五日目
加速するコロシアム。
そして、ある男が現れる。
「足はどうだ」
朝、部屋を覗くとドクターはきょとんとしてベッドに座っていた。どっちだ。
「覚えはあるか」
「ない」
長い長い溜め息が漏れた。
俺は怪我の経緯と昨日の出来事をかいつまんで話した。
使えるんだよ、医務要員としては上出来なんだが、使いにくいことこの上ない。刑務所とコロシアムのストレスで不安定なのだろう。とはいえ昨日のへらへらした子供よりはマシかと思う。
「分かったか」
「なんとなく」
「足は」
「少し痛い。走るのはきついけど歩くくらいならいける」
今日も降りかかる火の粉は払う戦法だなと心の中で決める。
「無理はさせない。絶対に俺から離れるな。離れたら見放す」
一方的に告げて背中を向ける。
「行くぞ」
グランドに下りて少し驚いた。
俺は昨日それほどやっていない。しかし小さな違和感があるくらい人が減っていた。もともと二百ほどいた人が昨日だけで十人は減ったのではないだろうか。ーあいつが暗躍しているのか。
「皆見てくるな」
人格変わっても思うことは同じか。
答える必要もないと無視する。
あ、
「悪い、失敗した」
道が開く風にみえて後ろが閉じていく。火の粉は振り払う戦法を決めた時点でここに下りてくるべきではなかった。上で静かにしているべきだった。
囲まれている。
俺は少し速度を緩めてドクターに、身を付けた。
「お前は動かなくていい。勝手に走ったりするな。俺についてこい」
「了解」
さあいつ来るか。というか、団結して一人を狙うとかなんだ。裏切りが溢れるだけだよ。
口中でぼやいているとようやく一人が雄叫びと共に襲ってきた。それがスターターで一気に四方八方から詰めよられる。
四面楚歌を体感で味わった。手近なやつから蹴りなり投げなりで飛ばしていく。ドクターを中心として素早く回りながら徐々に進んでいく。
拉致あかねぇ。軽く苛つく。蹴りかかってきたやつの足を足で踏み落としつつ跳ね上がる。一息で頭に登って強く踏み倒す。土台が崩れる前に前進し、頭を駆けていく。
「ドクター、ちょっと走ってくれ」
下に向かって言い、一番壁が薄い方向へ真っ直ぐ走る。ドクターは俺が踏み倒した人体絨毯の上を少しおぼつきながら追いかけてきた。
壁が途切れて飛び降りる。少し待ってドクターの後ろにつく。
「走れ、とにかく。後ろは守る」
ーにしても限度がある。何十人も追ってくるし、捻挫のドクターは速くない。後ろの追っ手は払えるが前からひょっと出てきたら危うい。
「右、左、左」
障害物を利用して錯乱させようと指示を出すが捻挫のアドバンテージでほとんど無意味に近い。…でも結局は走るのはきついという容態を聞きながらこの状況に陥れてしまった俺のミスだ。だから昨日は守らなかったが背中くらいは守ってやる。
早速来た、たくっ。
「おりゃー!」
見なくても分かる。この辺かな。俺は右腕を後ろへ振り払う。ヒット。あとも同じように振り払っていく。悶絶したやつらが続々と離脱する。
「ドクター、もう少しだ、粘…」
終わった。
回り込んだのだろう。前方からわらわらと新たな男どもが。
俺の限界は先だがドクターの限界は近い。細かな転回で駆け回れるほど体力が残っているとは思えない。加えて、昨日のようなドーナツに持っていくにはきついフォーメーションと俺の体力。
どうする。振り払って走りながら頭を回転させる。なかなか思いつかない。前方に追い付いてしまう。挟まれて潰されてしまう。
ぐるぐる。グルグル。
「薪野さんっ!」
突然、息切れと気合いのみの雑多な音の中にはっきりとしたことばが投げ込まれた。
「薪野さん!」
あ、これ俺か。
声が自分に向いている。たしか仮名第五。
辺りを見渡すと右の遠くで小柄な男が大きく手を振っていた。
いける。
「ドクター、あの男の方に走れ!」
ドクターは答える余裕もないようだったが方向転換して男の方へ駆けていった。俺も後から続く。ターゲットの転換に前後の陣が合流するように流れ込んでくる。
