プロローグ※七月最後の日
「ハルミツー! ハルミツー! 」
「せい兄、お母さんが呼んでるよ」
「ええ~……」
妹の指摘に億劫に呻いて、晴光はやっとのこと、生暖かい畳から身を起こした。隣では扇風機を抱いた弥子が睨んでいる。夏と言えど、たとえ隣にいるのが兄だといえど、短パンで足を開いて座るのはいかがなものだろうか。
早く行け、というのだろう。妹が顎で入り口を示す。小さいころは引っ込み思案でこんなんじゃあなかったのになあ、と晴光は内心ごちる。
一家の住まいは、高台にあった。
小山に沿って長くまっすぐな石段があり、その中ほどで森を切り開いた境内が広がる。そこにある寺院の名を誠光寺。――――そう、晴光の名前は、この寺から付けられている。晴光の父は住職だった。
セイコウ、ハルミツ――――晴光のことを、周囲は好き勝手に呼んだ。名付けた両親曰く、どちらの読み方も間違っちゃいないそうだ。呼びやすい方を呼べばいい、という。
良くは知らないけれど、このへんには弓で妖怪を討ったという話があるだとか。つまりは、『誠光』とは、弓の的のこと『正鵠』の当て字であるらしいので、そこらへんを追求するのなら、『ハルミツ』よりも、『セイコウ』が正しいのだろう。しかし彼自身も、そこまで自分のルーツに興味があるというわけでもない。そんなこと。たかが呼び名だ。
境内からは、地上よりもすこしだけ近くに入道雲がぽっかり浮かんでいた。アブラゼミの鳴き声が、そこかしこの木陰からする。
のそのそ庫裏(寺院の住居スペース)から、サンダルを履いて出た。木々の間から、崖のすぐ下に通る道路とさらに下に街並みが裾を広げる。
(…あ、あいつ)
崖下の坂道を、自転車が走っていく。今年に入ってから、なぜか良く見る顔だった。晴光がここを通るときに限って、いつもここを通るのだ。
この崖下の道は、晴光が通う中学校の学区と隣の学区との、ちょうど境目にあった。あちら側の児童がこちら側に来ることも当然ある。
最初は小学生だと思った。これくらいの年の体つきは、いまいち判断がつきにくい奴だっている。平日の夕方に一度、学ランを着て歩いているのを見かけて、同世代の男子なのだと知った。
ちょっとボタンの色が特殊な制服は、やはり向こうの学校の制服だ。見かけるようになった時期も時期で、一年生なんだろうと思う。
晴光がそいつについて知るのはそれだけで、特に興味も湧かない。女子ならまだしも。
そもそも、晴光が忘れた頃に視界の端に入ってくるのだし。実を言うと、こんな遠目では、顔なんて分からない。青みがかった黒髪が、なんだか珍しいなあと思うだけだ。それは、これだけ距離が離れていても同じような黒髪の集団の中だと、一人だけ浮かび上がっているように見えるほどの色の違いだった。
だから『よく見かける顔』というよりは、『よく見かける頭』が正しい。
(制服じゃなかったな。部活じゃなきゃ図書館にでも行くのかね。今日は暑いもんなぁ)
「ハルミツー! ちょっとあんた聞こえてるのーっ! 」
しばしエアコンの冷気に思いを馳せていた晴光は、母の怒声にはっと顔を上げる。
「はーい! 聞こえてるー! 」
寺は住居たる庫裏だけでも、一般家庭に比べれば段違いに広大であった。この季節の夜、すぐそこで肝試しができる。秋は落ち葉の掃除、冬は雪かきに忙しく、春は花見客が勝手にやってくる。そもそも、山そのものがこの寺の敷地内なのだ。
故に。
「ハルミツー!」
「母さーん! どこー」
「あんたどこ行ってんの! 台所よ、台所! 」
分かるかいな……。内心で晴光はごちる。
「はーい今行くー! 」
―――――とまあ、こんなふうになることも、多々あった。
※※※※
コンクリートから上昇する熱気にうんざりする。家の庭ではあんなに近かった入道雲も、都市の熱に敬遠して遠ざかっているように見えた。
汗は流れた端から蒸発していく。紙袋を片手に、晴光は青空を仰いだ。
こうして晴光がだらだら下界を歩いている理由というのも、そもそもが桃とマウンテンバイクのせいであった。
晴光の愛車は、父に強請ってやっと買ってもらった赤いマウンテンバイクである。あれは移動には早いが、籠というカッコ悪いものはついちゃいないものだ。いいや、ついているものも店頭にはあった筈だけれど、晴光はそんなものは眼中に無かった。そして桃というものは痛みやすい。よく幼子や淑女の柔肌に例えられるように、衝撃に弱くていけない。
