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婚約破棄された聖女は、もう二度と後悔しない

作者: 桜咲
掲載日:2026/05/12

「リリア・セレス。君との婚約を、今夜限りで破棄する」


 王宮大夜会の広間に、第一王子レオン・アルテリオの声が響いた。


 銀の燭台に灯された光は、壁一面の鏡に跳ね返り、踊る貴族たちの宝石をいっそうまぶしく見せていた。楽団の音は止まっている。先ほどまで笑い声で満ちていた広間は、まるで神殿の告解室のように、息苦しい沈黙へ変わっていた。


 その沈黙の中心に、リリア・セレスは立っていた。


 淡い金髪を結い上げ、白い夜会服をまとった彼女は、白誓神殿に認められた聖女であり、レオン王子の婚約者だった。


 少なくとも、今この瞬間までは。


 レオンの隣には、栗色の髪の少女が寄り添っている。明るい瞳をした、華やかな少女だった。胸元には白い宝石の首飾り。神殿から聖女候補へ授けられるものだと、リリアはすぐに分かった。


 少女はミレーユ・ノア。


 この春から神殿に出入りするようになった、新しい聖女候補である。


「殿下」


 リリアは、声が震えないように指先を重ねた。


「理由を、お聞かせいただけますか」


「理由なら分かっているはずだ」


 レオンは、いつものように美しかった。


 金髪は王家の燭光を受けて輝き、碧眼はまっすぐ前を見ている。立ち姿も、声も、王子として完璧だった。けれどその完璧さは、今夜、リリアだけを斬るための刃になっていた。


「君の祈りは、古い。君は聖女でありながら、王家の方針に疑いを挟み、神殿にも王宮にも従わなくなった。これからの王国に必要なのは、民に寄り添い、新しい時代を祝福する聖女だ」


 貴族たちの間に、かすかなざわめきが走る。


 古い。


 従わない。


 聖女でありながら。


 それらの言葉は、夜会服の上からでも冷たく肌に刺さった。


 リリアは、王宮のために祈ってきた。


 王都を覆う瘴気を鎮めるために。豊穣祭の雨を呼ぶために。流行病の子どもたちを癒やすために。戦地から戻った兵士の傷を閉じるために。


 そのたびに神殿は言った。


 聖女なのだから。


 王家の婚約者なのだから。


 あなたの祈りが、国を支えているのだから。


 リリアは信じていた。


 いつかレオンが、彼女自身を見てくれるのだと。


 聖女ではなく、祈りの力でもなく、ただリリアとして。


「ミレーユは明るい。民を不安にさせない。何より、私を疑わない」


 最後の言葉で、リリアはようやく理解した。


 自分は聖女として捨てられたのではない。


 都合のよい聖女でなくなったから、捨てられたのだ。


 ミレーユが、胸元の首飾りを握る。宝石の奥で、白い光がかすかに揺れた。甘い香がした。神殿の祈祷室で焚かれる香に似ていたが、少しだけ薬草の苦みが混じっている。


 リリアは視線を神官団へ向けた。


 大神官セヴラン・オルドが、白い法衣の袖を整えながら立っている。


 彼は何も言わなかった。


 神殿は沈黙している。


 それが、答えだった。


「リリア」


 レオンは柔らかく名を呼んだ。だが、その声に謝罪はなかった。


「君には静養が必要だ。聖女の務めは、ミレーユに引き継がせる。セレス伯爵家には、相応の補償を与えよう。これ以上、王家の決定に異を唱えるな。君なら分かるだろう。国のためだ」


 君なら分かるだろう。


 何度、その言葉を聞いただろう。


 熱があっても祈祷室へ向かった日も。


 手首が震えて聖印を結べなくなった日も。


 夜明けまで王子の政務室で、巡礼祭の祈祷予定を組み直した日も。


 君なら分かるだろう。


 君なら耐えられるだろう。


 君なら、後悔しないだろう。


 リリアは深く息を吸った。


 広間の奥で、誰かが笑った。すぐに扇で隠した小さな笑いだった。けれど、リリアにははっきり聞こえた。


 泣けばよかったのかもしれない。


 取り乱して、殿下を愛していますとすがれば、誰かは哀れんでくれたのかもしれない。


 だが、不思議と涙は出なかった。


 胸の奥にあるのは悲しみではなく、からっぽの鐘が鳴るような静けさだった。


 リリアは、左手の婚約指輪を外した。


 白い手袋の上で、王家の青い宝石が冷たく光る。


「分かりました」


 その一言で、レオンの表情がわずかに緩んだ。


 従順な聖女が戻ってきたと思ったのだろう。


 リリアは指輪を差し出した。


「私はもう、あなたのために後悔しません」


 広間が静まり返った。


 レオンの目が見開かれる。


「何を――」


「殿下のために祈ったことも、殿下を信じようとしたことも、今日まで王家に尽くしたことも、後悔しません」


 リリアは顔を上げた。


 菫色の瞳で、かつて愛されたいと願った人をまっすぐに見た。


「けれど、これから先の私の祈りは、私が選びます」


「リリア、お前――」


「お幸せに。レオン殿下」


 リリアは一礼した。


 神官団にも、貴族たちにも、ミレーユにも、二度と視線を向けなかった。


 背後で、誰かが名前を呼ぶ。


 だが、もう振り返らない。


 王宮の扉が開くと、夜気が流れ込んできた。季節外れの雨の匂いがした。


 白い夜会服の裾を濡らしながら、リリアは王宮を出た。


 行き先は一つしかなかった。


 王都の外れにある、古い教会。


 そして、そこにいるはずの男。


 かつて聖女を裏切ったと呼ばれた、元神官アベル・ルクスのもとへ。


     *


 雨は、王宮の灯が見えなくなるころには本降りになっていた。


 馬車を呼ぶ金はあった。けれど、王宮から出てすぐの通りで、リリアは足を止めてしまった。


 馬車に乗れば、どこかへ運ばれる。


 それが怖かった。


 今夜だけは、自分の足で歩きたかった。


 王都の外れにある古い教会は、白誓神殿の管理下にありながら、もう何年も正式な祈祷には使われていない場所だった。屋根は黒ずみ、鐘楼の鐘は割れている。だが、旅人や貧しい者が雨をしのぐ場所として、細々と開かれていた。


