婚約破棄された聖女は、もう二度と後悔しない
「リリア・セレス。君との婚約を、今夜限りで破棄する」
王宮大夜会の広間に、第一王子レオン・アルテリオの声が響いた。
銀の燭台に灯された光は、壁一面の鏡に跳ね返り、踊る貴族たちの宝石をいっそうまぶしく見せていた。楽団の音は止まっている。先ほどまで笑い声で満ちていた広間は、まるで神殿の告解室のように、息苦しい沈黙へ変わっていた。
その沈黙の中心に、リリア・セレスは立っていた。
淡い金髪を結い上げ、白い夜会服をまとった彼女は、白誓神殿に認められた聖女であり、レオン王子の婚約者だった。
少なくとも、今この瞬間までは。
レオンの隣には、栗色の髪の少女が寄り添っている。明るい瞳をした、華やかな少女だった。胸元には白い宝石の首飾り。神殿から聖女候補へ授けられるものだと、リリアはすぐに分かった。
少女はミレーユ・ノア。
この春から神殿に出入りするようになった、新しい聖女候補である。
「殿下」
リリアは、声が震えないように指先を重ねた。
「理由を、お聞かせいただけますか」
「理由なら分かっているはずだ」
レオンは、いつものように美しかった。
金髪は王家の燭光を受けて輝き、碧眼はまっすぐ前を見ている。立ち姿も、声も、王子として完璧だった。けれどその完璧さは、今夜、リリアだけを斬るための刃になっていた。
「君の祈りは、古い。君は聖女でありながら、王家の方針に疑いを挟み、神殿にも王宮にも従わなくなった。これからの王国に必要なのは、民に寄り添い、新しい時代を祝福する聖女だ」
貴族たちの間に、かすかなざわめきが走る。
古い。
従わない。
聖女でありながら。
それらの言葉は、夜会服の上からでも冷たく肌に刺さった。
リリアは、王宮のために祈ってきた。
王都を覆う瘴気を鎮めるために。豊穣祭の雨を呼ぶために。流行病の子どもたちを癒やすために。戦地から戻った兵士の傷を閉じるために。
そのたびに神殿は言った。
聖女なのだから。
王家の婚約者なのだから。
あなたの祈りが、国を支えているのだから。
リリアは信じていた。
いつかレオンが、彼女自身を見てくれるのだと。
聖女ではなく、祈りの力でもなく、ただリリアとして。
「ミレーユは明るい。民を不安にさせない。何より、私を疑わない」
最後の言葉で、リリアはようやく理解した。
自分は聖女として捨てられたのではない。
都合のよい聖女でなくなったから、捨てられたのだ。
ミレーユが、胸元の首飾りを握る。宝石の奥で、白い光がかすかに揺れた。甘い香がした。神殿の祈祷室で焚かれる香に似ていたが、少しだけ薬草の苦みが混じっている。
リリアは視線を神官団へ向けた。
大神官セヴラン・オルドが、白い法衣の袖を整えながら立っている。
彼は何も言わなかった。
神殿は沈黙している。
それが、答えだった。
「リリア」
レオンは柔らかく名を呼んだ。だが、その声に謝罪はなかった。
「君には静養が必要だ。聖女の務めは、ミレーユに引き継がせる。セレス伯爵家には、相応の補償を与えよう。これ以上、王家の決定に異を唱えるな。君なら分かるだろう。国のためだ」
君なら分かるだろう。
何度、その言葉を聞いただろう。
熱があっても祈祷室へ向かった日も。
手首が震えて聖印を結べなくなった日も。
夜明けまで王子の政務室で、巡礼祭の祈祷予定を組み直した日も。
君なら分かるだろう。
君なら耐えられるだろう。
君なら、後悔しないだろう。
リリアは深く息を吸った。
広間の奥で、誰かが笑った。すぐに扇で隠した小さな笑いだった。けれど、リリアにははっきり聞こえた。
泣けばよかったのかもしれない。
取り乱して、殿下を愛していますとすがれば、誰かは哀れんでくれたのかもしれない。
だが、不思議と涙は出なかった。
胸の奥にあるのは悲しみではなく、からっぽの鐘が鳴るような静けさだった。
リリアは、左手の婚約指輪を外した。
白い手袋の上で、王家の青い宝石が冷たく光る。
「分かりました」
その一言で、レオンの表情がわずかに緩んだ。
従順な聖女が戻ってきたと思ったのだろう。
リリアは指輪を差し出した。
「私はもう、あなたのために後悔しません」
広間が静まり返った。
レオンの目が見開かれる。
「何を――」
「殿下のために祈ったことも、殿下を信じようとしたことも、今日まで王家に尽くしたことも、後悔しません」
リリアは顔を上げた。
菫色の瞳で、かつて愛されたいと願った人をまっすぐに見た。
「けれど、これから先の私の祈りは、私が選びます」
「リリア、お前――」
「お幸せに。レオン殿下」
リリアは一礼した。
神官団にも、貴族たちにも、ミレーユにも、二度と視線を向けなかった。
背後で、誰かが名前を呼ぶ。
だが、もう振り返らない。
王宮の扉が開くと、夜気が流れ込んできた。季節外れの雨の匂いがした。
白い夜会服の裾を濡らしながら、リリアは王宮を出た。
行き先は一つしかなかった。
王都の外れにある、古い教会。
そして、そこにいるはずの男。
かつて聖女を裏切ったと呼ばれた、元神官アベル・ルクスのもとへ。
*
雨は、王宮の灯が見えなくなるころには本降りになっていた。
馬車を呼ぶ金はあった。けれど、王宮から出てすぐの通りで、リリアは足を止めてしまった。
馬車に乗れば、どこかへ運ばれる。
それが怖かった。
今夜だけは、自分の足で歩きたかった。