マウンテンバイクでなければ、きっと母も使用許可を出したのだ。
右手に桃の入った紙袋、肩にはナップザックを斜め掛けして、晴光は額の汗を手の平で伸ばす。母の言う『おつかい』には、込み入ったようで単純な事情があった。
そもそもは、昨日に両親の知人が亡くなったところからだ。
その知人は大変な高齢で、父より先代の住職の頃から、この街に住む人なのだという。もちろん縁ある人であるので、余命幾ばくもないと分かった時に、お節介と知りながら住職は死後の弔いを願い出た。
彼女には一緒に住む孫がいたが、彼はまだ中学生で、諸々を執り行えるほど成熟してはいない。
彼女はそれを丁重に断り、理由としていくつかのことを挙げた。
まず、自分は仏教宗派ではないこと。といっても、特にどこを信仰としているわけでもないというのだから、これは厚意を断る建前かもしれない。しいていうなら神社で手を合わせるが、教会でも寺でも同じようにするという。母称するに、神や仏にからっきし興味がないのだ。
次に前述の理由で、そもそも葬式も通夜も一切の儀式というものをするつもりではないこと。
「葬式しないで墓だけって、できるもんなの? 」
晴光は驚いて母に尋ねた。
「できることはできるけどね。お葬式って、お金がかかるものだし…まあ、お墓買う方がお金かかるんだけど。でもやっぱり、そうなるとね…残されたお孫さんが心配で」
母はそう言葉尻を濁し、桃の入った紙袋を晴光に握らせた。
「だからあんたちょっと、行ってきてよ。その子、あんたと同じ年なのよ」
理由が理由だけに、晴光も大人しく頷くしかないではないか。
住宅街は、少しずつ家屋の大きさを広げている。今は喪いその人の住処は、いわゆる高級住宅街の端にあった。
洋館、ってやつか。
晴光は半ば呆然と、蔦の絡まる煉瓦造りの塀を見上げる。その上には、尖った塔のような屋根が飛び出していた。
そりゃあ境内の広大さには負けるが、『ふつう』の家はこの御時勢、こんなにに広い庭はない。実家を棚に上げて、映画に出てきそうだと晴光は思う。
インターホンはどこだと門の周りをうろうろすること数分。向こうの扉の方が先に開き、一人の男が顔を出して、こちらを見て不思議そうな顔をした。
「うちに何か御用ですか? 」
近寄ってきた男は、不審者にも朗らかに微笑を浮かべていた。晴光は面食らって動けない。
突然だが、晴光は齢十四歳にして百八十の大台に乗っかった高身長である。部活動で鍛えているので、そこらの中学生とは一線を駕す立派な体躯だ。一見して中学生には見えないし、まず高校生か、下手をすればそこらの大学生より鍛えている。
自分と同じくらいの目線をした男。じゃあ、こいつが、『晴光と同い年の孫』なのだろう。
(外人じゃん! )
母のずぼらを呪う。ああその、つまり、例の今は喪き御人は、西洋からの渡来人であったのだろう。男、少年は、茶色の髪に黄色くない肌色をしている。西洋人の美醜はよく分からないが、海外のホームドラマに出てきそうな、といえば想像できるだろうか。ある意味没個性的で凡庸としたそんな面立ちに、ちょっとそぐわない真っ赤なごつい眼鏡をかけている。
(これで同い年…)
晴光も、その体躯を「西洋人のよう」だとか揶揄されるけれど、やっぱり本場は骨格の違いがよく分かる。
でっけーなあ、と晴光はまた自分を棚に上げて思った。この片田舎じゃあ、晴光と同じ目線の同級生なんてまずお目にかかれない。
少年は不思議そうな顔をして、晴光の言葉を待っていた。
「お、俺、誠光寺の、息子だけど」
「セイコウジ……? ええっと、うちはお葬式はしないことになってて……」
悪趣味な教の勧誘だと思ったのか、さすがに笑顔が曇り、表向きは実に申し訳なさそうに少年は眉を下げた。
昨今の『宗教嫌い』の風潮は、晴光ですら感じている。例えば「あの子は寺の子なのよ」と聞くと、良く知らない大人が嫌な顔をして、「うちに無駄に出すお金はありませんから」なんて言ってくるのである。
「いや、そうじゃなくて、母さ―――母が、「お悔み申し上げます」って。お祖母様にこれを……」
