表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

夢の湊短編集

失せ物探し


 雨上がりの夕暮れ時。

 男は無言で歩いている。

 目的はある。しかし楽しいものではない。連れはいない。自然、不機嫌を顔に描くことになる。

 男の抱えるのは、知り合いの口利きできた失せ物探しだ。依頼人は憔悴しきり、侍者を一人連れて地味ななりやってきた。身につけた上等な品を見受けたとたん訳ありを感じたが、一応の礼儀として話を聞くうち、ますます嫌な気分が募っていた。

 とはいえ、いまの男には選択権を云々する余裕がない。

 男のなりわいは楽師だ。まともならば支給の楽器で宮仕えをしているはずだ。

 だが、いまは副業ばかりで糊口をしのぐほかはない。

 裏の稼業に持ち込まれる話には曰くがあるのが普通だ。

 万策尽きて藁をもすがる目と対すれば、すがられた藁としてもいささか断りづらいというものだ。

 折しも貧乏長屋の家賃督促にいまにも頸を締めあげられようかという瀬戸際で、男はけっきょく、依頼をひき受けざるを得なくなった。

 おかげでまたしても、暗い隧道に潜り込むように、残された淡い手がかりを求めている。

 いまにも途切れそうなそれを辿ってゆき着いた、その場所の空は低く、黄昏れたように藍くぼんやりとして、どこもかしこも一段沈んだように静かだった。

 それまで男が歩いていたのは、北に宮城をのぞむ都の煩雑な下町だったはずなのに。

 たどり着いた場所にそこはかとなく覚えのあることに、男はげんなりとする。

 ここが目指していた場所ということになるのだろう。

 かすかに水の匂いのするそこへ、男はしょうことなしに草履の足を踏み入れる。

 生ぬるく、うすら影の落ちる界隈を男は好んでいるつもりはない。しかしそこを漂い、巡り歩くうち、男の勘は鋭さを増してくるのだ。

 そして、細心の注意を持ってたぐり寄せた細い糸の、先が指し示す所を嗅ぎ当てる。

 今日もまた、男は一つの戸口の前に辿り着いていた。

「……しようがねえなあ」

 呟きながら、入り口に手をかける。

 音もなく戸が横に滑り、ぽっかり空間が開ける。

 視界はまだぼんやりしている。ものの輪郭と影の区別もつかない。

 それでも、男の眼にはそこが出発点とまるきりおなじ、広くない一膳飯屋の店内と映る。

 鼻先にすうと気配がかすめ、男は何者かと対峙する。

 当たりだ、と勘が告げる。

「あー、娘さん?」

 発見した腰掛けに腰を落とした男は、注意をひくために声をかける。

 顔をあげて当てずっぽうに笑って見せる。

「あんた、飯屋の娘さんだよな。俺、いま失せ物探しの途中なんだけど、ちょこっと腹がへってきて喉なんかも渇いてきちゃったりしたんで、ここらで休んでもいいかなと思うわけだ。そういうわけだから、何か出してくんないかなあ?」