 リリアが扉を叩くと、中から低い女性の声がした。


「誰だい、こんな夜更けに」


「リリア・セレスです」


 名を告げた瞬間、扉の向こうで沈黙が落ちた。


 やがて軋む音とともに扉が開き、灰色の髪を布でまとめた老女が顔を出した。丸い背をしているが、目は鋭い。


「……まあ。聖女様が、ずぶ濡れじゃないか」


「夜分に申し訳ありません。アベル様はいらっしゃいますか」


「様なんて呼ぶような男じゃないよ、あれは」


 老女はため息をつきながらも、扉を大きく開いた。


「まず入りな。話はそれからだ」


 教会の中は、思ったより暖かかった。


 古い長椅子のいくつかは取り払われ、奥には小さな台所と暖炉が作られている。壁際には干した薬草の束が吊るされ、湯気の立つ鍋が火にかけられていた。


 神殿の白い香とは違う。


 ここには、食べ物と薪と洗いたての布の匂いがした。


「マルタさん」


 奥から男の声がした。


 短く、低く、どこか疲れた声だった。


「客か」


「あんたが呼んだみたいなものだろう」


「俺は誰も呼んでない」


 暗がりから出てきた男を見て、リリアは息を止めた。


 焦げ茶の髪は少し伸び、神官服は古びて袖口が擦り切れている。灰色の目は、昔より深く沈んで見えた。


 アベル・ルクス。


 三年前まで、リリアの側仕え神官だった男。


 そして、聖女の祈祷記録を破壊し、神殿に逆らった罪で追放された男。


 噂では、リリアを陥れようとした裏切り者。


 けれど、リリアは知っていた。


 彼が追放される前の最後の日、アベルはリリアの手首を見て、言ったのだ。


 このまま祈れば、あなたは壊れる、と。


 その言葉を、リリアは信じなかった。


 神殿も、王宮も、レオンも、彼を裏切り者と呼んだから。


「ずいぶん遅かったな」


 アベルはリリアを見るなり、そう言った。


 優しさのかけらもない声だった。


「捨てられたくらいで、道に迷うな」


 リリアの胸に、鋭いものが刺さった。


「……ご存じだったのですか」


「王宮の夜会で王子が何をするかくらい、噂になる」


「では、なぜ」


 なぜ助けに来なかったのですか。


 そう言いかけて、リリアは唇を噛んだ。


 助けを求める権利など、自分にはない。


 三年前、自分はアベルを信じなかった。


 誰も彼を信じない中で、リリアだけは信じるべきだったのに。


 アベルはリリアの濡れた髪を一瞥し、暖炉の脇に置いてあった毛布を手に取った。乱暴に投げられるかと思ったが、毛布はリリアの肩へ静かにかけられた。


「マルタさん、茶を」


「もう淹れてるよ。まったく、口だけ冷たい男だね」


「余計なことを言うな」


 アベルはそう言い、右手首を左手で押さえた。


 袖の下に、古い神官印があるはずだった。神殿から追放された神官の印は、焼き消されると聞いている。だが、彼の印は完全には消えていないのだろうか。


 マルタが木の杯を差し出した。


「まず飲みな、お嬢さん。眠れない夜にはこれが一番だよ」


 茶は苦かった。


 白誓神殿で出される甘い花茶とは違う。舌の奥に薬草の苦みが残る。


 けれど不思議なことに、リリアの震えは少しずつ収まっていった。


「どうして」


 リリアは杯を見下ろした。


「どうして、これを」


 眠れない夜、甘い茶では吐き気がする。


 苦い薬草茶だけが喉を通る。


 そのことを、リリアは誰にも言っていなかった。


 アベルは答えなかった。


「部屋は奥だ。着替えはそこにある」


「私は、ここに置いていただけるのですか」


「行くところがあるなら行け」


「ありません」


「なら寝ろ」


 あまりの言い方に、リリアは思わず顔を上げた。


「あなたに、何が分かるのですか」


 アベルの灰色の目が、わずかに揺れた。


「王宮で何を言われたか、あなたに分かるのですか。殿下に必要ないと言われて、神殿に沈黙されて、笑われて、それでも泣かないで歩いてきた私のことが、あなたに分かるのですか」


 言葉が止まらなかった。


 王宮では泣かなかったのに、古い教会の暖炉の前で、怒りがあふれてきた。


「三年前、あなたは私に何も説明しなかった。神殿に追われても、私に何も言わなかった。今夜だってそうです。知っていたような顔をして、毛布もお茶も用意して、でも何も言わない」