王都の外れにある古い教会は、白誓神殿の管理下にありながら、もう何年も正式な祈祷には使われていない場所だった。屋根は黒ずみ、鐘楼の鐘は割れている。だが、旅人や貧しい者が雨をしのぐ場所として、細々と開かれていた。
リリアが扉を叩くと、中から低い女性の声がした。
「誰だい、こんな夜更けに」
「リリア・セレスです」
名を告げた瞬間、扉の向こうで沈黙が落ちた。
やがて軋む音とともに扉が開き、灰色の髪を布でまとめた老女が顔を出した。丸い背をしているが、目は鋭い。
「……まあ。聖女様が、ずぶ濡れじゃないか」
「夜分に申し訳ありません。アベル様はいらっしゃいますか」
「様なんて呼ぶような男じゃないよ、あれは」
老女はため息をつきながらも、扉を大きく開いた。
「まず入りな。話はそれからだ」
教会の中は、思ったより暖かかった。
古い長椅子のいくつかは取り払われ、奥には小さな台所と暖炉が作られている。壁際には干した薬草の束が吊るされ、湯気の立つ鍋が火にかけられていた。
神殿の白い香とは違う。
ここには、食べ物と薪と洗いたての布の匂いがした。
「マルタさん」
奥から男の声がした。
短く、低く、どこか疲れた声だった。
「客か」
「あんたが呼んだみたいなものだろう」
「俺は誰も呼んでない」
暗がりから出てきた男を見て、リリアは息を止めた。
焦げ茶の髪は少し伸び、神官服は古びて袖口が擦り切れている。灰色の目は、昔より深く沈んで見えた。
アベル・ルクス。
三年前まで、リリアの側仕え神官だった男。
そして、聖女の祈祷記録を破壊し、神殿に逆らった罪で追放された男。
噂では、リリアを陥れようとした裏切り者。
けれど、リリアは知っていた。
彼が追放される前の最後の日、アベルはリリアの手首を見て、言ったのだ。
このまま祈れば、あなたは壊れる、と。
その言葉を、リリアは信じなかった。
神殿も、王宮も、レオンも、彼を裏切り者と呼んだから。
「ずいぶん遅かったな」
アベルはリリアを見るなり、そう言った。
優しさのかけらもない声だった。
「捨てられたくらいで、道に迷うな」
リリアの胸に、鋭いものが刺さった。
「……ご存じだったのですか」
「王宮の夜会で王子が何をするかくらい、噂になる」
「では、なぜ」
なぜ助けに来なかったのですか。
そう言いかけて、リリアは唇を噛んだ。
助けを求める権利など、自分にはない。
三年前、自分はアベルを信じなかった。
誰も彼を信じない中で、リリアだけは信じるべきだったのに。
アベルはリリアの濡れた髪を一瞥し、暖炉の脇に置いてあった毛布を手に取った。乱暴に投げられるかと思ったが、毛布はリリアの肩へ静かにかけられた。
「マルタさん、茶を」
「もう淹れてるよ。まったく、口だけ冷たい男だね」
「余計なことを言うな」
アベルはそう言い、右手首を左手で押さえた。
袖の下に、古い神官印があるはずだった。神殿から追放された神官の印は、焼き消されると聞いている。だが、彼の印は完全には消えていないのだろうか。
マルタが木の杯を差し出した。
「まず飲みな、お嬢さん。眠れない夜にはこれが一番だよ」
茶は苦かった。
白誓神殿で出される甘い花茶とは違う。舌の奥に薬草の苦みが残る。
けれど不思議なことに、リリアの震えは少しずつ収まっていった。
「どうして」
リリアは杯を見下ろした。
「どうして、これを」
眠れない夜、甘い茶では吐き気がする。
苦い薬草茶だけが喉を通る。
そのことを、リリアは誰にも言っていなかった。
アベルは答えなかった。
「部屋は奥だ。着替えはそこにある」
「私は、ここに置いていただけるのですか」
「行くところがあるなら行け」
「ありません」
「なら寝ろ」
あまりの言い方に、リリアは思わず顔を上げた。
「あなたに、何が分かるのですか」
アベルの灰色の目が、わずかに揺れた。
「王宮で何を言われたか、あなたに分かるのですか。殿下に必要ないと言われて、神殿に沈黙されて、笑われて、それでも泣かないで歩いてきた私のことが、あなたに分かるのですか」
言葉が止まらなかった。
王宮では泣かなかったのに、古い教会の暖炉の前で、怒りがあふれてきた。
「三年前、あなたは私に何も説明しなかった。神殿に追われても、私に何も言わなかった。今夜だってそうです。知っていたような顔をして、毛布もお茶も用意して、でも何も言わない」
リリアは杯を握りしめた。
「どうして、私の傷つき方を知っているような顔をするのですか」
アベルは沈黙した。
暖炉の火が、薪の中で小さく爆ぜる。
彼は右手首を押さえたまま、目を伏せた。
「分かる必要はない」
「答えになっていません」
「お前は寝ろ」
「私は――」
「聖女様」
皮肉を含んだ呼び方だった。
だが、その声はほんの少しだけかすれていた。
「今夜くらい、自分を使い潰すのをやめろ」
リリアは言い返せなかった。
その言葉が、誰よりも彼女を知っている人の言葉のように響いたからだ。
奥の小部屋には、乾いた寝間着と白い布が置かれていた。花の香りのしない、よく洗われた布だった。
リリアは着替え、寝台に腰を下ろした。
雨音が屋根を叩く。
遠くで、割れた鐘が風に鳴った。
眠れるはずがないと思った。
けれど苦い薬草茶のせいか、毛布の温かさのせいか、目を閉じると意識が沈んでいった。
眠りに落ちる直前、扉の隙間から淡い光が見えた。
アベルが、右手首を押さえていた。
古い神官印が、闇の中でかすかに白く光っていた。
*
リリアが王宮を去ってから、王都は少しずつ変わり始めた。