 応えは目の前の気配ではなく、別のどこかから割れた低い声音で返ってくる。

「出してもいいが、おまえさん、お代をきちんと払えるのかい?」

 疑わしげに問われた男は、暫し笑ってごまかそうとする。

「あ、でも俺、いま懐が寂しいんで」

「フフフ、いいよ。おまえさん、楽師だろう。銭の代わりに別のものでいただこう」

 含み笑いとともに言われて男はふうと溜息をつき、背中から担いでいた荷を降ろす。

 それは棹に弦がきりりと四本張られた大切な男の商売道具で、これだけはいつも身から離したことがない。

 ところがこの場でみたそれは、男の馴染みとは完全に異なるものだった。

 変貌を遂げたそれを膝の上に固定しながら眺めて溜息をつく。

 見るほどに立派な代物だ。細やかな螺鈿の装飾も品があって見事なものだが、拵えそのものからして男の持ちものとは格が違う。

 極上品だ。

 男のゆびはたまらず弦をつま弾いている。

 ほれぼれするような音色が、じめついた空気にさえよく響いた。

「これはスゲエな。それじゃあまあ、しようがねえやな弾いてやるか。何を弾くかな。何がいい? 尻尾を踏まれたネコの歌? 飼い主にいじめ抜かれるイヌの歌?」

 請われるまでもなく、男は歌い出していた。

 ネコの歌もイヌの歌も、タヌキのそれもキツネのそれも、あやかしのだろうと神様のだろうと、なんでもござれだ。調子に乗って次々に歌ってしまう。

 一曲歌うごとに男をとりかこむ気配は濃さを増していく。

 押し黙ってただ存在しているだけだったそれらは、空間全体にひしめきあうようになり、歌にあわせてなにがしかの反応を返しだす。

 自分で言うのも面映ゆいが、座があたたまってきたと男は思う。聴き手は男の音を楽しみんでいる。楽師にとっては、このうえなく素晴らしい瞬間だ。

 しかし、男は至福の時を存分に味わう訳にはいかないのだ。

「なあ、娘さん」

 仕方なく、弦をつま弾きながら、旋律のつづきのように声をかける。

「茶代くらいにはなったろう?」

 目の前の娘――明らかに、若い娘だ――は身を硬くして棒立ちしている。

「喉、乾いちまったなあ」

 歌い疲れたと訴える男に、娘はようやく口をひらいた。

「……なに、言ってるの?」

「だからあ、注文通り茶代代わりに歌を歌ったぞと。食べ物くれるともっと嬉しいぞと」

 娘は眉をはねあげる。

 形のよい眉でかなり気が強そうだ。

「あなたね、ここが飯屋だってどうして思うの?」

「だっておまえさん、どうみても飯屋の小女のカッコだよ? その色気の欠片もないひっつめ頭といい、ぱりっとした前掛けといいな。だったらちょっと茶を出してくれるくらい、かまわねえだろうが。というか、むしろそれはおつとめのうちじゃねえのか。だろう?」

「え……っ?」

 娘をうながして周囲を示すと、そこには夕時の飯屋にふさわしい、ざわついて活気のある光景があった。

「ほうら、な?」

 男は穏やかに笑ってみせる。

「そうだよ。おまえさん、ここの看板娘じゃねえか」

「おいおい、忘れ病ってやつかい」

「まだ若いのに、困ったことだなあ」

 茶化す声が笑いとなってどっと店内が沸き、娘は顔をこわばらせる。

「忘れてなんかないわよ! あたしは、あたしは……!」

 言いさして娘は唇を押さえ、目を見ひらいて凍りついた。

 言葉が出てこないのか、ひどく混乱しているようだ。

「あたし……あたし……」

「待て待て待て。泣くな、泣くんじゃない」

 混じりかける涙に、男は子どもをあやすように宥めた。

「わかってるから慌てるんじゃない――そうだな。こんなのはどうだ――」

 男のゆびが弦を弾くと、ついとひらいた口から言葉が流れ出て、旋律に乗る。

 言葉は、ひとりの娘について雄弁に語りだす。

 とある男に恋をして、身分違いに夜を泣き明かし、焦がれるあまりに想いを告げて、思いがけずに優しくされた。

 有頂天になった娘の他愛のない喜びは、ふわふわと天までのぼってゆきそうになって。それは現実の枠をこえてふくらむ夢物語になって。無分別で無思慮で無鉄砲だがひたすらまっすぐに恋に身を浸しつづける。

 そんな娘の歌を――男は歌う。

「あたし……は……」

 恋する娘は無敵だ。何者にも止められない。忠告も、嘲笑も、嫌がらせすら恋の歓喜の前には霞のようなもの。

 心は喜びで満たされている。姿を見ているだけで嬉しい。側にいられるだけで嬉しい。声をかけられればもっと嬉しい。手でひと触れされれば、その瞬間を思うだけで胸が熱くなる。