 リリアは杯を握りしめた。


「どうして、私の傷つき方を知っているような顔をするのですか」


 アベルは沈黙した。


 暖炉の火が、薪の中で小さく爆ぜる。


 彼は右手首を押さえたまま、目を伏せた。


「分かる必要はない」


「答えになっていません」


「お前は寝ろ」


「私は――」


「聖女様」


 皮肉を含んだ呼び方だった。


 だが、その声はほんの少しだけかすれていた。


「今夜くらい、自分を使い潰すのをやめろ」


 リリアは言い返せなかった。


 その言葉が、誰よりも彼女を知っている人の言葉のように響いたからだ。


 奥の小部屋には、乾いた寝間着と白い布が置かれていた。花の香りのしない、よく洗われた布だった。


 リリアは着替え、寝台に腰を下ろした。


 雨音が屋根を叩く。


 遠くで、割れた鐘が風に鳴った。


 眠れるはずがないと思った。


 けれど苦い薬草茶のせいか、毛布の温かさのせいか、目を閉じると意識が沈んでいった。


 眠りに落ちる直前、扉の隙間から淡い光が見えた。


 アベルが、右手首を押さえていた。


 古い神官印が、闇の中でかすかに白く光っていた。


     *


 リリアが王宮を去ってから、王都は少しずつ変わり始めた。


 最初は、神殿前の巡礼者が減っただけだった。


 聖女リリアが静養に入ったという神殿布告が出され、新しい聖女候補ミレーユが白花の祈祷を行うと告げられると、民衆は物珍しさで広場へ集まった。


 ミレーユは笑顔で手を振った。


 レオンはその隣に立ち、若い聖女候補を民に紹介した。


 だが、最初の祈りで異変が起きた。


 白誓神殿の鐘が鳴り、ミレーユが聖印を結ぶ。胸元の白い首飾りが強く光った。


 その瞬間、彼女は膝をついた。


 顔色は青く、唇は震えていた。


「大丈夫です、殿下。少し、緊張しただけです」


 ミレーユはそう笑ったが、広場の端にいた薬草売りの老婆は見た。彼女が首飾りを押さえながら、吐き気をこらえていたことを。


 それから数日後、王都の北門近くで瘴気が濃くなった。


 井戸水が濁り、白花祭に使う花が枯れた。市場では薬草の値が上がり、葬具商の前には不安げな人々が並んだ。


 小新聞は書き立てた。


 旧聖女の静養は本当か。


 新聖女候補の祈りはなぜ届かないのか。


 王都を守っていた祈りは、誰のものだったのか。


 リリアは古い教会の窓辺で、その噂を聞いた。


 マルタが買い出しのついでに持ち帰ってくる小新聞を、アベルはいつも暖炉へ放り込もうとした。


 だがリリアは、それを止めた。


「知っておきたいのです」


「戻るつもりか」


「いいえ」


「なら読むな」


「知らないまま祈らされるのは、もう嫌です」


 アベルは何も言わなかった。


 その沈黙は、以前より少しだけ苦くなかった。


 教会での生活は、リリアが思っていたより静かだった。


 朝はマルタが焼いた黒パンと薄いスープを食べる。昼は、教会を訪れる貧しい人々のために包帯を洗う。夜は暖炉のそばで、マルタが干した薬草を束ねるのを手伝う。


 アベルは多くを語らない。


 だが、リリアが食事を忘れていると、必ず手の届く場所に皿が置かれた。夜中に起きれば、台所には苦い茶が残されていた。雨の日には、窓辺の隙間に布が詰められていた。


 命じない。


 慰めない。


 けれど、先回りして整えられている。


 その優しさは、神殿の甘い言葉よりずっと扱いづらかった。


「アベル様」


「様はいらない」


「では、アベル」


 名前だけを呼ぶと、彼は一瞬だけ動きを止めた。


 リリアも自分で驚いた。


「……あなたは、私に戻ってほしくないのですか」


「戻りたいのか」


「質問に質問で返さないでください」


「お前が答えろ」


 アベルは薬草を刻む手を止めずに言った。


「それは、お前の言葉か」


 リリアは口を閉じた。


 戻らなくていい。


 そう言えればよかった。


 けれど王都に瘴気が広がっている。罪のない子どもが咳をしているかもしれない。井戸水が濁り、花が枯れ、人々が祈りを求めている。


 自分が祈れば、救えるかもしれない。


 でも、戻ればまた利用される。


 どちらを選んでも、後悔しそうだった。


「分かりません」


 リリアは正直に言った。


「でも、今すぐ戻りたいとは思いません」


「なら、それでいい」


「それだけですか」


「それ以上を俺が決めることじゃない」


 アベルは刻んだ薬草を布袋に入れた。


「聖女の祈りは、神殿の所有物じゃない」


 その言葉に、リリアは胸を押さえた。


 三年前、アベルは似たようなことを言っていた。


 あなたの祈りは、あなたの命です。


 神殿の記録でも、王家の権威でもありません。


 あのとき、リリアは彼を信じなかった。


 胸の奥に、後悔が沈む。


 けれど、それを言葉にする前に、教会の扉が強く叩かれた。


 マルタが顔をしかめる。


「嫌な叩き方だね」


 扉を開くと、雨上がりの曇天を背に、レオン王子が立っていた。


 供の騎士を二人従え、王宮の外套をまとっている。だが、以前のような余裕はなかった。目の下には薄い影があり、指先は王家の指輪を落ち着きなく撫でていた。


「リリア」


 その声を聞いた瞬間、リリアの中で何かが冷えた。


 かつては、その名を呼ばれるだけで報われた気がした。


 今は、遅すぎる響きだった。


「殿下」


「迎えに来た」


 レオンは一歩踏み込んだ。


 アベルがリリアの前に出ようとしたが、リリアは手で制した。


「国が危機にある。瘴気が北門から広がっている。ミレーユはまだ祈りに慣れていない。君の力が必要だ」


「私の力が、ですか」


「そうだ。君は聖女だろう」


 その言葉は、驚くほど痛くなかった。


 リリアは、もう知っていたからだ。


 彼が必要としているのは、リリアではない。


 祈りだ。


 王都を守る力だ。


 王家の失敗を覆い隠す白い光だ。


「殿下は、私との婚約を破棄されました」


「それは政治上の判断だ。君を完全に切り捨てたわけではない」


「私は静養中と布告されているのでは?」


「だからこそ、戻ってくれば美談になる。旧聖女が新聖女候補を支え、王国を救う。民も安心するだろう」


 リリアは思わず笑いそうになった。


 美談。


 自分の屈辱も、痛みも、眠れなかった夜も、すべて王家の美談にされるのか。


「お断りします」


 レオンの表情が固まった。


