しぇいも!-過去回想1
「何もかも忘れて、過去を消して、一からやり直せるなら、それでもいいのです。だけれど、それはできません。そんな都合のいい世界は存在しない」
目を伏せながら、そう告げられる。
「だから俺は、無理に忘れろとは言えません。だけれど、あんな奴らにいつまでも囚われていて欲しくないのです。貴女を裏切った奴らのことで、心が支配されていて欲しくないのです」
「あんな奴ら」を思い出した彼は、苦虫を噛み潰したような表情で語る。
「あんな奴らに、そんな価値はない。貴女が苛むことなんて、何一つないんです」
慰めてくれているのだ。不器用な彼なりに、精一杯慰めてくれている。初めて会った頃は、見下すような、興味がないような、そんな冷たい視線を投げかけていた彼が、今、私を心配している。彼が本気で心配していることは、手に取るように分かった。けれど。
「ありがとうオリヴィエ。でも今は、ちょっと1人になりたいんだ……」
少しだけ笑顔を浮かべてそう返すと、彼、オリヴィエは口をきゅっと引き結んだ。そして小さく「はい」とだけ零し、一礼して部屋を出て行った。
オリヴィエの居なくなった部屋はとても広く感じた。オリヴィエだけじゃない。いろんな人が居なくなった。その現実に居た堪れなくなり、ふっと窓の外に視線をやると、ぽつぽつと雨が降り始めていた。往来をいく人々の足取りが早まる。
「何もかも忘れて、か……」
愛しているだの囁きながら、結局は財産目当てだった婚約者。そんな婚約者は止めておけと言っておきながら、実はその男とデキていた友人。母を一番に愛していると言いながら、外に愛人を作っていた父。私や母に好かれようと、愛人という立場を隠しながら優しい女性を演じながら近づいてきた女。そんな女の意図を見透かしながらも、知らない振りをし我慢し続け、ついには倒れ、帰らぬ人となった母。
私が小さい頃は、普通の円満な家庭で、友人たちとの関係も良好だった。けれど、誰もが家族や友人という型にはまる前に、1人の身勝手な人間だった。年を追うごとに比率は変わっていき、ついに「家族」から「同じ家に住む人間」に、「友人」から「利用する人間」になった。
私にも責任の一端があった。成功した商家の娘としてきっぱり人間関係を分けることができず、昔の友情関係をずるずる引きずった。母が辛い立場にあるとわかっていたのに、母を連れてどこへ行くこともできなかった。今まであったものが壊れるのが怖くて、身勝手にも、目をつぶり続けた。その結果、より多くの物が壊れた。オリヴィエは彼らが裏切ったと言ったけれど、全てが全て、彼らのせいだったわけではない。
「一から……」
一からやり直せたら、どれだけ素晴らしいか。もし一からやり直せたならば、もうこれ以上深く人と付き合うことはしない。家族も持たない。誰とも関わらない。それでいい。そうすれば、何も、誰も、壊れる必要はない。だがそんな都合のいい世界は存在しない。
「……馬鹿だな、そんなこと考えても仕方ないのに」
存在しないものに想いを馳せるなど、時間の無駄だ。思わず自嘲の笑みを零し、窓の外にやっていた視線を外す。
明日、しばらく顔を合わせていなかった幼馴染が会いに来る。きっと我が家に関する色々な噂を聞いて、心配になったのだろう。彼に会うのは本当に久しぶりだ。貿易業に従事し忙しい身の彼が、わざわざ時間を取って会いに来てくれる。必ず家に居ろよという電話に、ちゃんと待ってるよ、とおどけて返したのは、つい先日の事。
「何か、お菓子とか、あったらいいよね」
彼も何か手土産を持ってきてくれるだろう。けれど自分も何か用意がしたい。壊れることなく続いている数少ない友人に、感謝の気持ちを示したかった。そうだ、最近覚えたクッキーを焼くのはどうだろう。材料は使い切ってしまっていたが、今から買いに行けばまだ間に合うだろう。そうと決めれば行動は早い。本降りになる前に出かけなくては。
「オリヴィエに……は、別にいいか」