最初は、神殿前の巡礼者が減っただけだった。
聖女リリアが静養に入ったという神殿布告が出され、新しい聖女候補ミレーユが白花の祈祷を行うと告げられると、民衆は物珍しさで広場へ集まった。
ミレーユは笑顔で手を振った。
レオンはその隣に立ち、若い聖女候補を民に紹介した。
だが、最初の祈りで異変が起きた。
白誓神殿の鐘が鳴り、ミレーユが聖印を結ぶ。胸元の白い首飾りが強く光った。
その瞬間、彼女は膝をついた。
顔色は青く、唇は震えていた。
「大丈夫です、殿下。少し、緊張しただけです」
ミレーユはそう笑ったが、広場の端にいた薬草売りの老婆は見た。彼女が首飾りを押さえながら、吐き気をこらえていたことを。
それから数日後、王都の北門近くで瘴気が濃くなった。
井戸水が濁り、白花祭に使う花が枯れた。市場では薬草の値が上がり、葬具商の前には不安げな人々が並んだ。
小新聞は書き立てた。
旧聖女の静養は本当か。
新聖女候補の祈りはなぜ届かないのか。
王都を守っていた祈りは、誰のものだったのか。
リリアは古い教会の窓辺で、その噂を聞いた。
マルタが買い出しのついでに持ち帰ってくる小新聞を、アベルはいつも暖炉へ放り込もうとした。
だがリリアは、それを止めた。
「知っておきたいのです」
「戻るつもりか」
「いいえ」
「なら読むな」
「知らないまま祈らされるのは、もう嫌です」
アベルは何も言わなかった。
その沈黙は、以前より少しだけ苦くなかった。
教会での生活は、リリアが思っていたより静かだった。
朝はマルタが焼いた黒パンと薄いスープを食べる。昼は、教会を訪れる貧しい人々のために包帯を洗う。夜は暖炉のそばで、マルタが干した薬草を束ねるのを手伝う。
アベルは多くを語らない。
だが、リリアが食事を忘れていると、必ず手の届く場所に皿が置かれた。夜中に起きれば、台所には苦い茶が残されていた。雨の日には、窓辺の隙間に布が詰められていた。
命じない。
慰めない。
けれど、先回りして整えられている。
その優しさは、神殿の甘い言葉よりずっと扱いづらかった。
「アベル様」
「様はいらない」
「では、アベル」
名前だけを呼ぶと、彼は一瞬だけ動きを止めた。
リリアも自分で驚いた。
「……あなたは、私に戻ってほしくないのですか」
「戻りたいのか」
「質問に質問で返さないでください」
「お前が答えろ」
アベルは薬草を刻む手を止めずに言った。
「それは、お前の言葉か」
リリアは口を閉じた。
戻らなくていい。
そう言えればよかった。
けれど王都に瘴気が広がっている。罪のない子どもが咳をしているかもしれない。井戸水が濁り、花が枯れ、人々が祈りを求めている。
自分が祈れば、救えるかもしれない。
でも、戻ればまた利用される。
どちらを選んでも、後悔しそうだった。
「分かりません」
リリアは正直に言った。
「でも、今すぐ戻りたいとは思いません」
「なら、それでいい」
「それだけですか」
「それ以上を俺が決めることじゃない」
アベルは刻んだ薬草を布袋に入れた。
「聖女の祈りは、神殿の所有物じゃない」
その言葉に、リリアは胸を押さえた。
三年前、アベルは似たようなことを言っていた。
あなたの祈りは、あなたの命です。
神殿の記録でも、王家の権威でもありません。
あのとき、リリアは彼を信じなかった。
胸の奥に、後悔が沈む。
けれど、それを言葉にする前に、教会の扉が強く叩かれた。
マルタが顔をしかめる。
「嫌な叩き方だね」
扉を開くと、雨上がりの曇天を背に、レオン王子が立っていた。
供の騎士を二人従え、王宮の外套をまとっている。だが、以前のような余裕はなかった。目の下には薄い影があり、指先は王家の指輪を落ち着きなく撫でていた。
「リリア」
その声を聞いた瞬間、リリアの中で何かが冷えた。
かつては、その名を呼ばれるだけで報われた気がした。
今は、遅すぎる響きだった。
「殿下」
「迎えに来た」
レオンは一歩踏み込んだ。
アベルがリリアの前に出ようとしたが、リリアは手で制した。
「国が危機にある。瘴気が北門から広がっている。ミレーユはまだ祈りに慣れていない。君の力が必要だ」
「私の力が、ですか」
「そうだ。君は聖女だろう」
その言葉は、驚くほど痛くなかった。
リリアは、もう知っていたからだ。
彼が必要としているのは、リリアではない。
祈りだ。
王都を守る力だ。
王家の失敗を覆い隠す白い光だ。
「殿下は、私との婚約を破棄されました」
「それは政治上の判断だ。君を完全に切り捨てたわけではない」
「私は静養中と布告されているのでは?」
「だからこそ、戻ってくれば美談になる。旧聖女が新聖女候補を支え、王国を救う。民も安心するだろう」
リリアは思わず笑いそうになった。
美談。
自分の屈辱も、痛みも、眠れなかった夜も、すべて王家の美談にされるのか。
「お断りします」
レオンの表情が固まった。
「リリア。国のためだ」
「その言葉は、もう聞き飽きました」
「君なら分かるだろう」
「分かりません」
リリアは、はっきりと言った。
「私はもう、殿下の都合を国のためだと思い込むことをやめました」
沈黙が落ちた。
レオンの頬がわずかに赤くなる。怒りか、恥か、彼自身にも分からないようだった。
「お前は、聖女としての責務を放棄するのか」
お前。
その呼び方に、リリアは少しだけ目を伏せた。
そして、もう一度顔を上げた。