「リリア。国のためだ」


「その言葉は、もう聞き飽きました」


「君なら分かるだろう」


「分かりません」


 リリアは、はっきりと言った。


「私はもう、殿下の都合を国のためだと思い込むことをやめました」


 沈黙が落ちた。


 レオンの頬がわずかに赤くなる。怒りか、恥か、彼自身にも分からないようだった。


「お前は、聖女としての責務を放棄するのか」


 お前。


 その呼び方に、リリアは少しだけ目を伏せた。


 そして、もう一度顔を上げた。


「私は聖女である前に、人間です」


「リリア」


「お帰りください。殿下」


 レオンは何か言おうとした。


 だが、アベルが低く言った。


「聞こえなかったのか」


「元神官風情が、王子に口を出すな」


「王子風情が、リリアの言葉を踏むな」


 空気が凍った。


 アベルの声から皮肉が消えていた。


 本気で怒っている。


 リリアは初めて、その怒りが自分のためのものだと分かった。


 レオンは剣に手をかけかけたが、騎士の一人が目で制した。王都の危機に、古い教会で騒ぎを起こすわけにはいかないのだろう。


「……後悔するぞ」


 レオンは低く言った。


 リリアは静かに答えた。


「後悔するかどうかも、私が決めます」


 レオンは去った。


 馬車の音が遠ざかるまで、誰も話さなかった。


 やがてアベルが、右手首を押さえた。


 神官印が、袖の下で淡く光っている。


「アベル」


 リリアはその手首を見た。


「それは何ですか」


「古傷だ」


「嘘ですね」


「そうだな」


「では、本当は?」


 アベルは答えなかった。


 マルタが鍋をかき混ぜながら、低く言った。


「あの子はね、嫌われるのが下手じゃない。慣れすぎただけだよ」


 それが誰のことなのか、リリアにはすぐ分かった。


 アベルはマルタを見なかった。


 ただ、右手首を押さえる指に力を込めた。


     *


 その夜、リリアは夢を見た。


 夢の中で、彼女は王宮へ戻っていた。


 レオンは微笑み、よく戻ったと言った。ミレーユは神殿の奥で泣いていた。大神官セヴランは、聖女リリアの慈悲によって王国は救われたと布告した。


 民衆は歓声を上げた。


 リリアは祈った。


 瘴気は晴れた。


 井戸水は澄み、白花は咲き、王都は救われた。


 だが、その翌日も祈った。


 翌月も祈った。


 翌年も祈った。


 神殿は記録した。


 聖女リリア、祈祷成功。


 聖女リリア、疲労あり。休養不要。


 聖女リリア、王家のために奉仕継続。


 夢の中のリリアは、だんだん薄くなっていった。


 手首は細く、声は出ず、甘い花茶を飲むと吐き気がした。夜は眠れない。けれど朝になれば、神官が扉を叩く。


 聖女様。


 国のためです。


 あなたなら分かるでしょう。


 レオンは王になった。


 隣にはミレーユではない別の女性がいた。リリアは王妃にならなかった。聖女は王家のために清らかであるべきだと、神殿が決めたからだ。


 それでも、夢の中のリリアは祈った。


 そしてある日、白い祈祷室で膝をついた。


 窓の外では、白花祭の鐘が鳴っている。


 誰も来ない。


 誰も、彼女の名前を呼ばない。


 聖女様。


 聖女様。


 聖女様。


 夢の中のリリアは、かすれた声で言った。


 あの夜、戻らなければよかった。


 その瞬間、世界が白く割れた。


「リリア」


 低い声がした。


 目を開けると、古い教会の天井が見えた。暖炉の火はほとんど消えている。窓の外はまだ暗い。


 アベルが寝台の脇に立っていた。


 右手首の神官印が、淡く光っている。


「今のは……」


 リリアは息を詰めた。


 夢ではない。


 あまりにもはっきりと、身体が覚えている。祈り続けた疲労も、白い祈祷室の冷たさも、誰にも名前を呼ばれなかった孤独も。


「その未来は、もうない」


 アベルは短く言った。


 リリアは彼を見上げた。


「なぜ、そんなことが言えるのですか」


 アベルは沈黙した。


「答えてください」


「寝ろ」


「答えて!」


 リリアの声が、教会の石壁に跳ね返った。


 アベルは、初めて逃げるように目をそらした。


「あなたは、知っているのですね。私が戻った未来を。私が後悔した未来を」


 アベルは右手首から手を離した。


 古い神官印が、焼け跡のように皮膚に残っている。その中央に、白い亀裂のような光が走った。


「リグレット・リコール」


 彼は低く言った。


「白誓神殿が、存在しないことにしている禁じられた祈りだ」


「禁じられた祈り……」


「強い後悔に触れた時、刻を巻き戻す。ただし、戻れるのは後悔が決定的になる前まで。覚えていられるのは、祈りを発動した者だけだ」


 リリアは言葉を失った。


 アベルの声は淡々としていた。まるで、他人の罪を読み上げているようだった。


「三年前、お前は最初の未来で倒れた」


「最初の、未来?」


「王宮と神殿に従い続けて、祈祷室で死にかけた。最後に後悔した。誰かのために祈ることじゃない。自分で選ばなかったことを」


 リリアの喉が震えた。


「俺は、その後悔に触れた」


「どうして、あなたが」


「お前の側仕え神官だったからだ」


 アベルは苦く笑った。


「聖女の記録をつける役目だった。祈りの回数、疲労、発熱、手の震え、睡眠、食事。神殿はそれを管理のためと言った。俺は、救うための記録だと思っていた」


 彼は右手首を見た。


「違った。壊れるまで使うための記録だった」


 リリアは、夢で見た祈祷記録を思い出した。


 疲労あり。休養不要。


 あの文字を、誰かが書いていた。


 誰かが見ていた。


 そして、誰も止めなかった。


「俺は記録を持ち出し、大神官に告発した。だが、握り潰された。神殿は俺を裏切り者にした。聖女の祈祷記録を破壊し、王家の婚約を妨害した神官だと」


「あなたが、記録を破壊したのではないのですか」


「表の記録はな」


 アベルは扉の方を見た。


「本物は残してある」


 マルタ。


 リリアは、老女が隠している封書の気配を思い出した。


「それから、何度も戻った」


 アベルは続けた。


「お前が王子を許して戻る未来。逃げた罪悪感に耐えられず神殿へ戻る未来。ミレーユを救おうとして、代わりに永世聖女契約に縛られる未来。瘴気を見捨てた自分を責め続けて、祈れなくなる未来」