1人になりたいと言った矢先に、一緒に買い物に、とは言えない。それに店は歩いてすぐそこだ。わざわざ付いてきてもらう距離ではない。幾ら私専属の従者とはいえ、彼には彼の仕事がある。
「すぐだから、大丈夫だよね」
財布を肩掛け鞄に入れ、バッとレインコートを羽織り、玄関ホールへ一直線に向かう。
まさか帰るころには予想外のどしゃ降りになり、交通事故に巻き込まれることになるとは、この時誰が予想できただろうか。
**
飛び込んだ病室には、ベッドに横たわる幼馴染の姿があった。駆け寄ると呼吸はしていたが、意識がなかった。サラリと自分の黒髪が彼女の顔にかかったが、それでも彼女の反応はなかった。
「突然の出来事に、気を失ったようです」
スリップして歩道に突っ込んできた車から避けようと、彼女は反射的に車とは反対方向へと倒れこんだ。車がハンドルを思いっきり切ったため、直接彼女にぶつかることはなかった。そのおかげで彼女は擦り傷程度で済んでいた。しかしその車が突っ込んだ場所のあまりの惨事に、彼女は気を失ってしまったという。昨日のその事故で、少なくとも2人が亡くなったらしい。
「頭は打っていないようなので、脳への後遺症などはないはずです。ですが……」
なぜか一晩経っても起きないという。医師は、疲弊してぐっすり寝ているだけかもしれない、もう少ししたら起きるかもしれない、そう言って病室を出て行った。それと代わるように、見たことのない男が紙袋を抱えて入室してきた。ワイシャツに黒ベスト、金色の短髪の、自分より少しだけ背が低い若い男。警戒して睨むこちらと目が合った男は、ハッとなり、ぺこりと頭を下げた。
「初めまして、お嬢様の従者をしております、オリヴィエと申します」
その容姿と名前は、幼馴染から電話でよく聞かされていたものだった。
「……そう、君が」
「はい。……失礼なことをお聞きしますが、カキ様で、宜しいでしょうか」
「私がカキだよ。連絡を、ありがとう」
彼女が事故にあったと真っ先に連絡してくれたのがこのオリヴィエという男だった。従者と言うだけあって、彼女の予定や、懇意にしている人間をしっかり把握しているようだった。そのおかげで、自分はいち早くこの場に来れた。
「いえ……俺が、お嬢様を1人で、」
「今はやめよう」
「っ……はい」
彼はしゅんっとうなだれ、視線を彷徨わせる。彼も自責の念に駆られているのだろう。それは自分だって同じだった。たった1日、たった1日早く着いていれば、こんな事故に巻き込ませることはなかったのに。
「……早く目覚めておくれ。お土産を沢山持ってきたんだ……」
ソッと彼女の頬を撫でる。この時は、医師の言うように、すぐに彼女が目覚めるとばかり思っていた。
**
幼馴染が一向に目覚めないとの一報を受け、多忙を極める兄妹が呼び出された。
「忙しいのに、すまない」
「俺達にとっても大事な幼馴染ですから」
カキに招き入れられ、白髪の青年はスッと足を運び室内に身を収めた。入口付近に控えるオリヴィエには目もくれず、ベッドに横たわる彼女の側に歩を進め、そっと額に掌を当てる。そしてその手の甲に己の額を付け、ゆっくりと目を閉じた。しばし沈黙が落ち、彼はゆっくりと目を開いた。
「見つかりませんね……リタ、代わって」
手と額を離し、彼は後ろに控えていた妹に場所を代わるように指示を出す。リタと呼ばれた白髪の少女はコクリと頷き、兄と場所を入れ替わった。
「右手を彼女にあてていつも通り潜ってください。ただし左手は俺に貸して。君が道を開いてる間に、俺が探します。いいですね?」
「はい」
リタは先ほど兄がしたように、彼女の額に掌をあて、自分の額を重ねてゆっくり目を閉じた。サラリと長い白髪が揺れ、彼女の胸の上に落ちる。リタの左手を取った兄もまた、ゆっくりと目を閉じた。
「……あれは、何をしているんですか?」
訝しむように、だが邪魔しないように小さな声でオリヴィエがカキに尋ねた。兄弟の背を見つめていたカキは、オリヴィエに視線だけを寄越した。
「彼らは私と同じ、彼女の幼馴染だ。ただ職業が特殊で。聞いたことないか? ユメミだ」
