キトルは、
まさかとは思うが、キトルもそういう類の人間なのだろうか。見た目は紳士なのに気にする風もなくセクハラしたり、優しそうに見えて刺青だらけでさらりと下ネタ発言したりする、そういう類の人間なのだろうか。
「俺はそういう類の人間ではないと告げておく」
「うっわキトルさん!」
私にお茶を出した後、リビングの電球が切れているからとファソンが倉庫に行っている間に、私はお向かいさん家の1階部分を探検していた。勿論ファソンの許可は下りているし、頂いたお茶は全部飲んで茶器は洗っておいた。しかし冷蔵庫を覗いている後ろから、突然第三者に声をかけられるとは思わなかった。それも心の声に対する返信として。このお向かいさん家の人々は、どうしてこうも背後から現れないと気が済まないのだろうか。私は精一杯「後ろから現れないで下さい、心を読まないで下さい!」と抗議する。すると呆れ顔をしたキトルに「冷蔵庫に顔突っ込んでる相手に前から声をかけろと? それとな、口に出ている」と指摘された。おっと、確かにその通りである。
「いつまで冷蔵庫で涼んでいるんだ、電気代が嵩むだろうが。閉めろ」
キトルに襟首を掴まれて引き戻される。傍から見ていれば冷蔵庫の中身を確認する主婦そのものだったろうに、キトルは変なところで鋭い。確かに勝手に涼んでいた私は、素直にパタン、と冷蔵庫のドアを閉めた。キトルは呆れ顔のまま、「それと」と話を戻す。
「俺は世間一般ではエスと呼ばれているだけだ」
「って、それ十分キャラ濃いですよね!?」
思わず「マトモじゃないですか」と納得するところだった。この流れでそんな暴露がされるだなんて、幾ら私でも予想できなかった。
「心配するな、半ば合意に至らなければしない」
「半ばってなんですか! 完全に合意してくださいよ! 他の2人より凶悪じゃないですか!」
「相手の意向を半分は聞いているのだから、セクハラや下ネタ発言とは違う類だろうが」
マシなのだろうか。それはマシなのだろうか。だめだ、この家の人と関わっていると、常識が常識と思えなくなる。
「ち、因みに、どのような内容ですか……?」
わが身の保身のために、聞きたくはないが聞いておく。何か対策が取れるかもしれない。キトルは私の前で腕組みをして仁王立ちをしたまま何か思案しているようだ。やはり聞いてはいけなかったのだろうか。あまり濃すぎて昼間から言うのが憚られるような内容なのだろうか。ならば私は自らの精神的健康の為にも聞かない方がいい気がする。私は背中を冷蔵庫に預けたまま、やっぱりいいです、と言おうとした。だがそれより早く、キトルが口を開いた。
「実践すればわかるだろ」
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キトルは首元から斜め右下へとボタンの付いた白い上着に、黒いスラックスのようなズボンを着ている。初めて会った時と同じ服装だ。背は3人の中で1番低いようだが、それでも170はあるだろう。ウェーブのかかった顎までの白髪と、顔の左脇の1本だけ長い3つ編みが特徴の、美青年。あ、目の色って黒だと思っていたけれど、深い群青だったんですね。綺麗だなぁ。
って、いやいやいや、冷静にキトルの容姿を観察している場合ではない。そんな場合ではない。
「実践」発言のあと、軽々肩に担がれたと思ったら、いつの間にやら2階にあがっていて、キトルの部屋らしき所に連れ込まれた。そして何の宣言も無しにボスンッと柔らかい場所に腰から落とされ、今に至る。確認しなくてもわかります、そうですね、ここはベッドです。
「ななな、半ば合意しないとしない、って言ってましたよね!?」
確かにキトルはそう言っていた。余りに性急に展開する事態に、私は藁にも縋る思いでキトルに確認を取る。思い出してくれれば、辞めてくれるかもしれない。
「お試し企画だから問題ない」
思い出す以前の問題だったようだ。私はシーツの上をワタワタと後ろ向きに移動しながら距離を取る。人間2人は楽に眠れそうな大きさのベッドは、逃げる余地はいくらでもある。が、そこで簡単に逃がさないのがキトルだった。
「知りたいと言ったのはお前だろ? なんで逃げるんだ」
ギシリ、と音を立ててベッドに乗り込んできたキトルは、いとも簡単に私の両腕をつかみ私の背をベッドに押し付けた。キトルが私の上に覆いかぶさると、彼の三つ編みが私の胸の上に落ちる。薄手のTシャツを着ているせいで、その感覚がこそばゆい。というかこの状況だと、幾ら私といえ、何とも言えない気持ちになる。
「誰も実践してくれなんて言ってませんから!」
ぎゃあぎゃあ騒いで逃げようとする私に、キトルがフッと笑った。さっきまで眉間に皺を寄せていた顔が、とても楽しそうにしている。
「本当は心のどっかで、自分の目で見たいと思ってたんだろ……?」
普段ならそのあまりに勝手な物言いに「んなわけあるか!」と叫んで押しのけていただろう。だが私は顔を真っ赤にしてビクリ、と身体を震わせるだけに終わってしまった。何故ならいつもは怖い顔してトゲトゲした物言いのキトルが、私の耳元に唇を寄せて、とろけるほど甘く囁いたのだから。
「っ……!」
私の反応に満足したのか、くすり、とキトルの笑いが零れた。その拍子に吐息が耳にかかり、ぞわり、と肌が粟立った。この甘ったるい声遣いには既視感がある。あれだ、あのキトルが寝ぼけていた時だ。ギャップなんとか、とか考えていた、あの時と一緒だ。あの時は人畜無害だったのに。
「……っの際、チャーリーでも、いっ……! た、すけてくださいっ!」
「はいキトルさんそこまでぇっ!!」
思いついた名前を叫んだ瞬間、バァンッと破壊音がして、キトルの部屋のドアが吹っ飛ばされた。そして現れたのは草まみれのチャーリー。そういえば庭の後ろの雑草の手入れをするとか言っていた。まさかチャーリーが天使のように見える日が来るだなんて、誰が思っただろうか。チャーリーを視界に認めたキトルは小さく「ちっ」と舌打ちをし、「冗談だ」と案外あっさり私を解放した。そしてすぐに「これでわかったろ?」と、親切心ですと言わんばかりの顔で笑ってみせたが、そんな簡単に信用できるわけがない。
私はすぐさまベッドから抜け出し、半泣きになりながら――いつもなら絶対しないだろうが、――チャーリーの後ろにバッと身を隠す。チャーリーは苦笑いしながら、私の頭を撫でてくれた。思いがけない優しさによって少し落ち着いた私は、ベッドの上でどこ吹く風と言ったキトルをギリッと睨みながら、チャーリーに問い質す。
「キ、キトルさんは、どういうエスなんです、かっ……!」
「羞恥に震える相手を見て楽しみ、時には言葉攻めに走る系エス、ですよ。気を付けてくださいね」
セクハラ魔と下ネタ好きに比べたら、よっぽど危ない人間だという事が発覚した。1番きっちりしてそうに見えて、こんなの詐欺以外の何物でもない。
2度とこんなお向かいさん家来たくない。しかしどこへ転んでも変人だらけのこの家に通うと宣言してしまったのは、自分自身なのだ。本当に過去の自分が恨めしくてしかたない。私はチャーリーへの感謝もそこそこに、お向かいさん宅から超特急でお暇した。