小柄な男はドクターを待ち、疲労困憊の腕を掴んで引きずって走り出した。うねうねと複雑に曲がりながら徐々にうしろを振り切っていく。
普段、一度通った道は逃路に使えるので覚えようとする癖があるが、今回は少し危ないかもしれない。全く同じ道で戻る自信がない。
というかここはどこだ。明らかに表ではない。見向きもしないであろう裏の空間だ。
四日そこらでここまで場所を網羅しているとは。先を走る小柄な背を見て、限ったもんじゃないと今更、本当に今更気付く。
何十回目に曲がった途端、小柄な男はドクターを手放し膝に手を置いた。
「ハァぁッハぁッ」
なんだここ。
そこは枯れた草がぱらぱら、周りは無骨なコンクリートなのに、生活感がありありと漂っていた。壁に囲まれて一目につかず、人気のない閑静な空間には、部屋から持ち出したのであろう掛け布団とタオルが乱暴に置かれていた。
「おまえ、ここ…」
問うと小柄な男は気まずそうに苦笑した。
「私の部屋です。毎日野宿してるんです、ここで。弱いから、ここで凌いで最後にフラフラ出てって残れたらいいなって」
それはまあ、賢いというか…。
「バカでしょう?」
また答えにくい質問を。
するとそれまで自嘲気味に笑んでいた男がふと真剣な眼差しをした。
「バカなんですよ、今も、…あの時も。」
こういう時はなるべく無情でいるに限る。揺らいで、壊されそうなときは。
「あの、」
ドクターが遠慮がちに口を挟んだ。
「ここで少し休んでもいいか。足が痛むし、疲れた」
俺は場の主の顔色を伺う。男が視線に気付いた。
「ああはいどうぞ、休んでってください。なんなら布団も使ってください」
寝る布団まで譲るとは、こいつの性格は本当に変わっていない。良い上に悪いみたいな。
そんなんじゃ壊れるぞ。壊されるぞ。
ドクターが布団に潜るとしばらくして寝息が聞こえてきた。疾走の後に即寝、しかも他人の布団を悪気なく使う。こいつの神経も計り知れない。
ーとかなんとか思っていたがふと残された一人ときまずいことに気がついた。
「薪野さんも休みますか」
気を利かせて尋ねてくれたが断った。
「暇ですね。ここには誰も来ませんし。まあ、私は毎日ここで一人暇してるんですけど」
「そうか。でもその作戦、決定打だがないな」
「決定打?」
男が怪訝な顔をする。
話の糸口を探すうちに滑らせてしまったが後悔する必要もないので全て吐く。
「まず、ずっとここにいるのは生理的に無理だ。水もいるし食べ物も要る。それらを取りに行くときはここをでなくちゃいけない。人目の少ない夜を狙ったって無駄だ。不規則に這い回ってる奴らが一定数いるからな」
「でも誰とも会わないかもしれない…」
「可能性はある。だが無理だ」
「どうしてっ」
「お前が俺の向かいの部屋だからだ」
「え?」
「204号室、だろ?」
男が得心しないまま首肯した。
やっぱり。薄々思っていた。どうして朝晩戻らないのか。人気がないのか。一日目の飯を食い繋げば今日までギリギリ耐えられるだろう。
「なんで薪野さんが向かいだとムリなんですか」
ここまできても分からないか。
「俺が見つけて殺すから」
男が絶句した。
「優しくないよ、何処も、誰も」
男が更に絶句する。それに、と俺はまた刺す。
「お前だって優しくない」
そうだ。あの頃からずっとこいつに{優しい}は似合わなかった。こいつはただ馬鹿で自分に対して無責任なだけだ。
「お前のやさしさを考えた方がいいよ、宮良さん」
俺は時間的猶予を与えようと立ち去った。
人に宮良の住みかがバレないように周囲が無人なことを確認しながら歩いた。迷いかけたが障害物の上に立って位置を確かめながら出た。
とはいえ今日は少し気だるくてやる気がない。グランドに出る手前で人気がないのを感じてからしゃがみこんだ。
深い深い溜め息が漏れる。
こういう時、自分も結局人間なんだなと思う。揺らがないよう悟られないよう、ロボットのように立ち回りながら、結局こんなことで、こんなとこでしゃがんでいる。