 まるで小さな太陽を抱いているみたいに。

 幸せ、幸せ。こんな幸せがあるなんて知らなかった。こんな喜びがあるなんて知らなかった。胸の奥に抱いた太陽はこんなにも娘のまわりを明るく照らしてくれる。

 奇跡のように輝いていた日々。

 おとなしく聴き入っていた娘は、歌が終わる前に混乱からぬけ出したようだ。

 朱い唇から、ぽろりと零れ出すものを、娘はもう留めない。

「あたしは……つう……」

「〈テンマヤ〉のおつう……だな?」

 うんと素直に娘はうなずいた。

 目尻に涙を浮かべた弛緩した表情が、男に次のひとことを躊躇わせる。

 しかし先延ばしにする余裕はない。

「……一ノ街の椿御殿の若様に振りまわされてるっていう噂の、おつうだな」

 案の定、娘は血相を変える。

「振りまわされてるんじゃないわ、若様は嘘はおっしゃらないもの」

「嘘は言わんかもしれないが、本当のことも言わないだろうに」

「そんなことはないわ。若様はいつもお優しいもの」

 優しい男は嘘つきなものだと、言ったところで無駄だろう。

「あんた、いったい何者? なにしにここに来たの? あたしをからかうため? 若様のことを悪く言うならとっとと出てって!」

「そうじゃねえ、最初に言っただろう。失せ物探しに来たって」

「だったら余計に関係ないじゃない、出てって!」

「そうはいかねえんだよ。探し物はここにあるってわかったからな」

「えっ?」

「おまえさん、その若様になにか貰ったろう?」

 娘は不安げに男を見る。

「貰ったんだな」

「でも、あれは……あんたが探してるものとは違うわよ」

「違うかどうかは確かめてから決める。何を貰ったか、教えてもらえねえかな?」

 極力優しく、男は尋ねたが、

「嫌。言わない」

 当然だろう、この状況で言えばどうなるか。子供にだって簡単にわかる。

「あんたこそ、なにを探してるのか言いなさいよ。もしあたしが持ってるものだったら、そう言ってあげるわ」

「だからといって渡してもらえるわけじゃ、なさそうだな」

「あたり前じゃない! これは若様があたしにってわざわざくださったものなんだから。それをどうしてあんたが探してるのよ。百歩譲ってほんとうだったとしても、あんたなんかに絶対に渡すもんですか!」

 娘は眉間に皺を刻み、きつくきつく男を睨めつけてきた。全身に広がる拒絶反応が娘に急激な変化をひき起こす。容貌、声、態度、すべてが尖って剣呑に変容する。

 足下から冷気が吹き出しているように、男は寒気を感じている。

 ああやはり、と思いながら男はさらに問いかける。

「あんた、そんなに若様が好きか」

「好きよ」

「惚れてるんだな」

「惚れてるわ」

「だったらなおさら、その血赤珊瑚は俺に渡しとけ。血赤珊瑚の簪だろう、若様がおまえにくれたって代物は」

「嫌よ。この簪は若様がたったひとつ、あたしにだけくれたもの」

 口にした後で、しまったと娘は顔を顰める。

「若様当人から直接中身を見せられて渡されたんじゃ、ねえだろう。運んできたのは別の奴だ。そして奴はつつんだそのまま手渡した。そうじゃねえか?」

「なんで、なんで知ってるの」

「泣きつかれたからだよ、その若様のお使いに。小女にわたす品物を別のと取り違えちまった。ところが、気づいた時には、小女が品物ともども行方知れずになっていましたとな」

 おまえさんのことだな、と確かめるまでもなく、娘は表情を無くしている。

「どうか早急に見つけてくれと、懇切丁寧に頼まれたわけだ」

 男は口にする台詞に気をつけていた。これ以上、相手を刺激したら面倒なことになる――もうすでに充分面倒になってはいるのだが、だからこそさらなる困難はご免だ。

「おまえさんだってわかってたんだろう? あの若様がどれだけ気前がよかろうと、飯屋の小女にそんな高価な物をやるはずはない」

 娘は黙りこくってしまう。

 やれやれと思いながら、男は暫くの沈黙を置いて口をひらいた。

「ところでおまえさん……なんでこんな所にいる?」

「こんな所……?」

 娘の疑問に問いを変える。

「いや、なんでこんな所に来た?」

 そうだ。その理由を聞いておかなくては。

「おまえさんはどうしてここにいる。簪を見てから何をしていた?」

 その問いは、娘の胸にひとつの石を投げ込んだようだった。

「どうして? どうしてって……どうしてだったかしら?」

 娘の視線が不思議そうに浮くと、這いのぼる冷気が少しだけ和らいだ。

「簪を手にとったおまえさんはどうしたんだ?」

「簪を手にとったあたしは……びっくりしたわ」

「びっくりしたのはどうしてだ?」

「びっくりしたのは、簪があんまり上等だったからよ」

「上等の簪を手にしたおまえさんは、それから何をした?」

「上等の簪を手にしたあたしは、こんなものはいただけないと思ったわ。これは若様にお返ししなくちゃって」

 思ってすぐさま、娘は飯屋を飛び出した。

 八ノ街にある飯屋から一ノ街にある若様の御殿まで、真っ直ぐに。

 下町の娘の住む界隈から離れるにつれ周囲の様子は変化する。

 理由は住人の違いにある。通りを越える度、そこは次第に裕福で気位の高い人々の領域となっていくのだ。はじめの気負いがなくなると、娘には気後ればかりの道のりとなったろう。

