沈みかけた街とジョウロ
必ずうまくやってみせる。
今度こそ、私たちは。
物心ついた時、この世界はすでに沈みかけていた。
年々その水は上がり、とうとううちの一階も沈んでしまった。
それから世界はどんどんと沈み続けている。
そんなある日のこと。
朝。カーテンを開けると、待ってましたと言わんばかりに白い日差しが差し込んできた。鳥のさえずりの代わりに、一階の天井が水に叩かれる、ちゃぷちゃぷという音が聞こえる。
床の防水加工が義務付けられ、去年うちもその工事をした。今のところ水は染み込んできていないが、その音が聞こえるたびになんとなく不安になる。もうすぐ水がやってきてしまうんではないだろうか、と。
その水音に混じって、こつん、と小さな音がした。
かちゃん、だったかもしれない。とにかく、小枝とかではないようだ。
畳一つ分の狭いベランダに出て、その外側に身を乗り出した。
透明に歪んだ下の世界。
その小さい波間に、ブリキのジョウロが揺られていた。
「おぉ、そこの」
くぐもった声が聞こえて、あたりを見回す。
「どこを見ておる。ここじゃ、ここ」
再びジョウロを見下ろした。
「そうじゃ、ワシじゃ。ぼけっとしてないでさっさと拾い上げんか」
ジョウロが喋った。
ジョウロって喋るものだっけ。
違うような気がする。
「……は?」
「そっちの対応にむしろ『は?』なんじゃが。最近の子供は冷たいのぅ……」
なに、あれ。絶対怪しい。
私の中の危険判断装置……略して理性は、それを危険なものだと判断した。
「こらっ、もどるな! 待て、ちょっ、わかった! 助けてくれたら願いをひとつ叶えてやる!」
そんなこと言ったって無駄だ。問答無用でベランダから自室に上がり、サッシに手をかける。
「本当じゃ! 大人の言うことは信じろ!」
「じゃあ、なんか証拠見せてよ」
「……証拠?」
ベランダの向こうから間抜けな声が返ってきた。
「願いを叶えられることを証明しろっつってんの」
ぶっきらぼうに返事をする。
「なんだ、そんなことならお安い御用じゃ!」
打って変わって明るい口調。
とりあえず考えてみた。……ジョウロがしゃべっているのはどうやら本当らしいが、一体どんなトリックを使っているのか、について。
「お試しで願いを一つ叶えてやるぞ!」
「……願いを百個叶えて」
「な、ななななんて強欲な娘……! そんなのダメじゃ! 女の子なんじゃからもうちっと軽い願いにせい」
軽い願いってどんなもんだよ。
出しかけた言葉を、ため息にして口から漏らした。
「ちょっと考えさせて」
「それが願いか?」
「そう認識してもいいよ。ただしずっとそこに浮かんでてね」
「い、今のはちょっとふざけただけじゃ!」
願い。
私の願い。
頭を使っていると、下の方から『ぐぅ』と聞こえた。
――そういえば、お腹すいたな。もうお昼だもんな。
時計を見れば、もう二時すぎ。今日は休日だから、十二時近くまで寝て過ごしてしまった。朝から何も食べてない、お腹がすくのも当然である。
ちゃぶ台の書置きを読んだとおり、父さんと母さんが買い出しから帰ってくる気配はまだ、ない。道路が使えなくなったゆえ、買い出しには時間がかかる。ボートを漕いでいかなくちゃならないし。
あれはなかなか重労働で、すぐに腕が疲れるのだ。
「高級料理をお腹いっぱい食べたい」
両膝に顎を埋め、ぼそっと呟いた。
「オッケー!」
嬉しそうなジョウロの声がして、それから変な呪文が聞こえた。
「ちちんぷいぷい、それーっ!」
……なんて子供騙しな……。
私は生まれてから一度も食べたことがないフルコースを半ば諦めつつ、この水浸しの地面をまるごと映したような青い空を仰いだ。
不意に鼻腔をくすぐる美味しそうな匂い。
幻を幻覚というのなら、幻聴というのなら、これはどう表現するのだろう。……幻嗅?
ただ一つ言えることは、お腹がすいていることのみだ。
視線を落とした。
ベランダに、大小様々なお皿に乗った見たこともない料理が並べられていた。
「えぇっ!?」
「信じてくれたかの?」
キャビア、フォアグラに鳥の丸焼き。どこぞのテレビ番組で見たことしかないような豪勢な料理が、そこに並んでいた。ご丁寧にナイフとフォーク、スプーンまで添えられている。
思わず口の端から垂れかけたヨダレをすすった。
「食べていいの? お金無いからね?」
「ワシはそんなに卑しくないぞ……。いいから早く食べなさい」
「毒とか入ってないよね?」
「入れてない入れてない。そんなん入れたら怒ってワシを助けてくれんじゃろう」
「いや、その前に死ぬから」
手前にあったスープの平たい皿を取り、その淵を口につけようとしてから少し考えて、大きめのスプーンを取った。
湯気の立つスープを一口すくい、口に注ぐ。
「……美味しい……」
それからは警戒心というものは消え失せていた。次々と料理を口に運ぶ。空きっ腹なのも重ねて、それらはとても美味しかった。
「美味しいじゃろう、信じたじゃろう」
「うん、めっちゃ信じた!」
「めっちゃ? ……まぁいいや、さっさとワシを助けてくれ」
ベランダの外で、またちゃぷんと聞こえた。