夕日の英雄、宵闇の怪物
たん、と精霊賢者は右手に携える杖で地面を打った。
「ちょいと説明をしておこうかの。今からおぬしの最も恐れるものが現われる。おぬしはそ奴と戦えい」
晴光は首を捻って、背後の精霊賢者を見上げた。
「おれの……一番怖いものが出てくるってことっすか? 」
「そうじゃ。戦おうとするなれば、武器もおのずと手に入れられることが出来るじゃろう」意味深なことを言って、きらきらと砂粒のようなエフェクトと共に、精霊賢者は姿を消す。
「では、しばしのさらば」
泉を照らす白く淡い灯りが落ちていき、束の間、そこは暗闇に落ちた。耳鳴りがするほどの沈黙の奥で、さらさらと水の流れる音が聞こえ始める。
どくどく心臓が鳴っている。
自分の呼気が太鼓の音の様だ。
やがて。
……ぼう、と赤いものが浮かび上がる。
ひたり、ひたり、ひたり。
良く日に焼けた少年の脚。裸足の足音は、水が落ちる音に似ている。
暗闇に現れたその人物は、黒い影になってしまって姿かたちが分からない。晴光は目を細めた。
黒い短パンの脚に、見覚えがある。晴光の前で、その人物は足を止めた。暗い影の背後にちらつく、赤い―――夕日。
そう、あれは、夕日。
遮断機が下りなかった。警報機の音だけが鳴っていた。
田舎のことだから、たまにバーが落ちないくらい、みんな気にしない。あの事故の半月ほど前から、警報機だって遅れることもあった。
寄り道をした小学生の男の子が、それを知らなくても当然。バーが落ちない。警報機も十五秒遅れていた。
男の子は、十も年上の友達の家に遊びに行く途中だった。
前方で駆けだした影、呑気に手を振った自分、始めて聞く憧れの兄ちゃんの悲鳴染みた呼び声、蹴とばして転がったサンダル―――――。
「あ、あきらにいちゃん……」
「……晴光」
呆然としながらも、こんな声だったか、と晴光は思う。低い、大人の声だと思っていた。しかし改めて聴いてみれば、まるで大人とは言えない少年の声だ。
七歳だった晴光にとっては、小山のように大きく映る人だった。そういえば、「背丈が足りなくてレギュラーなのに馬鹿にされる」なんて、しきりに愚痴っていたのを思い出す。
身長164㎝。数字としては知っている。「164しかなくて何が悪い! 」それが口癖だったから。
今の晴光では、二十㎝も差がある。
手を伸ばしても届かない絶妙な距離で、影はじっと晴光を見る。……いや、睨んでいる。
彼の名は辻 聖。 享年は十七歳。
晴光が初めて喪服を着た人だ。踏切内の事故で、子供を庇って逃げ遅れた。子供は近所の弟分。誠光寺の長男。
晴光はあれから、電車に乗ることが出来ない。
(……この人と戦えって? )
無理だ。
晴光の中では、すでに結論が出ている。
子供の中で英雄だった少年は英雄らしく、すでにその命を散らしたのだから。
「ハルミツはビビりだなぁ」
上から声が降り注ぐ。晴光はいつのまにか、うずくまって腕に顔を埋めていた。
ゆっくりと顔をあげる。逆光の黒い顔に、聖の黒い、穴のような瞳の浮かぶ白い眼球ばかりがはっきり浮かんで見えて、晴光をじっと見ている。
―――――虫みたいな目だ。
晴光は泣きたくなった。冷たいも熱いも無い。ただ、無―――――。
こんな目は、生まれてこのかた知らない。
『セイコウよ』
慄く晴光の頭上から、精霊賢者の声が響く。
『おぬしが見ておるのは、おぬしの中の恐怖を読み取って作ったもの。イメージにすぎぬぞよ』
「お、おれは……! まともに喧嘩もしたことない! もう無理だよ! この人はおれには絶対殴れない人なんだ! 」
『ふむ困ったのう……しかし、倒さねば消えぬぞ』
黒い影は、何かを待っているかのように晴光を見下ろしている。
「おれに……あきら兄ちゃんをサンドバックにしろって……? 」
『繰り返すぞい。そのものの形は、おぬしが作ったものじゃ。恐怖の権化として現れたそやつが、どんな姿で何をするかも、おぬし次第なのじゃ』
「おれ次第」
『ふむ、では、戦うのでなければ何をすべきだと思う』
「………」
口の中にじんわりと鉄の味が広がる。
「兄ちゃん……ごめん、おれ、なんにも知らなくて……」
涙の滲みた吐露にも、影は何も言わない。
(そうか、こいつはおれが作ったんだ)
晴光の中に、彼が口にする答えは無い。七歳の記憶に残っている十七歳の彼は、晴光にとって一番かっこいい大人だった。
(あきら兄ちゃんが恨み言を言うなんて想像できないんだ。おれは……)
顔をあげると、顔も分からない黒い影が立っている。
(……姿も、よく覚えてない)
十四歳の晴光には、十七歳の彼は、まだずっと大人だ。
自分が情けなくてたまらない。
何度も自問したことだ。もし、自分が彼だとして、あんなふうに誰かを助けられるのだろうか。
助けられる人になりたい。実際に、あの殺人鬼から逃げた時に過ぎったのは彼の存在だった。あの身が裂かれる痛みの中、あの人もこんなふうに死んでいったのかと考えた。