ーあいつだけじゃないか。俺も向き合うべきなんだ。最後にもらった俺の猶予だ。ここで振り返らなかったらもう、
「おい」
もたれていた壁の上から声が降ってきた。顔を上げると、目があった。
「会いたかったよ」
本当は五十近いはずなのに不気味なほど若い男が軽々飛び降りてきた。硬直しそうになった身体を必死でほぐす。
「話してみたかったんだ。君、一番目立ってるからね」
事もなさげに話す男をみて昨日固めた覚悟を呼び起こした。
「二番目はお前だろ」
平常に、普通に。
「初対面で年上にお前かぁ。君あんまり良い教育受けてないね」
「おっしゃる通りですよ、どうせ」
我ながら上手い。これ程鎧が強いとは、伊達な数十年ではない。
しかし次の質問で詰まってしまった。
「君、名前は?」
っつ。だが男は何かに納得した。
「言い淀む感じね。名前が多すぎるとか言うに言えないとかどれ言えばいいか迷うみたいな」
そして、笑顔から発せられたのは最も低い声だった。
「俺もだよ。」
「君、これあと何日だと読んでる?」
男と腰を下ろして雑談が続いていた。
「あと一週間もかかんないと思ってる。お前は?」
「俺もそう思う。でも呼称が{お前}なの、ひっかかるな。一応歳上だから」
「お前以外の呼び方が分からない」
「あなたとかアンタとかあるでしょうよ」
「お前は{お前}で充分だ」
「どういう意味?」
「…」
答えられるわけがない。こいつが壊れる前に自分が壊れる。
「まあ確かに貴方なんて呼ばれるような人間じゃないですよ、俺は」
普通の人なら僻みだがここにいる人間が口にすれば単なる事実だ。
なあ、男は呼称への興味を切らしてこちらを向いた。
「目標立てない?」
すぐには処理が追い付かずはいィ?と変な返事になってしまった。
「君も分かってるだろう、拉致あかないって。情が邪魔する前に片付けようぜ。ここは永遠じゃないんだから」
もっともな功利だ。だがわざとなのか分からないが少しずれている。見くびられたのか。
「俺は最初から情を挟んでやってる」
男がはっとした顔をする。それからニヤリと右の口角をあげた。
「気付いてるのか。なら尚更協働したいね。俺たちはたぶん、同じ目的を持っている」
その時、ざらざらとした嫌悪感を覚えた。 同じ目的。
もしこいつが同じことを考えてるのだとしたら、同じ気持ちでその目的を持っているとしたら、
自分が報われない気がした。
「なら返せよ」
忌々しく聞こえた呟きは自分から漏れたらしい。
「ん?なに?」
あっけらかんとした聞き返しにこんなに逆撫でされることもない。
駄目だ。これ以上は保てない。
俺はあるだけの自制心で声を作って立ち上がりながら言った。
「3日だ。3日で果たす」
背中で男が了解と短く返答した。
180いるとして2で割って90、さらに割って一日30は固めないと。一応ドクターにことわりをいれるか。俺は来た道を戻った。
「意外と早く戻ってきましたね」
宮良は布団のそばに腰を下ろしいた。
「ちょっとドクターのことを頼んでもいいか」
「…いいですけど、何かありましたか?」
宮良が心配そうに聞く。
「別に。俺のノルマをやってくるだけだ」
理由も言わずにドクターを押し付けて悪いが、宮良を巻き込むことではない。宮良には必要がないのだ。踵を返そうとすると宮良が放った。
「あなたはまだ変わらないんですね」
歳上の諭しを含んだような言い方に何処かが掠れた。
「違う」
お前に何が分かる。良い奴にも悪い奴にもなりきれない馬鹿なお前に何が分かる。
「俺は変わってないかもしれない。でも、自分で考えてここにいる。自分で考えてここで行動している。そこだけは変わった。今は誰のものでもない」
これ以上言うこともないだろう。行こうと歩き出す。
「薪野さん」
俺は止まらない。
「いつでもここに来てください。あなたに話したいことが、あなたに話すことで向き合えることがあります」
ああ。だから俺はここで止まらないから、ここで逃げるから、あの時から歪んだままなんだ。