 リリアは首を振った。


 聞きたくない。


 だが、聞かなければならない。


「どの未来でも、お前は泣いた」


 アベルの声が、ほんの少しだけ崩れた。


「どの未来でも、最後に後悔した」


「だから、戻したのですか」


「そうだ」


「私に知らせずに?」


「そうだ」


「私の人生を、勝手に?」


 アベルは黙った。


 リリアは寝台から立ち上がった。足元がふらついたが、倒れなかった。


「どうして」


「お前が、後悔したからだ」


 短い答えだった。


 けれど、その中に、数えきれない夜が沈んでいることを、リリアは感じてしまった。


 それが苦しかった。


 救われていた。


 知らないうちに、何度も。


 でも、それは同時に、奪われていたということでもあった。


 失敗する権利。


 間違える権利。


 後悔する権利。


「勝手に私の後悔を消さないで」


 リリアの声は震えなかった。


 涙は流れていたが、言葉は整っていた。


「私は、あなたに感謝すればいいのですか。何度も救ってくれてありがとうと? でも、アベル。私は覚えていない。苦しんだ未来も、泣いた未来も、あなたが消した未来も、全部あなたの中だけにある」


 アベルは何も言わなかった。


「私には、後悔することすら許されなかったのですか」


「……悪かった」


 初めて、彼が謝った。


 短い言葉だった。


 言い訳も、弁解もなかった。


「俺は、お前を救えばいいと思っていた。お前が知らなくても、笑って生きられるならそれでいいと」


「それは、神殿と何が違うのですか」


 アベルの顔から血の気が引いた。


 リリアは、自分の言葉が彼を傷つけたと分かった。


 それでも、取り消さなかった。


「神殿は、国のためと言って私を使いました。あなたは、私のためと言って私の未来を戻した。どちらも、私に選ばせてくれなかった」


 アベルは右手首を握りしめた。


 神官印の光が弱くなる。


「そうだな」


 彼は言った。


「俺も、間違えた」


 その言葉が、リリアの怒りを少しだけ鎮めた。


 正しいことをした男ではなかった。


 救うために、間違えた男だった。


 そして、その間違いを一人で覚え続けている男だった。


「今は?」


 リリアは尋ねた。


「今も、私の未来を戻すつもりですか」


 アベルは、ゆっくり首を横に振った。


「もう戻さない」


「本当に?」


「お前が選ぶ未来を、俺が消す権利はない」


 リリアは涙を拭わなかった。


 沈黙が落ちた。


 暖炉の火が消えかけている。


 やがてアベルが、台所から薬草茶を持ってきた。いつもの苦い茶だった。


 リリアは受け取らなかった。


 アベルは無理に渡さなかった。ただ、寝台の脇の小さな机に置いた。


「飲むかどうかも、お前が決めろ」


 そう言って、彼は部屋を出ていった。


 リリアは長い間、茶を見つめていた。


 やがて、両手で杯を取った。


 苦い。


 けれど、温かかった。


     *


 翌朝、王都の鐘は不規則に鳴った。


 瘴気が南門にも広がったという知らせが届いたのは、昼を過ぎたころだった。薬草商は店を閉め、穀物商は値を上げ、神殿前には救いを求める民が集まっているという。


 ミレーユは三度目の祈りで倒れた。


 神殿はそれを隠そうとしたが、広場にいた民衆の目はごまかせなかった。


 夕方、レオンが再び教会に来た。


 今度は騎士を従えていなかった。


 外套も乱れ、髪も雨に濡れている。王子らしい華やかさは残っていたが、その下から疲れた青年の顔がのぞいていた。


「リリア」


 その呼び方は、あの日の夜会よりずっと弱かった。


「頼む。王都を救ってくれ」


 リリアは扉の内側に立った。


 アベルは少し離れた場所にいる。口を出す気はないのだろう。


 選べ。


 そう言われているのだと、リリアには分かった。


「殿下は、私に何を望んでいるのですか」


「祈りだ」


「私ではなく?」


 レオンは言葉に詰まった。


 以前なら、国のためだと言っただろう。聖女の責務だと言っただろう。


 けれど今の彼は、そこまで愚かではいられなかった。


「……分からなかった」


 レオンは指輪に触れた。


 婚約破棄の夜、リリアが返した指輪ではない。王家の紋章指輪だ。


「君がいなくなって、初めて分かった。祈祷予定も、神殿との調整も、民への布告も、全部、君が支えていた。私は、君の祈りだけでなく、君の判断に頼っていた」


 リリアは静かに聞いていた。


「ミレーユは悪くない。彼女は神殿に言われるままにしていただけだ。だが、私は……私は、君が私より優れていることが、怖かったのかもしれない」


 その告白は、遅すぎた。


 だが、嘘ではないと分かった。


 レオンは初めて、リリアを聖女ではなく、失った人として見ている。


「なぜ」


 彼はかすれた声で言った。


「なぜ、あの日、お前を捨ててしまったのだろう」


 その瞬間、アベルの右手首が白く光った。


 リリアは振り返った。


 アベルが苦痛に顔をしかめ、神官印を押さえている。


「アベル」


「来るな」


 彼は低く言った。


 レオンの後悔に、リグレット・リコールが反応している。


 リリアは理解した。


 今なら戻せるのだ。


 婚約破棄の前へ。


 あの夜会の前へ。


 レオンがリリアを捨てる前へ。


「消さないの?」


 リリアの声は、自分でも驚くほど小さかった。


 アベルは歯を食いしばり、神官印から手を離した。


 白い光が揺れる。


「消せば、今のお前も消える」


「でも、殿下は後悔している」


「後悔は、罰じゃない」


 アベルはレオンを見た。


「責任だ」


 レオンは膝をついた。


 王子が、古い教会の床に膝をついた。


「リリア。私は……」


「殿下」


 リリアは彼を遮った。


