第八章 第三幕
「なぁんだとぉ!!」
突如放たれたジラザの大声に、周囲の人々が思わず一斉にこちらを振り向いた。
「おい華瑠、そりゃあ本当か!!」
「ちょっとシショー、声大き過ぎヨ、皆こっち見てるヨ」
華瑠は恥ずかしさに顔から火が出そうだったが、勿論ジラザはそんな視線などお構い無しである。
「あんの野郎、本当にこのレースで負けたら鴻鵠士辞めるなんて言ったのか!!」
あまりの騒音に耳を塞ぐ華瑠の肩をむんずと掴み、ジラザは彼女の身体をぐわんぐわんと揺らした。まるで強く揺すれば、別の真実が零れ落ちるであろう事を信じて止まないかの様に。
「ヨ~、シショー、ちょっと落ち着いてヨ~! 首が、首がもげちゃうヨ~!」
身体を前後に思いっ切り揺さぶられながらも、華瑠は何とかジラザを宥めにかかるが、その勢いは一向に収まる気配を見せない。
「これが落ち着いてられるかってんだ!! あいつ、とんでもねぇこと言い出しやがって……」
そこでジラザは漸く華瑠の肩を離し、苦々しげな顔で、上空を駆けるルティカを睨みつけた。
――あんの、馬鹿姪っ子が!
華瑠もまた、この事をジラザに言うべきかどうかは迷っていたのだ。だが聞いてしまった以上、そして口止めをされていない以上、ジラザに報告をしない事は、義に反するとの考えに行き着いたのだった。
そう、厳密に言えば、華瑠はルティカから直接話を聞いた訳では無い。
『お前、本当に今日のレース負けたら、鴻鵠士辞めるのか?』
ルティカの言葉に相槌を打ったのであろうバラクアのその声が、たまたま華瑠のネイバーに飛び込んできたのだ。
「シショー? ルーちゃん、今日勝てるかナ? 勝てるよネ?」
そう不安気に呟く華瑠に対し、ジラザは唸りながら首を振った。
「……分からん」
困惑した頭にふと、ルティカの母であるテレアの笑顔が浮かんだ。それは、長く病に伏せっていた妹が、珍しく元気に笑っていた日の光景だった。
『ねぇ、聞いてよ兄さん。ルティカったらね、やっぱり大きくなったら鴻鵠士になりたいんですって。まだ誰にも内緒だよーって、教えてくれたの。ふふ、やっぱり、あの人の子ね……。危ないお仕事なのよって説明しても、絶対なるんだって聞かないの。やっぱり、あの人の子ね……。私も調教士の端くれだもの、空に憧れるあの子の気持ちも痛い程分かるわ。だから、出来るだけ長く応援したいとは思ってるんだけど、あの子が自分の鴻鵠に乗って空を飛ぶ姿は、多分見れないんだろうなぁって、薄々分かってるの……。だからね、兄さん。もしも、もしもね、私に何かあったその時は、調教師として、あの子の事、どうかよろしくお願いします……』
それは、ジラザが絶対に断れない願い事だと分かっていたからこその、微笑みだったのかもしれない。
じわりと零れ落ちそうになる涙を無理矢理止める為、ジラザは自身の頬を両手で思いっきり叩いた。バシンッ、と言う激しい音が周囲に響き、悲しみの涙は見事に引っ込んだ。ところが今度は、ヤケクソの馬鹿力で叩いた痛みのせいでじわりと涙が零れそうになる。これを、奥歯を噛み締める事で何とか堪える。
「シショー! 今度はどうしたヨ!」
一人で暴れるジラザの姿に動揺した華瑠が、心配のあまり泣きそうになっている。
じわり涙の連鎖が止まらない。
「何でもねぇよ!! くそったれ、俺に相談も無しに勝手な約束しやがって! 言ってやりてぇ事は山程あるが、とりあえず、ルティカはレースが終わったら、げん骨だ!」
拳を硬く握り、遥か上空のルティカ達を睨みつけ、吠え狂った。
「くぉっらぁあ、お前らぁ! 負けたら承知しねぇからなぁ!! 死ぬ気で勝てぇえええええ!!」
響き渡った大音声は、華瑠だけに止まらず、周囲の人々にも、思わず耳を塞がせる程の勢いだった。
レースは佳境を迎えていた。
9番リングから11番リングに差し掛かった時に、運良くルティカ達に対し追い風が吹いた。その風に乗り勢いよくレベル5の位置まで上昇し、12番リング直前で再び、バラクアはその嘴のすぐ先にレベの尾羽を捕えた。
風読力は、ルティカの方が上だろう。
だが鴻鵠士としての技術は、ベートの方が上だろう。