「私は聖女である前に、人間です」
「リリア」
「お帰りください。殿下」
レオンは何か言おうとした。
だが、アベルが低く言った。
「聞こえなかったのか」
「元神官風情が、王子に口を出すな」
「王子風情が、リリアの言葉を踏むな」
空気が凍った。
アベルの声から皮肉が消えていた。
本気で怒っている。
リリアは初めて、その怒りが自分のためのものだと分かった。
レオンは剣に手をかけかけたが、騎士の一人が目で制した。王都の危機に、古い教会で騒ぎを起こすわけにはいかないのだろう。
「……後悔するぞ」
レオンは低く言った。
リリアは静かに答えた。
「後悔するかどうかも、私が決めます」
レオンは去った。
馬車の音が遠ざかるまで、誰も話さなかった。
やがてアベルが、右手首を押さえた。
神官印が、袖の下で淡く光っている。
「アベル」
リリアはその手首を見た。
「それは何ですか」
「古傷だ」
「嘘ですね」
「そうだな」
「では、本当は?」
アベルは答えなかった。
マルタが鍋をかき混ぜながら、低く言った。
「あの子はね、嫌われるのが下手じゃない。慣れすぎただけだよ」
それが誰のことなのか、リリアにはすぐ分かった。
アベルはマルタを見なかった。
ただ、右手首を押さえる指に力を込めた。
*
その夜、リリアは夢を見た。
夢の中で、彼女は王宮へ戻っていた。
レオンは微笑み、よく戻ったと言った。ミレーユは神殿の奥で泣いていた。大神官セヴランは、聖女リリアの慈悲によって王国は救われたと布告した。
民衆は歓声を上げた。
リリアは祈った。
瘴気は晴れた。
井戸水は澄み、白花は咲き、王都は救われた。
だが、その翌日も祈った。
翌月も祈った。
翌年も祈った。
神殿は記録した。
聖女リリア、祈祷成功。
聖女リリア、疲労あり。休養不要。
聖女リリア、王家のために奉仕継続。
夢の中のリリアは、だんだん薄くなっていった。
手首は細く、声は出ず、甘い花茶を飲むと吐き気がした。夜は眠れない。けれど朝になれば、神官が扉を叩く。
聖女様。
国のためです。
あなたなら分かるでしょう。
レオンは王になった。
隣にはミレーユではない別の女性がいた。リリアは王妃にならなかった。聖女は王家のために清らかであるべきだと、神殿が決めたからだ。
それでも、夢の中のリリアは祈った。
そしてある日、白い祈祷室で膝をついた。
窓の外では、白花祭の鐘が鳴っている。
誰も来ない。
誰も、彼女の名前を呼ばない。
聖女様。
聖女様。
聖女様。
夢の中のリリアは、かすれた声で言った。
あの夜、戻らなければよかった。
その瞬間、世界が白く割れた。
「リリア」
低い声がした。
目を開けると、古い教会の天井が見えた。暖炉の火はほとんど消えている。窓の外はまだ暗い。
アベルが寝台の脇に立っていた。
右手首の神官印が、淡く光っている。
「今のは……」
リリアは息を詰めた。
夢ではない。
あまりにもはっきりと、身体が覚えている。祈り続けた疲労も、白い祈祷室の冷たさも、誰にも名前を呼ばれなかった孤独も。
「その未来は、もうない」
アベルは短く言った。
リリアは彼を見上げた。
「なぜ、そんなことが言えるのですか」
アベルは沈黙した。
「答えてください」
「寝ろ」
「答えて!」
リリアの声が、教会の石壁に跳ね返った。
アベルは、初めて逃げるように目をそらした。
「あなたは、知っているのですね。私が戻った未来を。私が後悔した未来を」
アベルは右手首から手を離した。
古い神官印が、焼け跡のように皮膚に残っている。その中央に、白い亀裂のような光が走った。
「リグレット・リコール」
彼は低く言った。
「白誓神殿が、存在しないことにしている禁じられた祈りだ」
「禁じられた祈り……」
「強い後悔に触れた時、刻を巻き戻す。ただし、戻れるのは後悔が決定的になる前まで。覚えていられるのは、祈りを発動した者だけだ」
リリアは言葉を失った。
アベルの声は淡々としていた。まるで、他人の罪を読み上げているようだった。
「三年前、お前は最初の未来で倒れた」
「最初の、未来?」
「王宮と神殿に従い続けて、祈祷室で死にかけた。最後に後悔した。誰かのために祈ることじゃない。自分で選ばなかったことを」
リリアの喉が震えた。
「俺は、その後悔に触れた」
「どうして、あなたが」
「お前の側仕え神官だったからだ」
アベルは苦く笑った。
「聖女の記録をつける役目だった。祈りの回数、疲労、発熱、手の震え、睡眠、食事。神殿はそれを管理のためと言った。俺は、救うための記録だと思っていた」
彼は右手首を見た。
「違った。壊れるまで使うための記録だった」
リリアは、夢で見た祈祷記録を思い出した。
疲労あり。休養不要。
あの文字を、誰かが書いていた。
誰かが見ていた。
そして、誰も止めなかった。
「俺は記録を持ち出し、大神官に告発した。だが、握り潰された。神殿は俺を裏切り者にした。聖女の祈祷記録を破壊し、王家の婚約を妨害した神官だと」
「あなたが、記録を破壊したのではないのですか」
「表の記録はな」
アベルは扉の方を見た。
「本物は残してある」
マルタ。
リリアは、老女が隠している封書の気配を思い出した。
「それから、何度も戻った」
アベルは続けた。
「お前が王子を許して戻る未来。逃げた罪悪感に耐えられず神殿へ戻る未来。ミレーユを救おうとして、代わりに永世聖女契約に縛られる未来。瘴気を見捨てた自分を責め続けて、祈れなくなる未来」