晴光は拙く口上を言って、紙袋を差し出した。そう、これは社交辞令。宗教関係者だから、遠慮に遠慮を重ねた厚意。
「ありがとう、わぁ――――」
彼は紙袋を覗き込み、ぱっと笑って頭を下げる。
「――――うちのおば様、桃が好物だったんだ」
ダイモンはぺこぺこ頭を下げる。
礼儀正しく、折り目正しく、そしてよく笑うやつという印象を短い間に受けた。知っていてもちっとも身内が死んだとは思わない。それも、つい昨日のことだとは。
「おれはダイモン・ケイリスク。同じ年くらいだよね? 息子さんのお名前は? 」
「周……」少し考えた。『セイコウジ』の『セイコウ』。駄洒落みたいだ。「周、晴光。俺は五中の三年だけど」
「あ、おれは花冠学園」それは、近所の私立校だった。「はは、二年だからおれの方が年下ですねぇ」
「敬語は良いよ」
「そう? じゃあ、お言葉に甘えて」
ダイモンはにっこりする。なんだかやけに、居心地が悪かった。
それがこの西の少年から発せられる、やけに流暢な日本語の言い回しだからなのか、全く感じない悲壮感だからなのか、晴光には分からない。ただ晴光はそれとなく、少年の眼では無くて、肩越しにある館を見つめた。
「なあ、周くんのご両親って、どれくらいここに住んでるの? このへん詳しいかな」
「え? そうだな、俺が生まれたころにこの街に来たから…十五年くらいだ」
「ならさ、知らないかな――――」
ダイモンは少しだけ迷う仕草を見せ、それでも言った。
「おれのおば様の名前、知らないかな」
意味が分からなかった。
初めて、晴光はそれに気づく。ダイモンはずっと『おば様』と呼んでいる。『おばあ様』の聞き間違いじゃない。
「まいっちゃうよ。おば様の名前、おれ知らなくてさ。お墓に名前も彫れないじゃない。もしおれが居なくなったら、誰のお墓なのかも分からなくなっちゃうよ」
「おまえって、いつからその人と住んでんの? 」
「かれこれ十二年かな。物心つくころには、ってやつ」
「叔母、ってことは、親のキョウダイなんだろ? 」
「ちがうよ」
なぜかダイモンの方が不思議そうな顔をして、きっぱり即答した。
「……じゃあ一緒に住んでた『おば様』ってーのは、どういう所縁ある人なんだよ。それが分かったら、どこの誰に聞けばいいのかも分かるだろ」
「知らないなぁ…そういえばおば様、俺とどういう関係だったんだろう」
「ふ、ふつう、知ってるもんじゃないのか? 」
「ああ……それは知ってるけど、でも、必要性を感じなかったんだよなぁ……死んじゃうまで」
初めて物悲しいような顔をして、ダイモンは地面に目を逸らした。「ずうっと、『おば様』って呼んでたから」
「俺の両親も……たぶん、それは知らないと思う。おまえが知らないんなら」
たぶん、というか、ほぼ確信だった。だってそんなの知るわけないじゃないか。晴光だって、親の名前くらい知っているのに。そもそも、両親ではなく自分がお使いに来ている時点で、それだけの関係なのだ。
晴光は、そこまで考えていたわけではない。ただなんとなくの雰囲気と、言葉にできない直観での感想と、経験則からの反応だ。普段の晴光なら、こんな状況でももう少し無邪気になれる。
ダイモンの肩越しに、隠れて見えなかったうすら寒いものがぐぅっと近づいてきた気がした。
「……俺、これから部活の練習あるんだ」
半分嘘だ。受験生の晴光は、もう引退している時期だった。
「へえ、部活なに? 」
「バスケ」
晴光は肩のナップザックを叩いた。それは丸く大きく膨らんでいる。家では勉強をしろとせっつく母がいるから、帰りに少し遠回りをしたところの公園で練習しようという心づもりだった。
「へー、そういえば君、でっかいもんなぁ」
「おまえも十分でかいだろ」
「おれ運動からきしなんだ。運痴でさ、速く走るのが苦手。ゆっくり歩くのは好きなんだけどなぁ。へへ…」
ダイモンはもう、照れたようにはにかんでいる。
「お、俺…そういうことだからさ、そろそろ行かなきゃ」
「あぁ、そっかぁ……あ! そうだ、おれもお客さん待たせたまんまだった! 」
ダイモンは大きく手を打ち叩く。
「いつもは誰も来ないのに…昨日からお客さんばっかりだから、うっかりしてたな。おば様って意外と友達多かったんだなぁ……」
