三話 曇天の夕暮れ
誰も居ない教室の隅で、独りうずくまっていた。
あの後のことは、よく覚えていない。手に携帯も無いし、大方投げ捨てて逃げ出したのだろう。
……あの時も、こうして薄暗いところで独り……だったっけなぁ……。
曇天が街を包む黄昏の頃、廃墟と化したビルの一室で、蹲る少女が居た。
シトシトと降る雨が割れた窓から入ってきているせいか、体感温度は大分低く、まだ幼い彼女は寒さと恐怖に身を震わせることしかできなかった。
だが、どんなに怖くても何も言わないし、絶対に泣き喚いたりなんかしない。そんなことをすれば、殴られ蹴られ……運が悪ければ殺されるかもしれない。
殺気だけでも恐ろしいのだ、無駄に怒らせたくはない。
「コイツで金稼げるってホントかよ?」
「ああ、金持ちの小娘だからな。上手く行きゃ、一生遊んで暮らせるぜ」
「ついにこんな生活ともおさらばだ!」
少女がこんな廃墟で震えている大本の原因である3人の誘拐犯達は、少女の見張りをしながら、そんな最低な会話を繰り広げていた。人間は、やはり全うに働いて稼ぐのが1番である。
と、その時だった。
「あ、ああああぁぁぁああっ!!」
「や、やめろおぉぉっ、うああぁぁあ!!」
男の絶叫する声が、その場に居た全員の鼓膜に突き刺さった。ビルの外からだろうか、姿は見えないが、さして遠いわけでもなさそうだ。
「なっ、なんだ!? 誰の声だ?」
「もしかして…、外の見張りの奴らの声じゃないか? もう俺たちを捕まえに来やがったか!?」
「久野家の奴らは、このガキがどうなっても良いのか?」
どんな絶叫マシーンに乗っても絶対に出せない叫び声に動揺した男達は、早口に驚愕や疑問を述べる。様子を見に行こうにも、あまりに苦痛に満ち溢れた叫び声のせいで誰も動けない。彼らの仲間からは何の連絡も入らず、誰1人喋らず、叫び声が響く。
そして、5分程が過ぎた頃、 絶叫は何時しか途絶え、静寂が場を支配していた。
だが、その静寂は突然開かれた扉によって破られる。
扉を開けたのは、長い黒髪の女だった。
少女は涙で少し視界が霞んでいたため、少し離れた位置に居る彼女がどんな顔かはわからなかったが、白い着物を着て、人形を引きずっているのは見えた。
「あ、あぁ…こ、こいつ…」
少女よりも入り口の近くに居て、それなりの視力がある男達は、女の姿を見た途端あまりに凄惨な光景に、固まってしまった。
少女が人形だと思っているそれの正体は、先程まで共に惨めな生活から抜け出そうと誓い別れた、外の見張りの男だった。
彼は、鼻がへし折れて頬と額にばっくりと真っ赤な傷が開き、片腕は引きちぎれてもう片腕の指の数は2本しかない。両目は言葉に表すのは困難な程ぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、血や目玉の成れの果てが頬を伝い、地面にドロドロの液体が小さな水溜りを作っている。
足は見るも無残に抉られて、露わになっている肉の間に白い骨が見え隠れしている。
引き摺られた所為でボロボロになっている服のみが、コレが彼らと仲間であったことを示していた。
そして、男は改めて女を見つめた。
ボロボロの着物はかつては真っ白だったのであろうが、今は古いものから真新しい血まで、まるで元から縫われている柄のように良く生えている。
長い黒髪の間から僅かに覗く片目は釣り上がり、丁度、彼女が引きずっている物と同じ赤い目だ。
顔中に酷く醜い古傷があり、体中に包帯を巻いている。包帯は相当古い物のようで、所々変色し、血が染み付いていた。
「……が、醜いか?」
ぼそりと、女が呟く。
「え……?」
1人が聞き返すと、女はさっきより少しだけ、はっきりと言った。
「私の顔が、醜いか?」
「ひっ……あぁ……、」
言いながら先程まで引きずっていた物を投げ捨て、男達の方へと歩み寄ってくる。
何か言おうにも、恐怖のあまり情けない声しか出ない。
そしてその頃、涙が乾き始めた少女は、やっと状況を理解しつつあった。
人形だと思い込んでいたグロテスクな物体に、吐き気が込み上げ始める。
女が自分を救出しに来た訳ではなさそうだ。父の家の人や警察は、こんな風に人を殺さない。