リリアは首を振った。
聞きたくない。
だが、聞かなければならない。
「どの未来でも、お前は泣いた」
アベルの声が、ほんの少しだけ崩れた。
「どの未来でも、最後に後悔した」
「だから、戻したのですか」
「そうだ」
「私に知らせずに?」
「そうだ」
「私の人生を、勝手に?」
アベルは黙った。
リリアは寝台から立ち上がった。足元がふらついたが、倒れなかった。
「どうして」
「お前が、後悔したからだ」
短い答えだった。
けれど、その中に、数えきれない夜が沈んでいることを、リリアは感じてしまった。
それが苦しかった。
救われていた。
知らないうちに、何度も。
でも、それは同時に、奪われていたということでもあった。
失敗する権利。
間違える権利。
後悔する権利。
「勝手に私の後悔を消さないで」
リリアの声は震えなかった。
涙は流れていたが、言葉は整っていた。
「私は、あなたに感謝すればいいのですか。何度も救ってくれてありがとうと? でも、アベル。私は覚えていない。苦しんだ未来も、泣いた未来も、あなたが消した未来も、全部あなたの中だけにある」
アベルは何も言わなかった。
「私には、後悔することすら許されなかったのですか」
「……悪かった」
初めて、彼が謝った。
短い言葉だった。
言い訳も、弁解もなかった。
「俺は、お前を救えばいいと思っていた。お前が知らなくても、笑って生きられるならそれでいいと」
「それは、神殿と何が違うのですか」
アベルの顔から血の気が引いた。
リリアは、自分の言葉が彼を傷つけたと分かった。
それでも、取り消さなかった。
「神殿は、国のためと言って私を使いました。あなたは、私のためと言って私の未来を戻した。どちらも、私に選ばせてくれなかった」
アベルは右手首を握りしめた。
神官印の光が弱くなる。
「そうだな」
彼は言った。
「俺も、間違えた」
その言葉が、リリアの怒りを少しだけ鎮めた。
正しいことをした男ではなかった。
救うために、間違えた男だった。
そして、その間違いを一人で覚え続けている男だった。
「今は?」
リリアは尋ねた。
「今も、私の未来を戻すつもりですか」
アベルは、ゆっくり首を横に振った。
「もう戻さない」
「本当に?」
「お前が選ぶ未来を、俺が消す権利はない」
リリアは涙を拭わなかった。
沈黙が落ちた。
暖炉の火が消えかけている。
やがてアベルが、台所から薬草茶を持ってきた。いつもの苦い茶だった。
リリアは受け取らなかった。
アベルは無理に渡さなかった。ただ、寝台の脇の小さな机に置いた。
「飲むかどうかも、お前が決めろ」
そう言って、彼は部屋を出ていった。
リリアは長い間、茶を見つめていた。
やがて、両手で杯を取った。
苦い。
けれど、温かかった。
*
翌朝、王都の鐘は不規則に鳴った。
瘴気が南門にも広がったという知らせが届いたのは、昼を過ぎたころだった。薬草商は店を閉め、穀物商は値を上げ、神殿前には救いを求める民が集まっているという。
ミレーユは三度目の祈りで倒れた。
神殿はそれを隠そうとしたが、広場にいた民衆の目はごまかせなかった。
夕方、レオンが再び教会に来た。
今度は騎士を従えていなかった。
外套も乱れ、髪も雨に濡れている。王子らしい華やかさは残っていたが、その下から疲れた青年の顔がのぞいていた。
「リリア」
その呼び方は、あの日の夜会よりずっと弱かった。
「頼む。王都を救ってくれ」
リリアは扉の内側に立った。
アベルは少し離れた場所にいる。口を出す気はないのだろう。
選べ。
そう言われているのだと、リリアには分かった。
「殿下は、私に何を望んでいるのですか」
「祈りだ」
「私ではなく?」
レオンは言葉に詰まった。
以前なら、国のためだと言っただろう。聖女の責務だと言っただろう。
けれど今の彼は、そこまで愚かではいられなかった。
「……分からなかった」
レオンは指輪に触れた。
婚約破棄の夜、リリアが返した指輪ではない。王家の紋章指輪だ。
「君がいなくなって、初めて分かった。祈祷予定も、神殿との調整も、民への布告も、全部、君が支えていた。私は、君の祈りだけでなく、君の判断に頼っていた」
リリアは静かに聞いていた。
「ミレーユは悪くない。彼女は神殿に言われるままにしていただけだ。だが、私は……私は、君が私より優れていることが、怖かったのかもしれない」
その告白は、遅すぎた。
だが、嘘ではないと分かった。
レオンは初めて、リリアを聖女ではなく、失った人として見ている。
「なぜ」
彼はかすれた声で言った。
「なぜ、あの日、お前を捨ててしまったのだろう」
その瞬間、アベルの右手首が白く光った。
リリアは振り返った。
アベルが苦痛に顔をしかめ、神官印を押さえている。
「アベル」
「来るな」
彼は低く言った。
レオンの後悔に、リグレット・リコールが反応している。
リリアは理解した。
今なら戻せるのだ。
婚約破棄の前へ。
あの夜会の前へ。
レオンがリリアを捨てる前へ。
「消さないの?」
リリアの声は、自分でも驚くほど小さかった。
アベルは歯を食いしばり、神官印から手を離した。
白い光が揺れる。
「消せば、今のお前も消える」
「でも、殿下は後悔している」
「後悔は、罰じゃない」
アベルはレオンを見た。
「責任だ」
レオンは膝をついた。
王子が、古い教会の床に膝をついた。
「リリア。私は……」
「殿下」