「私は王都の民を見捨てたいわけではありません。でも、殿下のために戻ることはありません」


「では」


「祈るかどうかは、私が決めます」


 レオンはうつむいた。


 その肩が震えている。


 泣いているのかもしれない。怒っているのかもしれない。


 リリアは、慰めなかった。


 彼の後悔は、彼のものだ。


 その後悔まで引き受けることは、もうしない。


 その時、教会の外で小さな声がした。


「あの……」


 扉の隙間に立っていたのは、ミレーユだった。


 栗色の髪は乱れ、顔は青い。胸元の白い首飾りを、今にも引きちぎりそうなほど強く握っている。


「ミレーユ様」


「様なんて、呼ばないでください」


 ミレーユは泣きそうな顔で笑った。


「私、聖女じゃありませんでした。神殿がくれる薬を飲むと、少しだけ祈りが強くなるんです。でも、すぐ苦しくなって、吐き気がして、怖くて」


 彼女は首飾りを外した。


 白い宝石の裏に、小さな香入れが仕込まれていた。甘い香と、薬草の苦みが混じった匂いが広がる。


「大神官様は、慣れれば本物になるって。リリア様は古い聖女で、私は新しい聖女だって。私、信じたかった。選ばれたかったんです」


 ミレーユは深く頭を下げた。


「ごめんなさい。私、あなたから何も奪えるような人間じゃなかった」


 リリアは、彼女を見つめた。


 夜会で見た勝ち誇った少女ではない。


 神殿に利用された、十八歳の少女だった。


「ミレーユさん」


 初めて、そう呼んだ。


 ミレーユが顔を上げる。


「あなたは、証言できますか」


「証言……?」


「神殿が薬を渡したこと。首飾りに香が仕込まれていたこと。聖女候補として利用されたこと」


 ミレーユは震えた。


 レオンが顔を上げる。


「それは、神殿を敵に回すことになる」


「はい」


 ミレーユは袖を握りしめた。


 長い沈黙のあと、彼女はうなずいた。


「証言します」


 その声は震えていた。


 けれど、逃げなかった。


 アベルが窓の外を見た。


 夕暮れの王都の空に、灰色の霧が昇っている。


 白花祭の前夜。


 後悔や未練を書いた白い紙を神殿に納め、白花を供える祭の日が近づいていた。


 だが、今年の王都に白い花はほとんど残っていない。


 瘴気が、花を枯らしている。


「時間がない」


 アベルは言った。


 その声には、苦い諦めがあった。


     *


 王都広場は、瘴気に沈んでいた。


 灰色の霧が石畳を這い、噴水の水は黒ずんでいる。白花祭のために飾られるはずだった紙の花は湿り、鐘楼の下では人々が咳き込んでいた。


 神殿の白い回廊から、大神官セヴランが降りてくる。


 銀髪に白い法衣。感情の薄い目。


 その姿は、混乱の中でも清廉に見えた。


「聖女リリア」


 セヴランは一定の声で言った。


「王都を救いなさい。あなたの祈りは、王国と神殿のものです」


 リリアは広場の中央に立っていた。


 レオンは少し離れた場所で、民衆を避難させる騎士たちに指示を出している。ミレーユはマルタに支えられながら、神殿の薬を拒んでいた。


 アベルは、リリアの隣にいた。


 公の場だからか、彼は距離を取っている。


 けれど、リリアがふらついたら支えられる位置だった。


「大神官様」


 リリアはセヴランを見た。


「私は、あなたの命令では祈りません」


 ざわめきが広がる。


 セヴランの表情は変わらない。


「民が苦しんでいます」


「知っています」


「ならば、聖女として祈るべきです」


「いいえ」


 リリアは両手を開いた。


 いつものように聖印を結ばなかった。


 神殿が教えた祈りの形ではなく、自分の手で、空気に触れるように。


「私は、聖女だから祈るのではありません」


 広場の鐘が一つ鳴った。


 かすれた音だった。


「私が救いたいから祈ります」


 その瞬間、リリアの胸の奥で光が広がった。


 王宮で強いられた祈りとも、神殿で記録された祈りとも違う。


 それは、誰かに命じられた力ではなかった。


 逃げてもよかった。


 拒んでもよかった。


 後悔するかもしれなかった。


 それでも、リリアは選んだ。


 自分の意思で。


 王都の民を救うと。


 白い光が、彼女の足元から広がった。


 石畳の灰色が薄れ、黒ずんだ噴水の水が澄んでいく。咳き込んでいた子どもが顔を上げ、母親が泣きながら抱きしめた。


 枯れていた白花祭の飾り花の一輪が、音もなく開いた。


 広場の霧が晴れていく。


 神殿の鐘が鳴り始めた。


 民衆の歓声が上がる。


 聖女様。


 聖女リリア様。


 その声に、リリアは少しだけ胸が痛んだ。


 でも、以前のように自分を差し出そうとは思わなかった。


 祈りが終わると、リリアは膝をつきそうになった。


 アベルが支えた。


 触れ方は強くなかった。肩を掴むのではなく、落ちる前に受け止めるだけだった。


「大丈夫か」


「ええ」


 リリアは息を整えた。


「これで終わったの?」


 アベルは広場の向こう、神殿の階段を見た。


「終わるなら、よかったんだが」


 セヴランが、白い法衣の袖を払った。


 その目に、初めて焦りが見えた。


「元神官アベル・ルクス」


 彼の声が、広場に響く。


「あなたを禁術行使の疑いで拘束します」


 歓声が途切れた。


 リリアは顔を上げた。


「何を言っているのですか」


「瘴気の発生、拡大、そして聖女リリアを神殿から遠ざけた一連の混乱。その背後には、追放神官であるあなたの禁術がありました」


「違います!」


 リリアは叫んだ。


 セヴランは彼女を見なかった。


 人を個人として見ない目だった。


「神殿の秩序のためです。民の不安を鎮めるには、原因を明らかにせねばなりません」


「原因を作ったのは神殿でしょう。ミレーユさんに薬を渡し、祈りを偽らせた。私の消耗記録も隠した」