震えが止まらない。
あんなに慕った人、それも命の恩人の姿を忘れている。なんて薄情なのだと、自分が情けない。
それと同時に、心の芯が凍りつくほど恐ろしかった。
(……しくったな)
ハック・ダックは、苦い思いを噛みしめていた。
(あいつ、本当に暴力とは無縁に育ったんだ。……なら、この遣り方は酷だったか)
この世界で生きていくのなら、いずれ通る道である。ハック・ダックの経験からして、それは早ければ早い方がいいだろうと思っていた。
……ハック・ダック自身が、過去に後悔をした道だから。
こういう時、自分はものを教えることに向いていないと痛感する。同時に、今の生徒たちの強さも実感してしまう。
エリカやクルックスはまだしも、デネブの能力検査には、ハック・ダックが立ち会った。
圧倒的な戦闘力で、かつ躊躇いの無い無機質すぎる思考。デネブは間違いなく、今受け持った三人の中で、随一の戦闘力を持つ戦士だ。
(いや、あれと比べちゃ失礼ってもんだな。ふつうってのは、こういうのを言うんだろう)
この瞑想の泉のシステムモードに付属している人工知能“精霊賢者”は、より初心者向けに、個々に合わせた繊細な調節をしてくれる。場合によっては、この空間さえ形を変えさせる権限を持つ。
この部屋では、あらゆるものが具現化する。そうして深層意識へ訴えかけ、隠れた能力を発掘するのがこの部屋の目的だ。荒療治すぎるとの声もある。しかし何年もかけて能力を模索していては、いつまでも自分の身も守れない。
管理局は、怯える者に『誰かを守れ』とは言わない。それは他の奴がする。けれど、それならば自分の身は自分で守ってもらえなくては組織は破綻してしまう。
教育には資金もかかる。
厳しいようだが、三年という短時間で、最低限以上の技能の習得が、管理局という組織が保護の代わりに個人に求めるものである。
“本”の血があの少年に作用しているのなら、むしろ何もない方がおかしいのだから。
ハック・ダックは震える子供を前にあぐねていた。
中断させた方がいいだろうか。
精神的に崩れて立て直せないようでは、本末転向になってしまう。
『……リタイアするかの? 』
ハック・ダックが考えた矢先、賢者がそう口にした。
『わしは止めんぞよ。これからは自己判断も大切じゃろう。親のように世話を焼いてくれる者もおらんでの、自分で限界を判断することも大切じゃ。ハック・ダックも責めはしまいて 』
「………でも……」
晴光は、上目づかいでハック・ダックを見た。ハック・ダックは、無言で頷いて見せる。
「……もうちょいだけ、待ってください」
小さな声で、絞り出すように晴光は言った。目を丸くしたのはハック・ダックの方だ。
(逃げないのか)
『……ハック・ダックよ、この修羅場に何をにやにやしておる』
「おっと」
ハック・ダックはそっと口元を手で覆った。
晴光は立っているだけで、戦う様子はまだ見せない。けれどまっすぐに、あの影を見つめて向き合っている。
“恐怖”と向き合っている。
根性ある若者を見ているほど、清々しいものはない。ハック・ダックは緩む口元を抑えきれなかった。
(これは兄ちゃんじゃない)
自分に言い聞かせる。
立ち上がれば、晴光はこれを見下ろせる。影は目線だけは逸らさない。晴光を恨めしげに見つめ、時々名前をつぶやく。ちょっと聞いたことがあるような口調と声で。
(……そういう、ものなんだ)
そう思うと、恐怖の次に怒りのようなものが浮かんできた。
これは名誉を傷つけることだ。
エセだ。贋作だ。パクリの偽モンだ。それも被害者は文句一つも言えないときてる。
聖は英雄だった。
晴光にとって揺るぎ無く英雄だったはずなのに、どうしてこんな形で現れる。こんなお化けみたいな姿で、“あきら兄ちゃんです”なんて名乗ってもらったって、晴光は納得しちゃあいけなかった。
晴光は、体の横で拳を作る。
――――自分は情けない。
(強くならねえと)
その瞬間だった。
黒い影が背中から膨れ上がる。
ずぶずぶと粘着質な音を立てながら、膨れて、弾けて、また膨れて、を繰り返しながら大きくなっていく。
「ひ―――――っ! 」
(“恐怖”の形が変わった)
目を細め、ハック・ダックは一歩踏み出した自分の脚を、壁際に戻した。
(……形が定まっていない)
ということは、晴光の中でも“恐怖”の形が明確ではないということ。経験不足からくる未熟な精神だからなのだろうが、吉と出るか凶と出るか。
“能力”が殻を破り、出現しさえすればいい。鍛えるのはこれからだ。
「戦え! 晴光! 」
「――――へっ!? 」
「形が変わったンなら、殴るでもなんでも出来んだろうが! 戦え! じゃなきゃ終わらねえ! 」
「―――――わ、わかった! 」
晴光は強く拳を握る。
引く。
押し出す。
がつん!
