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私の願いともうひとりの少女

「お」


 ジョウロが声を上げた。

 その細い注ぎ口が向いている方向に首を曲げる。


 ジョウロの視線の先に、ひとりの少女がいた。多分私と同じくらいだと思われる少女は、必死の形相で水をかき出していた。

 ベランダに入ってきた水をバケツに一杯汲んで、放り投げるように外へ出している。

 あぁ、もうすぐ沈むのだ、と直感した。


 ベランダはもともと高いようだが、もうその突き出た壁は見えない。水が穏やかに波打つたびに、ベランダへと水が入っている。誰の目から見ても、おそらく明日までもたないということは容易にうかがい知れただろう。


「かわいそうに。あの子、泳げるのじゃろうか?」


 のんきな奴だ。

 私は無言でそちらへと方向を変え、力を込めてオールをこいだ。


「お? 助ける気なのかの?」

「当たり前じゃん。見捨てるの?」


 疑問に疑問で返すと、ジョウロが注ぎ口――つまり顔――をこちらに向けた。


「じゃが、何も今までにあの子だけが死にそうだったわけではないぞ。現に何人もが沈んどる。一日一回の警察のパトロールで、体は回収されておるがな」


 そう言われても、何も言い返せなかった。現実にそうだ。テレビで沈んだ家の映像が映るたび、ぼんやりとした目で見つめていた。


「……でも、見捨てるわけにはいかないの」


 強く言うと、ジョウロは肩をすくめるようにカランと鳴った。


 ボートをベランダの淵ギリギリに止め、声を張り上げた。ベランダの内側に水がざぶんと入ってしまった。


「乗れる?」


 少女が顔を上げた。涙と水に濡れたその顔は、どこかで見たような気がした。

 そうだ、クラスメイトだ。授業でのボイスチャットでしか話したことがないが……。


「うん」


 目元を袖でぬぐい、しゃくり上げながら少女は答えた。


「何か台を持ってきて。ひっくり返っちゃうから」

「わかった」


 少女が部屋に戻り、分厚い漫画を重ねて数冊持ってきた。そして、それを足場にベランダをまたぎ、ボートに乗り込んでくる。


「ありがとう……」


 少女はびしょ濡れだった。


「その子の家族はどうするのじゃ? この小さなボートはこれでいっぱいじゃぞ」

「う……」

「大丈夫。もう誰も家の中にはいないの。いても、生きてないの」


 少女がまたしゃくりあげ始める。


「もともと私たちのボートは小さかった。三人乗れば沈んでしまうようなボートだった。それで、私とママが乗ろうとしたの。そしたら、パパが乗ってきて、ママを沈めて、私を置いていった」


 ベランダからボートを離しつつ、少女の話を黙って聞いた。

 沈んでいく人々は誰もが必死だ。例えそれで父親が逃げ出せたとしても、食料は尽きる。そう思うと、すべてが虚しく思えた。

 もう、いつ沈んでもいいじゃないか、と思った。


「それは大変な思いをしたのぅ」

「きゃっ!」


 突然しゃべりだすジョウロに驚いたようだ。少女がびくんと跳ね上がった。と、ボートが揺れる。


「ちょっと、ジョウロ!」

「おぉ、すまんすまん。……ワシはジョウロじゃ。今こやつの願いを叶えてやるために一緒に散歩してやっている」


 ジョウロは簡潔に自己紹介を済ませた。敵意がないことを伝えると、少女のこわばった表情がいくらかほぐれた。


「願いを叶えるため?」

「ああ。こやつの願いならば、何でも叶えられる」


 少女がこちらを見つめたので、こくりと頷いた。


「すごい……! ねぇ、お願いして。私たちが生きられるっていうお願いして!」


 オールを持っている手を掴まれ、揺さぶられた。

 そういえば、願いをまだ決めていない。


 ――私たちが生きられるという、保証の願い。


「叶えられるんでしょ!?」

「まぁな」


 少女が笑顔になった。

 そして、ほっとしたような顔で私を見つめる。


「一緒に助かろうよ」


 私だって、助かりたかった。

 できれば死にたくない。

 誰だって死にたくないよ。そんなの。当たり前じゃん。

 でも私たちだけで生きられるの?


「みんなで助かってもいいよ。みんなで助かろうよ」

「そうじゃな、そんな願いも叶えられるぞ。お主らが今よりもずっと高いところで暮らせるようにしてやろう」

「ほら、ああ言ってるじゃん」


 助かる?

 みんなで助かる?


「助かるの?」


 生き続けるの?

 この水浸しの世界で?

 なんで。


「助かるよ」


 少女は満面の笑顔だった。

 ひとりぼっちなのに。


 ちゃぷん。ボートの脇腹を、小さな波が叩く。


 それが教えてくれたようだった。

 それが与えてくれたものは、頭の中で波紋を起こし、何もかもがどうでもよくなってしまった脳みそに染みていった。

 まるで、この街を沈めようとしている水が入ってきたようだった。


「私のお願い決まったよ」

「よし、言ってみろ」


 ゆらりゆらりと揺れるボート。

 私はよいしょという声と共に重い腰を上げた。


 深く深く、歪んだ下界。それは水と呼ぶにはあまりにも綺麗すぎて。


 町外れの、空がよく見えるところで。

 お腹いっぱいに空気を吸い込んで、いつもより大きく口を開けた。

 そして、遠くにいる誰かを呼ぶように、声を張り上げた。


「なんで!?」


 少女は目を見開き、悲痛な叫びをあげる。

 一方、ジョウロは。


「――その願い、聞き届けたり」


 微笑むように、カランと鳴った。

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