 先導されて自分の行動をなぞる娘の言葉は、そのまま男の目の前に現実となって生き生きと浮かびあがる。

 一ノ街に入りこんだ娘の見あげる白塀は染みひとつなく、壮麗かつ広大な屋敷のお上品に居並ぶ通りはだだっ広い。隅々まで掃き清められた新品の清潔さは、古着の娘を場違いと詰る。

 それでも娘は懸命に足を進めたが、思い人の住まいにはなかなかたどり着かず、心細さは増すばかり。

 ようやく椿の紋の掲げられた家屋敷の前までやってきたが、訪問者を睥睨する大きな門扉を前に、取り次いでもらう術がわからない。

 右往左往しているうちに中から人のざわめきが近づき、娘は反射的に端に隠れた。

 そうして、ひらかれた門からあふれ出す人だかりの中央に、ぬけるような肌の女性が見えた。

 錦の衣を身につけたまばゆいようなその貴人の側には、背の高くすらりとした若い男が控えている。

 男の顔に浮かぶのは、娘が間近で幾度も見た笑顔と寸分違わない。

 男に応えて、女の朱い唇の端が品良く持ちあがる。

「女の人は言ったわ。はやくあの品を私にくださいませね。若様はもちろんですとうなずいて、手元に戻り次第すみやかにと約束したわ」

 娘の声は嗚咽混じりになっている。

「……あの血赤珊瑚はすでに貴女のものですって……」

 息を殺して見守る娘に、その姿は一度も会ったことのない他人のようだった。

 女性のなよやかな白い手を取り、うやうやしげに何事かを囁く、親しみにみちたふたりの風情に、娘はついに居たたまれなくなった。

「見なければよかった、行かなければよかった、頭の中でくり返しながら走ったわ。あそこはあたしの居場所じゃなかった。若様はあたしとは縁のない人だった。わかってたのよ。でもわかってなかった。わかりたくなかった。もうなにも考えられない、考えたくもない。なのに浮かぶのは若様とあのひとのことばかり。とてもお似合いだった。きっとあたしよりもずっと。おつきあいがあるんだわ。祝言を挙げるのかもしれない。いいえ、きっとそうに違いない」

 胸の中で心臓が破裂しそうに鳴りつづけ、視界は濡れてゆがんで大きく揺れつづけ、どこをどう走っているのか、男にもわからなくなってくる。

 ただ、男に言えるのは、感じる水の気配が急に濃さを増しているということだ。

「そんなら今まであたしはなにをしていたの、若様はなにを考えていたの。わからない、わからない。どうしてあたしだったの、ほかの誰でもよかったの、遊びだったの、暇潰しだったの、なにが面白かったの。わからない、わからない、わからない……」

「おいおい、落ち着け。落ち着けったら」

 娘が闇雲にうごかしていた足を止めたのは、男の宥める声を聞いたからではなく、息が切れてしまったのと、懐に入れた簪の先が胸のふくらみを刺激していることに気づいたからだ。