「―――――ぃいってぇぇええッ! 」
「馬鹿! そんな殴り方があるか! 」
黒いものはゆらゆら揺れて、どんどん大きくなっていく。やがて、にょっきりと股が割れ、のしのしと歩き始めた。晴光は慌てて後ろへ逃げる。
「ええい! 何でもいいから、自分が得意なモン思い出してみろ! そうすりゃ武器は自然と出てくる! 」
「ぶ、武器ったって、おれスポーツはそこそこだけど、それ以外は……あっ」
ひとつ、あった。
晴光が手にしたことがあって、今まで忘れていた明確な武器。
「ひひひひとつありますけど! でも! どうしたら出てくるんすか! 」
「形だとか色だとか思い出せ! そいつを使うイメージだ! 」
「またこの人マンガみたいなこと言ってる! 」
『案ずるな! 出力は全開まであげちゃるぞい! その気なればいとも簡単に出るはずじゃ! 』
からげるほどに疾走する晴光は、それでもなんとか“それ”を思い出そうとする。何せ、小学校までの記憶だ。それからは晴光はどんどん大きくなってしまって、進学したのもあってやっていない。
(えーと、イメージイメージ……)
あの頃は子供用の短いそれだったが、本来ならばその長さは、晴光の身長よりも頭一つ以上も高い。それにしても重さは軽く、確か一キロも無いはずだった。日本のものは世界で一番長くて軽いのだと、師範代は言っていた。
背筋はまっすぐ。左で持ち、右で引く。
晴光は走る。……距離を取らなくては。
晴光の実家、誠光寺の語源は、弓の的の一番中心『正鵠』からきている。かつてあの地で暴れた妖怪を、とある武士が一発で射殺した。その武士はあとあと出家して寺を建てただとか、そもそも武士では無くて僧だっただとか伝説の仔細はまばらだけれども、つまりそれらが誠光寺の成りたちであると街の歴史書にも書いてある。
その伝統は今は地元の神社の方に受け継がれ、晴光も手頃な児童として参加していた過去がある。
……馬は、無いけれど。真似だけなら。
晴光はたっぷりの距離を取ると立ち止まり、その場で仁王立ちになった。
首は横に、両手のこぶしを左の耳の前で、貝のように合わせる。
(ただの弓じゃあだめだ。それこそ妖怪を倒せるくらいのやつ)
冷や汗がびっしょりと背中を伝っている。(出来なかったら、出来なかったとき! )
キリキリと、とびきり重い弓を引く。
背筋はまっすぐ、左手は直線状に、矢は地面と平行。爪先は外。右手は耳のあたり―――――。
「おおっ! 」
ハック・ダックは、思わず五歩六歩と前に進み出た。煙のように白くゆらめくものが、晴光の手に握られている。「ありゃあ―――――弓かっ!! 」
「ふうううぅぅぅぅぅぅぅ………」
長く息を吐く。体の奥がかっかと熱い。
「ふうぅぅぅぅぅぅ………」
熱い吐息が顔の周りで渦巻いているよう。その熱気は見えない想像の中の矢に巻き付き、帯のようになびく。
――――まっすぐ飛ばなくてもいい。
支える腕が震えだす。いつのまにか空想の弓は、霞のように不確かでも、小枝のように細く見えても、確かに質量を伴ってその手にあるが、晴光は気付かない。
(ひい……ふう……みいっっ!! )
矢は放たれた。
雉の矢羽が赤いものを纏って軌跡を描く。鏃は吸い込まれるように、“恐怖”の中心へ――――――
―――――――当たる手前で、真っ赤に燃え上がった。
「ええぇっ!!!? 」
「そんなのありかよ! 」
『……ま、能力検査はこれで修了じゃな。良い良い。これからじゃ』
『ほっほっほっ』笑いながら、精霊賢者が台座に戻ってくる。翁が戻ったと同時に、あの黒い影はお役御免とばかりに空に消えていく。
晴光はそれを呆然と見上げながら、ぽかんと口を開けていた。
「雨 飲み干せば鉄の味がして」