「聖女」


 セヴランの声は冷たい。


「あなたは疲れています。判断を誤っている」


「誤っていません」


「神殿裁定により、元神官アベル・ルクスを拘束します」


 白い法衣の神官たちが進み出た。


 アベルは逃げなかった。


 リリアは彼の前に立とうとしたが、彼が小さく首を横に振った。


「どいてください」


「駄目だ」


「どうして!」


「ここでお前が神殿に逆らえば、奴らはお前を二度と外へ出さない」


 アベルは低く言った。


「俺はいい」


「よくありません!」


 彼の右手首が光っていた。


 リグレット・リコール。


 リリアの恐怖と後悔に、反応しているのかもしれない。


 でも、アベルは神官印から手を離した。


 覚悟を決めた人の動きだった。


「マルタさん」


 アベルは、老女を呼んだ。


 マルタは青ざめた顔で、外套の内側を押さえている。


 封書。


 リリアは気づいた。


 本物の祈祷記録。ミレーユの薬の証拠。神殿裁定の不正を暴くもの。


「頼む」


「……分かってるよ」


 マルタの声は、しわがれていた。


「でも、あんたまで持っていかれるなんて、あたしは聞いてない」


「言えば止めただろ」


「当たり前だよ、この馬鹿」


 アベルは少しだけ笑った。


 それが、リリアの胸を裂いた。


 神官たちが彼の腕を取る。


 リリアは手を伸ばした。


「アベル!」


 彼は振り返った。


 灰色の目が、まっすぐリリアを見る。


 その視線だけが、いつも長い。


「リリア」


 公の場なのに、彼は彼女を名前で呼んだ。


「自分で選べ」


 神官たちに連れられていく背中を、リリアは追えなかった。


 足が動かない。


 また救えない。


 夢の中の祈祷室よりも冷たい恐怖が、胸に沈んだ。


     *


 処刑台は、神殿前広場に設けられた。


 白花祭の朝だった。


 本来なら、人々は後悔や未練を書いた白い紙を神殿へ納め、白花を供える。消えない後悔に寄り添う花だと、子どものころマルタのような老婆から聞いたことがある。


 けれど今年、神殿前に集まった人々の手に白花はなかった。


 あるのは、不安と怒りと、沈黙だった。


 元神官アベル・ルクスは、瘴気を呼んだ禁術者として裁かれる。


 神殿はそう布告した。


 リリアは、神殿の白い回廊に呼び出された。


 セヴランは、整った書類を机に並べていた。


「永世聖女契約です」


 彼は言った。


「あなたがこれに署名し、神殿に終生仕えると誓うなら、アベル・ルクスの処分を追放に減じましょう」


 リリアは書類を見下ろした。


 永世聖女契約。


 祈りの自由は神殿に属する。


 婚姻の自由は神殿に属する。


 居住の自由は神殿に属する。


 王国のため、民のため、神のため。


 美しい言葉で飾られた鎖だった。


「あなたは、民を救いたいのでしょう」


 セヴランは穏やかに続けた。


「そして、彼を救いたい。ならば、聖女として正しい選択をなさい」


 リリアの手が震えた。


 署名すれば、アベルは生きる。


 少なくとも、今朝死ぬことはない。


 自分の自由と引き換えに。


 かつての夢と同じだ。


 祈祷室に閉じ込められ、誰にも名前を呼ばれず、白い記録の中で薄くなっていく未来。


 でも、アベルが死ぬよりは。


 そう思った瞬間、胸が痛んだ。


 後悔したくない。


 彼を失いたくない。


 アベルを救えるなら、自分がどうなっても――


「それは、お前の言葉か」


 背後から声がした。


 リリアは振り返った。


 神官に両腕を拘束されたアベルが、回廊の入口に立っていた。顔色は悪く、右手首の神官印は焼けるように白く光っている。


「アベル」


「署名するな」


「でも」


「それは、お前の選択じゃない」


「あなたが死んでしまう!」


 リリアの声が崩れた。


 セヴランが眉をひそめる。


 アベルは、リリアだけを見ていた。


「後悔してもいい」


 彼は言った。


「でも、後悔のために生きるな」


 リリアの涙が落ちた。


「そんなこと、あなたが言うのですか」


「ああ」


「私の後悔を、何度も消してきたあなたが」


「ああ」


「なら、今回も消してよ」


 言ってから、リリアは自分の残酷さに気づいた。


 アベルは傷つかなかったような顔をした。


 けれど、その右手首の光が強くなる。


「消さない」


「どうして」


「これが、お前の選んだ今だからだ」


「私は、あなたを失うことを選んでいません!」


「俺も、お前を泣かせることを選びたかったわけじゃない」


 アベルの声が、初めて震えた。


「だが、リリア。お前を神殿へ戻すくらいなら、俺は何度でも悪者になる」


「そんなの、救いじゃない」


「そうだな」


 彼は小さく笑った。


「だから最後くらい、間違えない」


 セヴランが手を上げた。


「時間です」


「待って!」


 リリアはアベルへ駆け寄った。


 神官が止めようとしたが、レオンがその手を掴んだ。


「通せ」


 王子の命令に、神官たちが一瞬ひるむ。


 リリアはアベルの前に立った。


 何を言えばいいのか分からなかった。


 ありがとう。


 ごめんなさい。


 行かないで。


 全部、足りない。


 アベルは拘束された手を少しだけ動かした。触れることはできない。けれど、リリアの手の近くで止めた。


「苦い茶を飲め」


「今、そんなことを」


「眠れない夜は、甘い茶じゃ駄目だ」


 リリアは泣きながら笑った。


「知っています」


「食べろ。祈る前に、必ず食べろ」


「知っています」


「マルタさんの言うことを聞け」


「それは難しいかもしれません」


「なら怒られろ」


 アベルは、少しだけ目を細めた。


「リリア」


「はい」


「お前の祈りは、お前のものだ」