変わりたかった。俺は初めて振り返った。奇遇だな、
「俺も。」
目についた人から、やっていくうちに夕刻になった。12はやったと思う。大分任せてしまった。
多少申し訳なく感じつつ、人目につかないよう注意しながら宮良の隠れ家へ向かった。
「悪い、結構かかった」
と、宮良の返事の前に誰だその声という返事があった。
「どこ行ってたのー」
多少の申し訳なさから{多少}が吹っ飛んだ。
よく見ると宮良は戸惑い気味で隠すこともなく困り顔をしている。
「すまない、起きてこれだった?」
「はい…」俺はドクターのもとへ寄ってしゃがむ。
「ドクター、午前中の記憶は」
「ないよ」
だろうな。宮良の混乱を想う。こうなる予想を伝えておくべきだった。自分だって詳しくはないから可能性を計るべきだった。
「多重人格ですか?」
「うん、そう」
まさかの本人からの返事に宮良がさらに戸惑う。冷却材料にはならないだろうが簡潔に説明を足しておく。
「こいつはこの人格の時が一番賢くて自覚もあるんだ」
宮良は面食らってそうですかと小さく呟いた。それから俺はドクターに向き直る。
「戻るぞ、ドクター。今日はもう終わった。今日のお前は朝は落ち着きある愛想のない男で、熟睡したらお前になってたよ」
「わー一日の中でも変わっちゃうのね」
「寝過ぎたんじゃないか、体力ねぇから」
事実、正午前から夕方まで寝ていたのだ。きもち多く走っただけでこの消耗とは、本当にこいつの特性は限られる。
ドクターが立ち上がり連れだって歩きだそうとしたところでもう一つやるべきことがあったと思い出した。
「宮良さん」
振り向きはしない。明日向かっていくから。
「また明日」
「調子はどうだい」
なんとなく夜集まる雰囲気だと思って、人目につかずもし攻められても有利な場所、居住区の最上階の屋根で待っていたらやはりやつが来た。
「十二だ」
「俺は十五」
そう言いながら隣に腰を下ろされ俺は少し左にずれた。
すぐ帰る予定だったのに。長引くとぼろが出るかぼろにやられる。
「十二とはちと少ないんじゃない?君ともあろう人が」
十五のお前もたいがいだよ。待て。君ともあろう人が。知ってるのか、いや、覚えてるのか、どこから、どこまで
ーほら。こいつと話しても疑と恐とトラウマが渦巻くだけなんだ。
「君さ、すごい運動神経いいよね。親譲り?てか親はご健在?」
激震だった。たったそれだけの言葉で。いよいよこいつが分からない。自分の芯も保てない。
離れたい、ここから離れたい。俺は弱い、宮良の方がよっぽど強い、無理だ、壊れる、壊される、逃げたい、逃げる、逃げる。
俺は呼吸を必死で止めて場を去った。
男は追わなかった。
屋根を数メートル歩いてから手を引っ掻けて内側に一段飛び降りた。さらに手摺の格子をつかみもう二段降りる。まだ息を止めたまま足取りだけは落ち着いて自室へ向かう。
後ろ手にドアを閉めて初めて息を吸う。うまく吸えなくて荒い呼気になる。
「はァッハァっはッ」
治まらずドアにもたれて膝から崩れる。
苦しい。呼吸よりも蘇る記憶が苦しい。
聞こえる悲鳴、人声だとは思えぬ喘ぎ、何より怖かった、沈静。来るな、来るな。乞うのにやはり来てしまう視覚。きつく閉じた目、ぐったりと固い二体、床に広がる鮮血、ーその先に
呼吸がどんどん荒くなる。
赤黒く光るナイフ、全てを目立たなくする黒い外套、まるでその時の自分を映したような無感情の目。その顔が、顔が、俺の心が、心が
壊れてしまう
ぼろぼろになりかける心身を呼吸を整えることだけに集中させて気を紛らそうとする。
ぐっと力を入れて息を止めたり腹の奥底から吐き出すうちに少しずついつもの息を取り戻した。
治した息切れだけが残った頃、普段は並外れた持久力のために感じない疲労が訪れた。
頭も上がらずよろよろ立ち上がってふらふらベッドへ体を引き摺っていく。倒れこんだところで体を縮こませ何も入らないようぎゅっと目を閉じる。
もっと固く、もっときつく。そうしているうちに眠りが訪れる。