 とり出してみると、手の中のそれはひどく美しく目に映った。

 血赤珊瑚の簪。

 由緒あるものなのだろう。くねるしなやかな小さな蛇が精巧に彫り出され、簪にからみついているように見える。

 まるで男にしがみつく女のようだ。

 てらりと湿って光る質感は、流れる血のように肌にまといつく。

「おつう、それだ。俺が探しているのは。その簪を返してくれ」

 娘は簪を握りしめて、嫌だと思った。

 この簪を誰にも渡したくない。この簪は自分のものだ。

「そうじゃねえだろう。おまえさんはその簪を返しに行ったはずだ。おまえさんにはもっと、おまえさんにふさわしい品があるはずだ」

「嫌!」

 身をひるがえした娘を、男は追いかける。

 何故追いかけねばならないのかと頭は思うが、足は考える間もなく走り出している。

 走りながら、傍観しているつもりがいつのまにか娘の夢の中に入り込んでしまったのだと理解する。

 このままでは危険だ。

「おつう、待て。逃げるな!」

 入り組んだ小路を下駄を鳴らして逃げていく、娘の背中は泣き叫んでいる。

 まともな声は聞こえない。

 だが響く。痛いと叫ぶ。傷つけられた心が、ずきずきと血を流して疼く。

 男はそれでも娘の後を追う。

 追わなければ見失う。そうなれば、自分も帰り道がわからなくなる。

 このままでは娘とふたり、運命をともにしなければならなくなる。

「待て、走るな。危ねえから止まれ!」

 その時、行く手のどこかから別の声が飛んできた。

「その簪がないと若様が困るんだ!」

 いったい誰だと憤慨するが、かわりに娘がふり返り、何事かを訴えはじめる。

 娘の目に映った景色と聞こえるやりとりに男は不審を覚えたが、事実を確かめている余裕はない。

 とにかくこの隙に娘を捕らえようと必死になる。

 ところが、あと少しで手が届くという時に、湿ったものがばさりと男の顔に覆いかぶさってきた。

 行く手を阻むやたらとじめつく何かをひき剥がそうとすると、それはしとどに濡れた柳の枝だ。

 水を含んだ葉の重みにしなだれた柳は、吸いつくように絡みつき、離れない。

 大股で無理矢理に前進しながら視界を確保しようとあがいたすえ、男は遠ざかろうとする娘の背中を目のあたりにした。

 その先には、雨上がりに水量を増してどうどうと流れる大川だ。

「馬鹿野郎っ、なにしてやがるっ……!」

 前方に飛びこもうとする娘の帯になんとか指先が届いたそのとき、男の足が踏んでいたのは宙だった。

 勢いのまま、もろともに落下する。

 水面に叩きつけられた衝撃とともに、激しくあがる飛沫が視界を埋めつくす。

 男はぐんぐん沈んでいく。

 水中は暗く冷たく泡だっている。口を閉じる暇がなかったため、すぐに息が苦しくなる。

 頭蓋の暗がりでは娘の叫びが未だ反響をつづけているが、一時の痛みをともなう強さではなくなっている。

 入れかわりに、娘が胸に抱いていたであろう希望と夢が、流れとともに男の肌に染みこんできた。

 お天道さんに照らされた明日の夢は、決して実現しないとわかってしまった、愚かで哀しい夢となり、小暗い流れの中に儚く消えてゆく。

 男は流されながらなおも手探りで娘を求めた。

 だが、始めになにかがひと触れ掠めたあと、ゆびは虚しく水を掻くばかりだった。

 ――おつう。

 ――戻ってこい。

 ――このまま流されたら、もう……戻れねえんだぞ。

 精一杯の大声を発しているつもりだったが、返事は返らない。

 もう、手遅れかもしれない。

 もっとも、戻れなくなりそうなのは男もおなじだ。

 落ちてからまだ一度も底に足がつかない。もしや底無しかという不安が募るうえ、流れはかなり速いようだ。おまけに男は泳ぎが達者ではない。

 現に川面まで浮かびあがることはできるが、そのあとが続かない。水中にひき戻されてふたたび苦しみを味わうことの繰り返しだ。

 ついに肺腑の中にまで冷たく泡立つ液体が流れこんできて、いよいよ命運が尽きたかと観念しそうになった。

 そのとき、めくら滅法うごかしていた腕の片方を何者かが掴み、ぐわっと水中から乱暴にひき抜かれた。

 体を折って咳きこむ男に呆れた声がのんびりと降ってくる。

「いきなりどこへ行くのかと思ったら、馬鹿な真似をしておいでだねえ」

 一膳飯屋で聞いた、あの声だ。

「わかっておいでかい。この川をこのまま流れてくだったら、おまえさん、一巻の終わりなんだよ。それこそほんとうのお陀仏ってやつだ。もしもそれを望んでたってんなら、余計な手出しをしたってことになるけれど」