 それが、彼の最後の愛の言葉だった。


 愛しているとは言わなかった。


 けれど、リリアには分かった。


 アベルはずっと、彼女の自由を愛していた。


 神殿前広場で、鐘が鳴った。


 白い光が、アベルの右手首に集まる。


 リグレット・リコールが発動しようとしている。


 リリアの後悔に、彼の祈りが反応している。


 アベルは神官印から手を離した。


 そして、白い光を握り潰すように、拳を閉じた。


「もう、戻さない」


 彼は言った。


 処刑の描写を、リリアは覚えていない。


 ただ、鐘の音だけがあった。


 白花祭の鐘。


 消えない後悔に寄り添うための鐘。


 アベル・ルクスは、その鐘の下で死んだ。


     *


 その後の王都は、急速に変わった。


 マルタが王都監査局へ届けた封書には、白誓神殿が隠していた本物の祈祷記録が入っていた。


 リリアの祈りの消耗記録。


 休養を必要とする診断書。


 それを無視した神殿の指示。


 ミレーユへ渡された祈り増幅薬の調合記録。


 そして、三年前にアベルが大神官セヴランへ提出した告発文の写し。


 ミレーユは証言した。


 震えながら、けれど逃げずに。


 神殿が自分を新聖女候補として利用したこと。首飾りに薬香が仕込まれていたこと。祈れば祈るほど身体が壊れていったこと。


 レオンも証言した。


 自分が神殿と王家の都合でリリアを切り捨てたこと。


 それが王都の危機を招いたこと。


 王子としての判断が誤っていたこと。


 彼は王位継承権を停止された。


 のちに、地方の小さな離宮へ移されたと小新聞は書いた。


 大神官セヴラン・オルドは罷免された。


 神殿裁定は無効となり、白誓神殿は王都監査局の管理下に置かれた。聖女の祈りは神殿の所有物ではなく、本人の自由意思に基づくものだと、新しい法が定めた。


 アベル・ルクスの名誉は、死後に回復された。


 元神官アベルは、聖女を裏切った男ではなかった。


 聖女を使い潰す神殿の記録を暴こうとした告発者だった。


 小新聞は、そう書いた。


 民衆は彼を悼んだ。


 白い花が、古い教会の前に供えられた。


 けれど、リリアにとって、それは救いではなかった。


 名誉が戻っても、アベルは戻らない。


 記録が正されても、彼が覚えていた未来は彼の中にしかなかった。


 リリアは、王宮へ戻らなかった。


 神殿にも戻らなかった。


 古い教会でしばらく暮らし、やがて王都から少し離れた小さな町へ移った。そこには新しい祈祷院が建てられたが、扉の上に聖女の紋章は掲げなかった。


 代わりに、小さな白花の木彫りを置いた。


 リリアは、求められれば祈った。


 けれど、祈る前には必ず食べた。


 眠れない夜には、苦い薬草茶を飲んだ。


 誰かが聖女様と呼ぶと、彼女は微笑んで言った。


「リリアで結構です」


 何年かが過ぎた。


 白花祭の日、町の子どもがリリアへ白い花を差し出した。


「リリア先生、これ。丘のお墓に持っていくんでしょう?」


「ありがとう」


 リリアは花を受け取った。


 子どもは不思議そうに首をかしげた。


「その人、大事な人?」


「ええ」


「家族?」


「いいえ」


「じゃあ、恋人?」


 リリアは少し考えた。


 アベルは、恋人だったのだろうか。


 手をつないで歩いたことはない。


 愛していると言われたこともない。


 けれど、彼はリリアの眠れない夜を知っていた。苦い茶を覚えていた。彼女が後悔する未来を、誰よりも覚えていた。


 そして最後に、後悔する権利を返してくれた。


「救いたかった人よ」


 リリアはそう答えた。


 子どもは分かったような、分からないような顔でうなずいた。


 丘の上には、小さな墓がある。


 アベル・ルクス。


 その名の下に、かつて聖女の後悔を覚えていた元神官、と刻まれている。


 リリアは墓前に白花を置いた。


 風が吹く。


 白い花びらが揺れた。


「アベル」


 名前を呼ぶと、今でも胸が痛む。


 後悔は消えていない。


 あの朝、もっと早く神殿の罠に気づけていたら。


 あの夜、もっと彼に優しくできていたら。


 三年前、彼を信じていたら。


 ありがとうと、ちゃんと言えていたら。


 いくらでも後悔はある。


 リグレット・リコールがあれば、戻せるのかもしれない。


 けれど、白い光はもう現れない。


 アベルはもういない。


 だから、リリアはその後悔を抱えて生きている。


「あなたに怒ったこと、後悔していません」


 リリアは静かに言った。


「でも、ありがとうと言えなかったことは、後悔しています」


 風が、丘の草を撫でた。


 遠くの町で、白花祭の鐘が鳴る。


 昔、王宮で聞いた鐘よりも、ずっと小さな音だった。


「私、まだ祈っています。でも、神殿のためでも、王家のためでもありません。私が救いたいと思った時だけ、祈っています」


 墓石は答えない。


 それでよかった。


 アベルは、生きていたころから多くを語る男ではなかった。


「眠れない夜は、苦いお茶を飲んでいます。食事もしています。マルタさんは今でも私を叱ります。ミレーユさんは、祈祷院で薬草の勉強をしています。レオン殿下は……もう、私の人生にはいません」


 リリアは目を閉じた。


「あなたが覚えていた未来を、私は全部知ることはできません。あなたがどれほど苦しかったのかも、きっと本当には分かりません」


 それでも。


「この後悔ごと、私の人生だと決めたから」


 白花が揺れる。


 リリアは、墓前で深く頭を下げた。


「私はもう、後悔に私の人生を渡しません」


 顔を上げると、空は淡く晴れていた。


 春の光が丘に満ちる。


 消えない後悔に寄り添うように、白い花が風の中で揺れていた。

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