだから。
「どこだぁ……ここ」
晴光は思わず額を抑えた。
のどかな鳥のさえずりが聞こえる。半袖のTシャツでも、うっすら汗をかくほどには暖かい。
(おれ、確か夏休みのはずで……)
呆然と晴光は窓の外を眺める。『瞬間移動なんてファンタジーのアニメやRPGみたいだなあ』今の晴光に浮かぶのはそれくらいだった。
いつまでそうしていたのだったか。微かな音を立てて背後の扉が開いたのにも、晴光は気が付かなかった。
「あ、あなたは」
か細い少女の声。晴光は飛び跳ねて振り返った。
長い桃色の髪は、おさげにして胸の前に垂れている。動きやすそうな紅色の民族衣装を着ている少女の赤みを帯びた丸い目が、晴光をおっかなびっくり見上げていた。
「だ、誰だ……? 」
後ずさる晴光に、彼女はゆっくりと近づいて、まじまじと晴光を見た。「やっぱり、あの時の……」
「さっぱり話がわかんねえんだけど……ここはどこなんだ? 」
「あの、その……わたしは……えっと」
少女は視線を彷徨わせ、涙声になってうろたえる。「うまく説明、できません……あの、とりあえずここはわたしの部屋です。そのぅ……わたし、ファンといいます」
「お、おれは、周 晴光……」
晴光もつられて、おずおずと名乗る。沈黙が下りた。
長い無言の後、ファンは意を決したように晴光の眼を見た。それだけでなく、晴光の腕を掴んで引く。
「あの……! わたしと一緒に来てください! わたしじゃ……その、うまく説明、できないんです 」
少女に引き摺られるようにしてわけが分からないまま建物を出て、石畳で舗装された街道をずいぶん長く歩かされた。太陽の下、街道脇には露天がいくつも並んで、様々なものを売っている。様々な色の幟が色鮮やかだった。
やがて、白い壁の門に出た。その頃にはもう、晴光も手を引かれずに歩いていた。ファンは迷いなく門をくぐる。
ひどく大きな洋館のように、その建物は見えた。四階建てほどで建物自体にはあまり年季を感じさせず、横に長く裾を広げているところはデパートや美術館にも見えるし、塔のようなものが三本突き出ている様は城と言ってもいいのかもしれない。とにかくも、アジアのテイストを感じさせる街並みには浮く外観なのは間違いない。
入り口は、意外にも自動ドアだった。ホテルのような広いロビーには、何人もの人間がおのおの動き回っている。一見して、それらは二つの人々に分けられるように思えた。
一つは、街で生活を営んでいた人々だ。多くはファンと同じように民族衣装姿であり、髪の色が奇抜である。赤はまだしも青や紫といった、おおよそ人体に含まれていない色素の髪や瞳も見受けれたが、姿は特におかしなところはない。
もう一つは、緑色の服を着た人々だ。
彼らはそれぞれの趣味や文化にあった服を着ているように見えたが、皆なにかしら、緑色の上着を着ている。
緑色の人物は人種も様々で、時々“人”と呼ぶには奇妙な付属品が付いていたりする者も混ざっていた。尻尾や耳ならまだいい。しかしよくよく窺えば、それは名状しがたい付属品だったりするのだ。
当然のような顔をしてそんな人の群れを縫うようにしてロビーを進んだファンは、緑色のジャケットを着た受付嬢に声をかけた。
「ハック・ダックに火急の用事があるんです」
受付嬢の耳の上には山羊のような立派な角が生えていた。凝視する晴光にも顔色一つ変えず、彼女はエレベーターを指す。
「第五館の二階へどうぞ。ロビーでお待ちだそうです」
晴光は名前を聞いてもピンとはこなかったが、姿を見て、ようやくその男を思い出すことが出来た。
エレベーターの扉が開いた先、ソファに足を開いて座っている男の肌が異様に白く、血の気が無いことがシャツから出た首から上でも分かったし、薄いブルーの眼は記憶に残る青白い光とまるで同じ色だった。
ハック・ダックは巨躯を曲げて窮屈そうに座り込み、不機嫌そうに紫煙をくゆらせて晴光をじろじろと観察するように見る。
(……この人、さっきはもっと頼りがいのありそうな人じゃあなかったっけ? )
おもむろにハック・ダックは立ち上がった。「着いてこい」
その一言だけを後ろ手に投げるように言い放ち、ハック・ダックは廊下を歩きだす。晴光は慌てて後を追いかけた。
そして、先立つハック・ダックの背中を見て気付く。
(左足を引きずってる)
僅か立ち止まってしまった晴光に、ハック・ダックは一瞬だけ視線をよこした。どこか物悲しい、擦り切れたような瞳が気になった。
適当な会議室のような部屋に晴光は通された。
晴光が、「おいおい、おまえも部外者ってわけじゃあねぇだろう? まぁ座れ」さらに促されて居心地が悪そうにファンが座る。
ハック・ダックは会議室の円卓をぐるりと見渡し、どかりと自分も上座についた。
「さて、まずは自己紹介しようぜ坊ちゃん。ちょぉっとばかし、ハードな話になるからな。ちゃんと付いてこいよ」
旧題「目の前に映った物語を信じて」