ユメミ。その単語にオリヴィエは目を丸くした。ユメミとは、相手の夢の中に潜り込み、心理を解き明かし日常生活の改善に手を貸したり、果てはその夢を操作し心理的に深刻な影響を与えたりする、特殊な能力を一生の生業とする者達。極僅かしかいないユメミは、とても貴重な存在として扱われていた。大事に扱われる事で、各々自由に、――善としても悪としても、――商売をしているのがユメミだった。一般的な生活をしていれば、滅多にお目にかかることはない。それが今目の前で、大事な主人の夢に潜り込んでいた。
「安全、なんですか」
初めて見るユメミに、オリヴィエから思わず疑問の言葉が漏れる。
「彼らは私達の幼馴染だからな。危険な行為はしない。それは保証する。これで夢の中の彼女に会えれば、何故起きないのか分かるはずだ……」
真剣な顔で彼らの行為を見守りながら、カキは説明する。
「……これは困りましたね」
しばらくの沈黙の後、ぼそっとつぶやきが零された。白髪の青年が目を開き、リタもまた身を起こして手を離していた。
「どうだったリクト。会えたのか」
リクトと呼ばれた白髪の青年は、ゆるりと後ろのカキを振り返り、苦い顔をした。
「居ました。夢は見ているようです。けれど、会えてはいません」
「居るのに会えない? 夢の中の、家の中にでも居るのか? ユメミのお前なら突破するのも容易いだろう?」
「家程度のものなら、何の苦労もしません」
ガリガリと頭をかき、リクトは深く深く溜息を吐いた。リタもまた、渋い顔をしていた。
「何があった」
「……川が」
「川?」
「……その夢に川があったならば、決して川の先に行ってはならない。これは、善き行いをするユメミ悪しき行いをするユメミ問わず、ユメミと肩書きが付く者ならば、絶対遵守しているルールです」
「なぜダメなんだ。川の向こうに、居たんだろう? なら、行けばいい」
「できたらそうしています」と不機嫌に言い放って、リクトは口を引き結んだ。そんな兄に代わってリタが口を開いた。
「……夢には、様々な意味があると言われていますよね。空を飛ぶ夢は解放や性的欲求を表すとか、下へと落ちる夢は不安や恐怖を表すとか。私達はそういう事も、多少頭に入れながら仕事しています。その中でも、私達が特に気に掛けているのが、水の存在です。特に、川」
真剣な表情のリタに、カキもオリヴィエも黙ってその続きを聞く。
「川はあちらとこちらを分離するモノとされています。川の手前はユメミが侵入を許された、浅い夢の世界です。私達はそこに潜ることで、心理を解き明かしたり、夢を操作したりします。その反対に、川の向こうは、奥深く、侵入が許されぬ場所とされています。故に私たちは川の向こうをこう呼んでいます。「自我世界」と」
夢の中に川がある場合、ユメミたちはその向こうを自我世界と呼ぶ。それはこれ以上この先に、自我に入ってくるなという、無意識の内に行われている強い防衛の意思表示である。
自我とは脆い一方で、とても強い側面を持つものとされている。他人の自我世界に足を踏み入れれば、どちらの自我がどうなるか分からない。相手の自我が強い拒絶を表しはじき出されるかもしれないし、こちらの自我が相手に影響されて崩れるかもしれない、その逆もあるかもしれない。その先は、未知数である。故にその夢に川があるならば、決して先へと足を踏みいれてはならない。
それがユメミのルールだと、ユメミの兄妹は言う。
「じゃあ、何も、出来ないのか……!」
ギリギリと拳を握りながら、カキが吐き捨てる。黙りこくるリクトとリタに、もう彼女を起こす術は断たれたかと思われた。
「ですが、川の手前には、行けるのですよね?」
沈黙を裂くように落とされた呟きは、黙って話を聞いていたオリヴィエのものだった。その呟きに、リクトが眉をしかめる。
「行ってどうするんです。川の向こうにはいけないんですよ」
「いけないなら、来てもらえばいいのでは?」
「お前、何言って、」