12番、13番リングと連続で潜り、二頭は編隊を組んだかのように連なったまま、先程と同様に地面すれすれのレベル1の位置にある、14番リングへと向かっていく。
「ルティカ、どうする?」
一周前のチキンレースが頭を過ぎったのだろう。問い掛けるバラクアの声には、僅かに懸念が含まれていた。が、それに対しルティカは小さく呟いた。
「大丈夫、このまま行って。出来ればもっとスピード上げて、後ろじゃなくて横に並んで欲しい」
冷静な指示だが、一周前の状況を鑑みれば、それはそのまま地面に激突しかねない、あまりに無謀な指示にも思えた。
しかし、バラクアはその言葉に対し、動揺も聞き返す事もしなかった。ルティカの指示通りに直ぐさま翼を限界まで畳み、無抵抗に落ちていった。。まるで重力に引かれる一滴の雨粒のように。
落下速度はグングンと上がり、そしてついにバラクアは、レベの隣へと翼を並べた。
とてつもないスピードの中、地面はどんどんと迫ってくる。だがしかし、力が均衡している様に見えるレベとバラクアには、能力の上で一つ大きな違いがあった。
バラクアは、パストを使う事が出来ないのだ。
本来パストとは、ナーゼルの試合ではよく使われるが、リングの多いルーゼンの試合では滅多にお目にかかれない、珍しい代物なのだ。その為に、パストを使う事の出来ないルーゼンの鴻鵠は勿論多く、寧ろC級でパストを使えるレベの方が希少であり異常とも言えた。
バラクアもそんな数多の内の一頭である。つまりバラクアには、レベの様にパストで減速を行うと言う選択肢を選べないのだ。
14番リングと地面が、瞬く間に近づいてくる。
これぞまさにチキンレース。
もしバラクアが先に減速をし、レベの後ろに回ったならば最後、四周目の二の舞になるのは必至だろう。故にこの我慢比べにおいて、後塵を拝する事は即ち敗北を意味する。
だから引けない。
引けるはずが無い。
目も眩む程の猛烈なスピードを受け、顔中の肉が、風圧で後ろへと引っ張られ続ける。もし一手でも判断を謝れば、その結果は目も当てられないだろう。隣り合わせに寄り添って来る死の影すら、不気味に優しく感じる程の距離にいる。
そんな極限状態の最中にも関わらず、ルティカの心中は、まるで鏡のように自身を映す水面の如く、穏やかに凪いでいた。
――もうすぐ、このレースも終わるんだな……。
そんな当たり前の事が、ルティカの心に不意に感傷的に響いた。
風を切る轟音もどこか遠い。そうして次第にルティカの耳は、必要最低限の音以外寄せ付けなくなっていった。
集中力。
それも、辣腕の鍛冶屋が全霊の力を込めて打った、一点の曇りすら感じられない程に研ぎ澄まされた刃の様に、鋭い。
その刃の煌きは、彼女の瞳にも反映される。
ルティカの視界に移る世界は、水中と見紛うばかりに緩やかに流れ、このまま地面に柔らかく着地出来そうな程だった。
その時、隣を飛んでいたレベが、堪らず先に減速をした。ギリギリの我慢比べに打ち勝ったルティカの視界から、緋色の翼が消えた事で、彼女の目にはもう、斜め前方のリングと地面しか映らなくなった。
レベとベートの判断力からして、彼らが減速をしたポイントが、恐らく限界地点なのであろう。だが、ルティカ達は危険を承知の上で、更にその先へと一歩踏み込み、このレース中初めて、ベート達の前を行き、トップへと躍り出た。
しかし、迫り来る地面までの距離はもう幾許もない。まともな減速や旋回では、最早激突は免れない。会場中の誰しもが悲惨な事故を予見し、咄嗟に目を背けた者もいた。
だが次の瞬間、ルティカは満面の笑みで大声を張り上げた。
「バラクア! 翼開いて!! 思いっきり!!!」
まるでルティカの咆哮が分かっていたかのように、バラクアは即座に縮めていた闇色の両翼を、一斉に広げてみ見せた。
風の抵抗を翼全体で受け止める事で、バラクアのスピードに急ブレーキがかかる。
だが、地面までの距離が足りない。
減速が追いつかない。
危険を冒し、限界まで攻めの姿勢を見せたルティカ達だったが、あまりにも無謀に攻め過ぎた。減速は間に合わず、バラクアの巨体はそのまま猛スピードで、地面へと激突してしまうであろう……、筈だった。