「いや……助かった。感謝する。礼を、しなけりゃならねえか?」

「礼はいらないよ、おまえさんにはいつも楽しませてもらってるからねえ。もしどうしてもっていうんなら、またこっちに来て、歌っておくれよ」

 男はごくりと唾を飲みくだす。

 そんな約束は冗談ではないと思いながら、それを口に出す勇気はない。

「そうだな……もう一回くらいなら」

 低い声の持ち主は、底知れぬ闇の中から冷え冷えとした笑いを楽しげに響かせる。

「嬉しいよ。ここらのもんはみんな、あんたの歌を心待ちにしてるんだ。きっとだよ。待ってるからね」

 フフフフ、と呟く声が大気を震わせる。

「おまえさんの楽器はここに置いとくよ」

 フッと、視界が暗転し、濡れそぼった身に冷たい風が吹きつける。

 薄墨を流した空には、雲間から白い月が煌々としている。

 男は、高い天を見てようやく自分は戻ってきたのだと実感した。

 その後、男の報告を受けた依頼主が大川端を捜索した結果、行方不明だった娘の土左衛門が発見された。件の簪も川底を浚った末に見つかったらしい。

 椿御殿の若様の縁談は立ち消えになったようだ。

 日当たりの悪い長屋の一室で昼寝を決め込んでいた男の元に遣いが訪れたのは、そんな噂話もたち消えようかという昼下がりだった。

 若様の侍者を名乗る青年はひとり現れると、景気の悪い顔色のまま、そそくさと男に謝礼の包みを差し出した。

「ああ、あんがとよ」

 言いはしたものの、包みには手をつけないまま、男は懐に片手を入れて暫く青年を眺めていた。

 不躾な視線に青年は居心地が悪そうだ。

「いかがなされましたか?」

「いや、おまえさんの顔、見覚えがあるなと思ってな」

「こちらに伺うのは初めてではありませんから」

「それはそうだな」

 不審そうな視線をよこして立ち去ろうとする青年の背中に、男は呟いてみる。

「ま、いいさ」

 青年は怯えた一瞥を残して足早に遠離っていった。

 娘のまなこが最後に見た景色に、確かにあの青年が映っていたといっても今更のことだ。

 あのとき娘の言葉は聞き逃したが、

「その簪がないと若様が困るんだ。婚約する先様の要望でわざわざとり寄せた逸品なんだ。もう一度用意するあてはない。結納までになにがなんでもとり戻さないと、破談になってしまう。おまえは若様がそんなことで恥をかいてもいいと言うのか」

 怒鳴り脅しつける青年の声は聞こえていたのだと言っても、もう取り返しはつかない。

 つまりはそういうことなのだろう。

 飯屋の娘が行方不明になった裏には、若様がくれた最初で最後の証を、誰にも捕られたくないという娘の気持ち。

 それだけではなく、焦りと悋気にとらわれていた青年の存在があったのだ。 

 男は、娘の記憶の中のあの青年の行為にうっかりと嵌り込んでしまい、娘がなんとか留まっていた境界の最後の一線を越える一押しをしてしまったというわけだ。

 男は溜息をついた。

 これだから嫌なのだ。あちら側に関わるのは。

 どう転んでも、後味が悪くなる。

 異能があろうが無かろうが、男は探し屋ではなく楽師でありたいと願っている。

 たしかに、あそこで歌うと客に受ける。

 歌って喜ばれるのは本望だ。

 とはいえ、問題なのはあそこの聴衆はとうに人ではないだろうと思われるあたりだ。

 もしかすると、自分の歌が受けるのは人外相手にだけなのかもしれない。

 そんなことを考えはじめると、さらにどん底へ真っ逆さまである。

 返してもらった楽器は、元通りの安物に戻っていた。

 どのみちこちらには存在できない品なのだろうが、一度でも手にした身にはなんとも口惜しく、そのことがまた哀しくも阿呆らしくも感じられて力が抜ける。

 男は目の前の金子を手にして、しばらく逡巡していた。

 窓から入る陽は傾き、ふたたび黄昏の時が近づいている。

「……しようがねえなあ」

 男はまたしても溜息をつくと包みを懐に入れる。

 やはり、酒でも喰らわねばやっていられない。

 そうして茶屋へ繰り出そうとした男が大家と鉢合わせした結果、井戸端で長屋中の憐憫を浴びるようになるのは翌日の事である。〈了〉

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