私の願いと散歩
食べ終わって一息ついて、早速ジョウロの救出作業に取り掛かる。
ちょうどいいことに、ベランダにはプラスチック製の布団たたきが立てかけてあった。
叩く方を持って、もう片方の柄の方をジョウロに差し出す。
「……まさか、掴まれとか言うんじゃなかろうな? 手とかないからな?」
「引っ掛けるのよ」
ジョウロの持ち手の部分が水面から浮いていたため、その穴に柄を引っ掛けた。そして、まるで魚でも釣り上げるように柄を後方に振り上げる。
ジョウロはガシャンとうるさく鳴り、ベランダに着地した。
「がさつじゃなぁ。まぁいいのじゃ。さ、願いを叶えてやろうかの」
ジョウロがひとりでにぴょこんと起き上がり、カラカラと鳴る。空き缶を蹴飛ばしたときのような音だった。
もうここで驚いても今更、という感じだが、動いてしゃべれるジョウロだとは。ひょっとして、もうジョウロは動ける時代なのかな。いや、そんなわけないか。第一ジョウロを発達させるほど水に困ってないし。
とかそんなことを思いながら、ジョウロをながめた。
少し錆びた、ブリキのジョウロ。縦に細長い、変わったデザインだ。中に水が入っているのか、動くたびにわずかな水音が聞こえる。
「今度はお試しじゃないからの。何でも良いぞ。金銀財宝、イケメンの彼氏、永遠の命、世界征服と何でもござれじゃ」
楽しそうに言うジョウロの動きは踊っているようにも見えた。
「何でもいいの?」
「おう! さ、はやく言うのじゃ」
なんでも叶うのか。
前から願い事だけはたくさんあったはずなのに、なかなかピンとくるものがない。
叶うのはひとつだけだ。
「あ、さっきのように願い事を百個叶えろとかはダメじゃからの。十個とか二十個とかに変えてもダメじゃぞ」
「わかってるよ、うるさいなぁ」
「まっ……。なんて生意気な娘じゃ」
金銀財宝。イケメン。それでもいいけど。
ひとつ願ったら何も叶わなくなってしまう。
私の願いは。
「……散歩しながら決める」
「優柔不断な娘じゃのぉ。じゃが散歩はワシも好きじゃからな。よし、行こう」
私は一旦部屋に入り、窓を閉めた。
「なっ、閉め出す気かの!?」
「着替えるのよ」
ガンガンと窓を叩くジョウロを無視して、カーテンで外の景色を遮った。
オールを漕ぐ。
それの繰り返し。
単調な作業に見えて、重労働。近所への移動手段はもはやボートしかないのだ。
「……いくらでも水が飲めるな」
ジョウロが皮肉っぽく言った。
「透明だけど、飲んじゃダメ。って、ジョウロなら大丈夫か」
十年前くらいに、街が沈み始めた。
でももうすべて後のこと。
私が大きくなって、小学校へ上がる頃には、もう水浸しの生活が当たり前になっていた。
それからパソコンで授業をやるようになって、テストを受けるようなシステムになった。いまだに、クラスメイトの顔は画面の中でしか見たことがない。
小学校の頃使っていた教科書も鉛筆ももういらない。それがなんとも悲しかった。
ボートの淵から顔をのぞかせてみた。
透明な鏡越しに見える、沈んだ建物たち。緑色の藻が風に吹かれるように漂っている。
沈んでから、建物は更に上へと伸び始めた。
沈まないように、上へ上へ。
水が上がってくるたび、上へと逃げ続ける。
いつの間にか、空が見えるスペースは少なくなってきていた。
「あのさぁ、いつ地球は沈むの?」
ジョウロに聞いてみた。
ジョウロは考えるように黙ってから、つぶやくように答えた。
「さぁ。じゃが、そのうち沈むじゃろ。ま、今は食べ物があるとしても、人工地面で作れる植物はわずかじゃから、沈み切る前に滅ぶか沈んでから滅ぶかじゃけどな」
寂しそうな、諦めたような、深い溜息のような声だった。
答えることもせず、オールを漕ぐ。
お金を持っている人は上へ行った。逆に言えば、お金のない人は沈んで行く。
この空まで届きそうな高い高いビルたちは、人間のランクのようにも思えた。そんな中を、進んでいく。
ただなんとなく、街から離れたいと思った。
いつ沈んでしまうかわからないこの街から。
多分そう遠くない日に、みんなも、そして私も沈んでしまうのであろうこの街から。
「私、どんな願い事をするのが一番いいの?」
「願いに正解も不正解もないのじゃ。本人が正解だと思ったらそれで正しいのじゃろうし、逆もまた然りじゃ」
ふーん、と素っ気なく答える。
私はお金持ちになりたい。さっきみたいな豪華な食事を毎日食べたいし、将来に気を病むことなく遊んで暮らしたい。そしたら幸せなのだ。たとえそれがつかの間のものだとしても。
「どこまで行くのじゃ?」
ジョウロが退屈そうに呟いた。
「願いが決まるまで」
願い事は、今日決まるような気がしていた。