バラクアが翼を広げて減速を開始した正にその刹那、猛烈な強風が、会場の地面の底を攫い上げ、ルティカ達を下から上へと吹き飛ばさんと襲い掛かってきたのだ。
そう、それは四周目に、バラクア達を遥か上空へと吹き飛ばし、レベ達のレース復帰の一助を担った、あの風だった。海風とビル街の風が交じり合う故に起こりうる、フィオーナのレース場独特の上昇気流が、再びレースに波乱を巻き起こしに出現したのだった。
活火山のマグマの如く、激しく地面から噴き出たかのようなその強風は、地面へと叩きつけられる寸前であったバラクアの身体から、遥か上空へと強引に、その猛烈なスピードを根こそぎ吹き飛ばした。
ルティカは、瞬間的に上を見上げた。
我慢比べに負けたベート達が、気流に飛ばされていく光景が視界の端に映る。
スピードの呪縛から解き放たれたバラクアは、そのまま地面に軟着陸でもするかのように、レベル1に位置する14番リングの前で、軽やかに浮かび上がった。
「バラクア!!」
「おう!」
ルティカの力強い咆哮に、バラクアが呼応する、
忽ちの内に翼を翻し、激しい勢いのまま14番以降のリングを連続で潜り抜けていった。
15番リング。
現在、トップ。
16番リング。
ルティカ達の前には、もう誰も居ない。
17番リング。
勝利は、もう目前だ。
18番リング。
――勝った!
ルティカが思わず拳を握り締めた、その時だった。
「まだです!」
ルティカのネイバーに、ぞっとする程の力強い声が聞こえてきた。
ふと気がつけば、彼らのすぐ横、狭い範囲の音波しか受信しない筈の、レース用のネイバーに音波が届く程の近距離に、その声の主は、緋色の翼を貫禄たっぷりに広げて飛んでいた。
ルティカの奥歯が強く噛まれる。
当然の事ながら、レースはまだ終わってはいないのだ。
太陽の羽と闇色の羽が再び並ぶ。
二頭の鴻鵠は、ほぼ同時に18番リングを潜り抜け上昇した。
19番リングへと向かう間際、ほんの僅かだが、レベがリングの内側を通り抜け、それによって再びバラクアはレベに先を行かれてしまう。
鴻鵠士としての技術は、ベートの方が上……。
それがこの土壇場で、微かな、だが確かな距離となって出てしまったのだ。
バラクアは、心の中で強く強く願った。
――風よ! 頼む! 今、もう一度だけ!! 俺達の為に吹いてくれ!!!
だが、バラクアの懇願も虚しく、19番リングを通り抜けた時には、バラクアは再度、レベの尾羽を拝む事になってしまった。
最後の20番リングへと、二頭が連なり飛んでいく。
バラクアがレベの尾羽を睨みつけた、その瞬間、そのギリギリの瞬間に、レベが颯爽と羽ばたき方を変えた。
その瞬間にバラクが理解出来たのは、レベが自分達に対し、パストを放ったのだろうと言う、ぼんやりとした事実だけだった。
駄目押しの一手。
正に万事休す。
このスピードで、この距離で、このパストを回避する術は無いだろう。
完璧主義の坊っちゃんらしく、ベートは最後の最後まで気を抜かずに、攻めの姿勢を貫いて来た。
断言出来る。
今回のフレイク杯は、今までのレースの中で、最高のレースが出来た。持てる限りの全力を出す事が出来た。だが、それでも、一歩及ばなかったと言う事なのだろう。
――ルティカ、すまん……。
心の中で、バラクアは思わずそう呟いていた。
しかし次の瞬間、そんなバラクアの耳に、
「バラクア!」
唐突に、ルティカの声が飛び込んできた。
「一度だけ、思いっ切り羽ばたいて!!」
自信に満ち満ちたその声に、バラクアの身体は自然に反応した。無我夢中のまま、自らの翼が一度だけ大きく羽ばたくその光景を、まるで他人事の様に眺めていた。
前方から後方へと、闇色の翼が流れていく。
羽ばたきの最中、バラクアの身体はレベが起こしたパストの気流に突入していった。乱れた気流の為か身体が傾き、バラクア自身、バランスを崩したと思っ至った刹那、コバルトブルーの巨体は、くるくると猛スピードで回転を始めた。
まるで拳銃から撃ち放たれた弾丸の様に、バラクアの身体は回転したまま直進し、パストで減速したレベを鮮やかに抜き去って、トップで20番リングを潜り抜けていった。