リリアは彼を遮った。
「私は王都の民を見捨てたいわけではありません。でも、殿下のために戻ることはありません」
「では」
「祈るかどうかは、私が決めます」
レオンはうつむいた。
その肩が震えている。
泣いているのかもしれない。怒っているのかもしれない。
リリアは、慰めなかった。
彼の後悔は、彼のものだ。
その後悔まで引き受けることは、もうしない。
その時、教会の外で小さな声がした。
「あの……」
扉の隙間に立っていたのは、ミレーユだった。
栗色の髪は乱れ、顔は青い。胸元の白い首飾りを、今にも引きちぎりそうなほど強く握っている。
「ミレーユ様」
「様なんて、呼ばないでください」
ミレーユは泣きそうな顔で笑った。
「私、聖女じゃありませんでした。神殿がくれる薬を飲むと、少しだけ祈りが強くなるんです。でも、すぐ苦しくなって、吐き気がして、怖くて」
彼女は首飾りを外した。
白い宝石の裏に、小さな香入れが仕込まれていた。甘い香と、薬草の苦みが混じった匂いが広がる。
「大神官様は、慣れれば本物になるって。リリア様は古い聖女で、私は新しい聖女だって。私、信じたかった。選ばれたかったんです」
ミレーユは深く頭を下げた。
「ごめんなさい。私、あなたから何も奪えるような人間じゃなかった」
リリアは、彼女を見つめた。
夜会で見た勝ち誇った少女ではない。
神殿に利用された、十八歳の少女だった。
「ミレーユさん」
初めて、そう呼んだ。
ミレーユが顔を上げる。
「あなたは、証言できますか」
「証言……?」
「神殿が薬を渡したこと。首飾りに香が仕込まれていたこと。聖女候補として利用されたこと」
ミレーユは震えた。
レオンが顔を上げる。
「それは、神殿を敵に回すことになる」
「はい」
ミレーユは袖を握りしめた。
長い沈黙のあと、彼女はうなずいた。
「証言します」
その声は震えていた。
けれど、逃げなかった。
アベルが窓の外を見た。
夕暮れの王都の空に、灰色の霧が昇っている。
白花祭の前夜。
後悔や未練を書いた白い紙を神殿に納め、白花を供える祭の日が近づいていた。
だが、今年の王都に白い花はほとんど残っていない。
瘴気が、花を枯らしている。
「時間がない」
アベルは言った。
その声には、苦い諦めがあった。
*
王都広場は、瘴気に沈んでいた。
灰色の霧が石畳を這い、噴水の水は黒ずんでいる。白花祭のために飾られるはずだった紙の花は湿り、鐘楼の下では人々が咳き込んでいた。
神殿の白い回廊から、大神官セヴランが降りてくる。
銀髪に白い法衣。感情の薄い目。
その姿は、混乱の中でも清廉に見えた。
「聖女リリア」
セヴランは一定の声で言った。
「王都を救いなさい。あなたの祈りは、王国と神殿のものです」
リリアは広場の中央に立っていた。
レオンは少し離れた場所で、民衆を避難させる騎士たちに指示を出している。ミレーユはマルタに支えられながら、神殿の薬を拒んでいた。
アベルは、リリアの隣にいた。
公の場だからか、彼は距離を取っている。
けれど、リリアがふらついたら支えられる位置だった。
「大神官様」
リリアはセヴランを見た。
「私は、あなたの命令では祈りません」
ざわめきが広がる。
セヴランの表情は変わらない。
「民が苦しんでいます」
「知っています」
「ならば、聖女として祈るべきです」
「いいえ」
リリアは両手を開いた。
いつものように聖印を結ばなかった。
神殿が教えた祈りの形ではなく、自分の手で、空気に触れるように。
「私は、聖女だから祈るのではありません」
広場の鐘が一つ鳴った。
かすれた音だった。
「私が救いたいから祈ります」
その瞬間、リリアの胸の奥で光が広がった。
王宮で強いられた祈りとも、神殿で記録された祈りとも違う。
それは、誰かに命じられた力ではなかった。
逃げてもよかった。
拒んでもよかった。
後悔するかもしれなかった。
それでも、リリアは選んだ。
自分の意思で。
王都の民を救うと。
白い光が、彼女の足元から広がった。
石畳の灰色が薄れ、黒ずんだ噴水の水が澄んでいく。咳き込んでいた子どもが顔を上げ、母親が泣きながら抱きしめた。
枯れていた白花祭の飾り花の一輪が、音もなく開いた。
広場の霧が晴れていく。
神殿の鐘が鳴り始めた。
民衆の歓声が上がる。
聖女様。
聖女リリア様。
その声に、リリアは少しだけ胸が痛んだ。
でも、以前のように自分を差し出そうとは思わなかった。
祈りが終わると、リリアは膝をつきそうになった。
アベルが支えた。
触れ方は強くなかった。肩を掴むのではなく、落ちる前に受け止めるだけだった。
「大丈夫か」
「ええ」
リリアは息を整えた。
「これで終わったの?」
アベルは広場の向こう、神殿の階段を見た。
「終わるなら、よかったんだが」
セヴランが、白い法衣の袖を払った。
その目に、初めて焦りが見えた。
「元神官アベル・ルクス」
彼の声が、広場に響く。
「あなたを禁術行使の疑いで拘束します」
歓声が途切れた。
リリアは顔を上げた。
「何を言っているのですか」
「瘴気の発生、拡大、そして聖女リリアを神殿から遠ざけた一連の混乱。その背後には、追放神官であるあなたの禁術がありました」
「違います!」
リリアは叫んだ。
セヴランは彼女を見なかった。
人を個人として見ない目だった。
「神殿の秩序のためです。民の不安を鎮めるには、原因を明らかにせねばなりません」