素っ頓狂と思えるその提案に、思わずカキが口をはさんだ。だが、当のリクトは「なるほど」と予想外の反応を返した。
「その手が」
「!? できるのか!?」
カキが驚いた声を上げると、リクトはこくっと頷いて見せた。
「出来ないわけではありません。先ほど潜ってみたところ、彼女は自分が夢の中に居ると気付いていないようでした。ですから、川のこちら側に出てくることに抵抗はないはずです。今川のあちら側に居ただけで、タイミングによってはこちら側に来ている可能性もあります。無理矢理起こすのは危険ですから推奨できませんが、会話するくらいなら可能なはず」
もう手が無いと諦めていた雰囲気が、僅かに浮上した。しかしリクトが「ただ、」と付け加える。
「そのタイミングを見計らうわけですから、常時貼りついていなくてはいけません。そうなると、夢の中で彼女の行動を見張る為のサポートが1、2人欲しいですし、それだけの人間を一緒に連れて潜るわけですから、疲弊する現実の俺の身体をサポートする人間も1人欲しいです。人手が要ります。ですから、」
「ちょうど4人ですね」
リクトの言葉を遮ってオリヴィエがはっきりと告げた。この場に居る健康な人間は、オリヴィエ、カキ、リクト、リタの、全部で4人。4人を見まわした後、しっかりとリクトを見つめてくるオリヴィエに、リクトは彼が何を考えているのか気付いた。
「ちょっと待って、まさか、君が一緒に潜るつもり? 普通はそこで現実のサポートに手を上げるでしょう」
「優秀なユメミは、ユメミ以外の人間を連れて潜れると風の噂で聞きました。でしたら一緒に潜るのはリタ様でなく、俺でも構いませんよね? リクト様は優秀なユメミでいらっしゃるとお見受けしました」
「いやいやいや、なんでそうなるんですか……そもそも誰かも知らない君をどうして連れて行けるんです、カキならともかく。カキが何も言わずに室内に入れてるから何も言わなかったけど、そういえば誰なんですか、君は」
ずっと知らぬ人間と会話していたリクトは、間抜けにもようやっとそんな質問をする。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。お嬢様の従者をしております、オリヴィエと申します」
深々と頭を下げるその姿は、きちんと躾けられた立派な従者以外の何者にも見えない。
「あぁそういえば従者が出来たって聞いたような……」
頭を抱え、リクトはうんうん悩む。彼女とオリヴィエの関係は決して悪くなかったように聞いていたはずだった。だが、良かったのかまでは覚えていない。そんな人間を一緒に潜らせるのは、どうなのか。
しばらく考えたあと、リクトは半ばあきらめ気味に頭を抱えていた腕を払って腰にあてた。
「とりあえず、こういうのは早い方がいいですから、潜る事自体は決行しましょう。ダラダラ考えてもしかたありません。長丁場になると思うので、他の仕事をキャンセルします。謝罪は任せましたよ。で、君を連れていくかどうかは君の素性を俺が改めてからです。彼女が起きない原因を探るためにも、話を聞きたいですしね」
前半はカキに、後半はオリヴィエに告げる。カキもオリヴィエも心得たとばかりにしっかりと頷いて見せた。
「では彼女を一旦自宅に戻しましょう。こんな狭くて物がない場所では、これ以上はどうにもできませんから。リタ」
リクトの呼びかけにリタは「はい」と返事をし、そそくさと病室を出て行った。
「リタはどこに?」
リタを視線で追って、カキが尋ねた。
「一番偉い人のところに。患者を勝手に連れ帰るのはよくないでしょう? だから、是、という答えを貰いに行ってもらいました」
どんな手を使うかは知らないが、是以外の答えを貰う気はないと、リクトは暗に言っている。悪い笑みを零すリクトに、オリヴィエがリクトは本当に善きユメミなのかと疑わずにいられなかったのは言うまでもない。
夢の解釈については、夢分析以外の様々な解釈もまぜこぜにしているので必ずしも一般的な夢分析と一致しません。あしからずご了承ください。