またダイモンは、少しだけ寂しそうな顔をして、今度は空を仰ぐ。
空は青い。晴光の顔色も青かった。
帰り際、一回だけ屋敷を振り返った。振り返ってしまった。
屋敷の窓から、目が吸い寄せられて離れない。
白いものが見えた。あれが、ダイモンの言った『お客さん』なのか。
その白いものは人間だった。
人間の髪の毛だ。けれども、見間違えでなければずいぶん若い。――――たぶんきっと、晴光と同じくらい。
そいつと目があった。
晴光は凍り付いて動けない。男か女かも分からない。ただ、目の色は黒ではない。青か、はたまたもっと薄い色か。
向こうも目があったことに気付いたのだろう。そいつは、すっと体を揺らす。窓越しに“そいつ”は、深く深く、白い頭を晴光に向かって垂れた。
晴光はぎょっとして、次の瞬間には走り出す。
――――はやく行こう。気晴らしには、ボールを触るに限る。
――――義理は果たす。ちゃんと親に訪ねてやるのだ。『おば様』とやらの名前を、両親が知っているとはやっぱり思えないけれど。
「あいつ」に借りを作ってはいけないと思った。
何かよくわからないけれど、「こわいもの」があいつには憑りついている……いや、「あいつ」を「見て」いたのだと思った。
それは「よくわからない」けれど、きっと晴光が目を向けてはいけないものだった。……なんにも見えなかったけれど。
とにかく、逃げなくてはならない。こういうことは、実を言うと小さいころに何度かあったことなのだ。
晴光が大人になるにつれ、消えつつあった感覚――――もはや蘇ったそれは、彼の意思とは関係なく触手を伸ばしている。
炎天下の午後、入道雲の下を晴光は駆ける。雲は少しずつ風に広がり、青い空を侵食しつつあった。
さて、実を言うと、晴光はもう家には二度と帰れない。
高架下に逃げ込む彼を、じっと見る二つの眼があったから。長い永い旅が、今から始まるから。もっと広く現状を見れば、それがこの世の予定調和、運命、『筋書き』だからだ。
高架下を抜け、坂を駆け上がる。前から来た自転車に乗った小学生が、小さく悲鳴をあげて車輪を止める。
「ご、ごめん! 」
背中越しの謝罪が申し訳なく、晴光は振り返った。そこには自転車を脇に止めた小学生が、ぽつねんと立っている。
あ、こいつ、小学生じゃない。
見たことのある頭の色だ。青ががった黒髪のやつ。顔が分かる距離で見るのは初めてだった。あの男子中学生だ。
大きな目を見開いて、眉を下げている。思わずドキリとして、体格を俯瞰した。……華奢だが、男だ。
色白で、女の子のような端正な顔立ち。眼の色も変な色だと思った。紫っぽい青―――というよりは、濃い紺色だろうか。
――――そうかこいつ、日本人じゃないんだな。だから髪の色が違って見えるのだ。
「あ、あの…大丈夫ですか? どこか、引っかけました? 」
おずおずと少年は上目づかいに言う。俺はよっぽど酷い顔をしてんのか。
「いや、だいじょうぶだから―――――」
言った先から、自分がいかに大丈夫じゃないかということが理解できた。少年の肩越し、高架下のトンネルの向こう側に、『それ』はもう来ている。
―――――追いかけてきやがった。
晴光は背を向けて走り出した。「あっ! あの、ちょっと! 」後ろの少年があわてて晴光を引き留める声がする。背後に晴光は投げかけた。「あんたも逃げろ! 向こうから変なのが来るんだ! 」「えっ、ちょっと! 」少年の困惑した声が聞こえる。
なんで俺、逃げてんだろう。これじゃあ変なヒトだ。
流れる汗を拭いながら、とたんに不思議な気持ちが浮かんできた。導かれるように足が止まる。
――――ああ、と思う。
流れに身を任せることを選んだ諦めの声だった。
これには抗えない―――――それが寺に生まれたからの直観なのか、それとも別の何かか――――晴光には分からない。分からないことだらけだ。
それでも晴光の頭のどこかでは、逃げなくてはと思っている。
ざあ、と妙に湿っぽい風が吹く。取り返しがつかないことになる気がした。
ひどく、寒気がする。
俺はもう帰れない。
すでに登場人物が多数出てきていますが、晴光以外はは一時退場です。次に出てくるのはだいぶ後。
旧題「夢のあと」