「原因を作ったのは神殿でしょう。ミレーユさんに薬を渡し、祈りを偽らせた。私の消耗記録も隠した」
「聖女」
セヴランの声は冷たい。
「あなたは疲れています。判断を誤っている」
「誤っていません」
「神殿裁定により、元神官アベル・ルクスを拘束します」
白い法衣の神官たちが進み出た。
アベルは逃げなかった。
リリアは彼の前に立とうとしたが、彼が小さく首を横に振った。
「どいてください」
「駄目だ」
「どうして!」
「ここでお前が神殿に逆らえば、奴らはお前を二度と外へ出さない」
アベルは低く言った。
「俺はいい」
「よくありません!」
彼の右手首が光っていた。
リグレット・リコール。
リリアの恐怖と後悔に、反応しているのかもしれない。
でも、アベルは神官印から手を離した。
覚悟を決めた人の動きだった。
「マルタさん」
アベルは、老女を呼んだ。
マルタは青ざめた顔で、外套の内側を押さえている。
封書。
リリアは気づいた。
本物の祈祷記録。ミレーユの薬の証拠。神殿裁定の不正を暴くもの。
「頼む」
「……分かってるよ」
マルタの声は、しわがれていた。
「でも、あんたまで持っていかれるなんて、あたしは聞いてない」
「言えば止めただろ」
「当たり前だよ、この馬鹿」
アベルは少しだけ笑った。
それが、リリアの胸を裂いた。
神官たちが彼の腕を取る。
リリアは手を伸ばした。
「アベル!」
彼は振り返った。
灰色の目が、まっすぐリリアを見る。
その視線だけが、いつも長い。
「リリア」
公の場なのに、彼は彼女を名前で呼んだ。
「自分で選べ」
神官たちに連れられていく背中を、リリアは追えなかった。
足が動かない。
また救えない。
夢の中の祈祷室よりも冷たい恐怖が、胸に沈んだ。
*
処刑台は、神殿前広場に設けられた。
白花祭の朝だった。
本来なら、人々は後悔や未練を書いた白い紙を神殿へ納め、白花を供える。消えない後悔に寄り添う花だと、子どものころマルタのような老婆から聞いたことがある。
けれど今年、神殿前に集まった人々の手に白花はなかった。
あるのは、不安と怒りと、沈黙だった。
元神官アベル・ルクスは、瘴気を呼んだ禁術者として裁かれる。
神殿はそう布告した。
リリアは、神殿の白い回廊に呼び出された。
セヴランは、整った書類を机に並べていた。
「永世聖女契約です」
彼は言った。
「あなたがこれに署名し、神殿に終生仕えると誓うなら、アベル・ルクスの処分を追放に減じましょう」
リリアは書類を見下ろした。
永世聖女契約。
祈りの自由は神殿に属する。
婚姻の自由は神殿に属する。
居住の自由は神殿に属する。
王国のため、民のため、神のため。
美しい言葉で飾られた鎖だった。
「あなたは、民を救いたいのでしょう」
セヴランは穏やかに続けた。
「そして、彼を救いたい。ならば、聖女として正しい選択をなさい」
リリアの手が震えた。
署名すれば、アベルは生きる。
少なくとも、今朝死ぬことはない。
自分の自由と引き換えに。
かつての夢と同じだ。
祈祷室に閉じ込められ、誰にも名前を呼ばれず、白い記録の中で薄くなっていく未来。
でも、アベルが死ぬよりは。
そう思った瞬間、胸が痛んだ。
後悔したくない。
彼を失いたくない。
アベルを救えるなら、自分がどうなっても――
「それは、お前の言葉か」
背後から声がした。
リリアは振り返った。
神官に両腕を拘束されたアベルが、回廊の入口に立っていた。顔色は悪く、右手首の神官印は焼けるように白く光っている。
「アベル」
「署名するな」
「でも」
「それは、お前の選択じゃない」
「あなたが死んでしまう!」
リリアの声が崩れた。
セヴランが眉をひそめる。
アベルは、リリアだけを見ていた。
「後悔してもいい」
彼は言った。
「でも、後悔のために生きるな」
リリアの涙が落ちた。
「そんなこと、あなたが言うのですか」
「ああ」
「私の後悔を、何度も消してきたあなたが」
「ああ」
「なら、今回も消してよ」
言ってから、リリアは自分の残酷さに気づいた。
アベルは傷つかなかったような顔をした。
けれど、その右手首の光が強くなる。
「消さない」
「どうして」
「これが、お前の選んだ今だからだ」
「私は、あなたを失うことを選んでいません!」
「俺も、お前を泣かせることを選びたかったわけじゃない」
アベルの声が、初めて震えた。
「だが、リリア。お前を神殿へ戻すくらいなら、俺は何度でも悪者になる」
「そんなの、救いじゃない」
「そうだな」
彼は小さく笑った。
「だから最後くらい、間違えない」
セヴランが手を上げた。
「時間です」
「待って!」
リリアはアベルへ駆け寄った。
神官が止めようとしたが、レオンがその手を掴んだ。
「通せ」
王子の命令に、神官たちが一瞬ひるむ。
リリアはアベルの前に立った。
何を言えばいいのか分からなかった。
ありがとう。
ごめんなさい。
行かないで。
全部、足りない。
アベルは拘束された手を少しだけ動かした。触れることはできない。けれど、リリアの手の近くで止めた。
「苦い茶を飲め」
「今、そんなことを」
「眠れない夜は、甘い茶じゃ駄目だ」
リリアは泣きながら笑った。
「知っています」
「食べろ。祈る前に、必ず食べろ」
「知っています」
「マルタさんの言うことを聞け」
「それは難しいかもしれません」
「なら怒られろ」
アベルは、少しだけ目を細めた。
「リリア」
「はい」