逃げ出そうとも考えたが、女も男達もたった1つしかない出入り口の方に居るので、もうどうしようもなかった。
これ以上何も知りたくない、と目を硬く閉じ、耳もしっかり塞いだが、男達の絶叫が聞こえ始めると、恐怖からは逃げられないと思い知った。彼女の頼りない手では、音をシャットアウトすることは到底不可能だったのだ。
……どれぐらいの時間が経っただろうか。
聞くに耐えない男達の絶叫が途絶え、少女は恐る恐る目を開けた。
女は、真紅の瞳でこちらをじっと見つめている。その視線にどんな感情が込められているのか、本来ならば、幼い彼女には到底理解できるはずはなかったし、それは大人とて同じだろう。
人ならざるモノの感情を読もうなどと、絶対に不可能だ。
しかし、少女はその瞳に宿された感情を理解した。
何故、どうやって、なんて尋ねられても、彼女は答えられないだろう。
女と同じような境遇、立場に居たからこそ、視線を交わすだけで少女は女を理解できたのだ。
少女は、幼いとはいえども小学三年生…いじめがあっても可笑しくはない年齢である。
いじめの内容は、やはり小学生らしく幼稚な物であったが、どちらにしろ酷い内容の物であったし、小学生のか弱い少女には辛い物がある。
だから、立ち上がった。
だから、逃げなかった。
……だから、命を投げ捨てた。
「……お姉さん」
少女は、女に向けて喋り出す。
「……」
女は、少女が一体何のために語るのか、わからなかった。
「お姉さんは、きっと、私と同じような人だと……思います。……私を殺して下さい。私、あいつらの所為で自殺したりするのは、屈辱なんです。だから、殺して下さい」
よく通る澄んだ声で、彼女は女に語りかける。
先程まで顔は恐怖で歪んでいた筈なのに、何時の間にか少女の表情は、どこか清々しい物になっていた。
てっきり少女は女は何も答えてくれないだろうと思っていたが、その予想は外れた。
「……同じような……人、だから、私はお前を殺さない」
初めて、女は口を開いた。
その言葉は、少女の頼みを断る物であり、彼女なりの優しさでもあった……かもしれない。
「え……そんな……あっ、待って下さい!」
もうここに用は無いと言わんばかりにスタスタと部屋を出て行く女。
追いかけようとする少女だが、足はちっとも動こうとはしてくれなかった。
「っ……な、なら! 私、お姉さんみたいになります! 強くなります! 絶対絶対、誰にも負けないくらい、強くなります!」
女の背中に向けて、精一杯叫ぶ。それでも彼女は止まることなく、もう後数歩で少女の視界から消えるというところまで来た時。
不意に、女は立ち止まって……振り向いた。
何かあるのだろうか、と不安になる少女だが、女は全くもって予想外なことをした。
……彼女は、笑った。
人ならざる気配を纏う彼女が、笑ったのだ。
その笑顔は、人間のそれと同じ……いや、それよりもずっと綺麗だった。醜い傷があるにも関わらず。
そして次の瞬間、女は……消えた。
フッと、まるで落書きを消しゴムで消すかのように。
そして、少女……久野悠も、消えてしまった彼女に答えるように、微笑んだ。
あれから、何年も経った。
私は彼女のような強さが欲しくて、護身術を護衛の人からを習い始めた。
口も達者になり、クラス替えが行われた時は初対面の子達にも明るく、社交的に話しかけ、毒を吐くこともしばしばであった。
そうするうち、"私"は"俺"になった。
その方が、すごく毎日が楽しかった。まだ幼かったあの頃の俺は知る由も無かったが、彼女は"ひきこさん"という有名な都市伝説であることを、二年前に知った。
それを知ってからというもの、私はひきこさんの噂を聞くたびに舞い上がったものだ。
……だが、それも終わる。
都市伝説に救われた命を、都市伝説に奪われるとは、何て滑稽なんだろうか。……初めからこれぐらい冷静だったら死ななかったろうに。ああ、死にたくないな。死、だなんて、実感湧かないよ。
やけに冷めた頭で色々な思いを巡らせて、目を閉じた。
…………カタリ
物音がふいにして、思わず目を開ける。
目の前には、どこかへ放り投げた筈の携帯があった。