「お前の祈りは、お前のものだ」
それが、彼の最後の愛の言葉だった。
愛しているとは言わなかった。
けれど、リリアには分かった。
アベルはずっと、彼女の自由を愛していた。
神殿前広場で、鐘が鳴った。
白い光が、アベルの右手首に集まる。
リグレット・リコールが発動しようとしている。
リリアの後悔に、彼の祈りが反応している。
アベルは神官印から手を離した。
そして、白い光を握り潰すように、拳を閉じた。
「もう、戻さない」
彼は言った。
処刑の描写を、リリアは覚えていない。
ただ、鐘の音だけがあった。
白花祭の鐘。
消えない後悔に寄り添うための鐘。
アベル・ルクスは、その鐘の下で死んだ。
*
その後の王都は、急速に変わった。
マルタが王都監査局へ届けた封書には、白誓神殿が隠していた本物の祈祷記録が入っていた。
リリアの祈りの消耗記録。
休養を必要とする診断書。
それを無視した神殿の指示。
ミレーユへ渡された祈り増幅薬の調合記録。
そして、三年前にアベルが大神官セヴランへ提出した告発文の写し。
ミレーユは証言した。
震えながら、けれど逃げずに。
神殿が自分を新聖女候補として利用したこと。首飾りに薬香が仕込まれていたこと。祈れば祈るほど身体が壊れていったこと。
レオンも証言した。
自分が神殿と王家の都合でリリアを切り捨てたこと。
それが王都の危機を招いたこと。
王子としての判断が誤っていたこと。
彼は王位継承権を停止された。
のちに、地方の小さな離宮へ移されたと小新聞は書いた。
大神官セヴラン・オルドは罷免された。
神殿裁定は無効となり、白誓神殿は王都監査局の管理下に置かれた。聖女の祈りは神殿の所有物ではなく、本人の自由意思に基づくものだと、新しい法が定めた。
アベル・ルクスの名誉は、死後に回復された。
元神官アベルは、聖女を裏切った男ではなかった。
聖女を使い潰す神殿の記録を暴こうとした告発者だった。
小新聞は、そう書いた。
民衆は彼を悼んだ。
白い花が、古い教会の前に供えられた。
けれど、リリアにとって、それは救いではなかった。
名誉が戻っても、アベルは戻らない。
記録が正されても、彼が覚えていた未来は彼の中にしかなかった。
リリアは、王宮へ戻らなかった。
神殿にも戻らなかった。
古い教会でしばらく暮らし、やがて王都から少し離れた小さな町へ移った。そこには新しい祈祷院が建てられたが、扉の上に聖女の紋章は掲げなかった。
代わりに、小さな白花の木彫りを置いた。
リリアは、求められれば祈った。
けれど、祈る前には必ず食べた。
眠れない夜には、苦い薬草茶を飲んだ。
誰かが聖女様と呼ぶと、彼女は微笑んで言った。
「リリアで結構です」
何年かが過ぎた。
白花祭の日、町の子どもがリリアへ白い花を差し出した。
「リリア先生、これ。丘のお墓に持っていくんでしょう?」
「ありがとう」
リリアは花を受け取った。
子どもは不思議そうに首をかしげた。
「その人、大事な人?」
「ええ」
「家族?」
「いいえ」
「じゃあ、恋人?」
リリアは少し考えた。
アベルは、恋人だったのだろうか。
手をつないで歩いたことはない。
愛していると言われたこともない。
けれど、彼はリリアの眠れない夜を知っていた。苦い茶を覚えていた。彼女が後悔する未来を、誰よりも覚えていた。
そして最後に、後悔する権利を返してくれた。
「救いたかった人よ」
リリアはそう答えた。
子どもは分かったような、分からないような顔でうなずいた。
丘の上には、小さな墓がある。
アベル・ルクス。
その名の下に、かつて聖女の後悔を覚えていた元神官、と刻まれている。
リリアは墓前に白花を置いた。
風が吹く。
白い花びらが揺れた。
「アベル」
名前を呼ぶと、今でも胸が痛む。
後悔は消えていない。
あの朝、もっと早く神殿の罠に気づけていたら。
あの夜、もっと彼に優しくできていたら。
三年前、彼を信じていたら。
ありがとうと、ちゃんと言えていたら。
いくらでも後悔はある。
リグレット・リコールがあれば、戻せるのかもしれない。
けれど、白い光はもう現れない。
アベルはもういない。
だから、リリアはその後悔を抱えて生きている。
「あなたに怒ったこと、後悔していません」
リリアは静かに言った。
「でも、ありがとうと言えなかったことは、後悔しています」
風が、丘の草を撫でた。
遠くの町で、白花祭の鐘が鳴る。
昔、王宮で聞いた鐘よりも、ずっと小さな音だった。
「私、まだ祈っています。でも、神殿のためでも、王家のためでもありません。私が救いたいと思った時だけ、祈っています」
墓石は答えない。
それでよかった。
アベルは、生きていたころから多くを語る男ではなかった。
「眠れない夜は、苦いお茶を飲んでいます。食事もしています。マルタさんは今でも私を叱ります。ミレーユさんは、祈祷院で薬草の勉強をしています。レオン殿下は……もう、私の人生にはいません」
リリアは目を閉じた。
「あなたが覚えていた未来を、私は全部知ることはできません。あなたがどれほど苦しかったのかも、きっと本当には分かりません」
それでも。
「この後悔ごと、私の人生だと決めたから」
白花が揺れる。
リリアは、墓前で深く頭を下げた。
「私はもう、後悔に私の人生を渡しません」
顔を上げると、空は淡く晴れていた。
春の光が丘に満ちる。
消えない後悔に寄り添うように、白い花が風の中で揺れていた。




