第四章:美食コンテストへの誘い(1)
春の終わりと夏のはざま、日縁町の空に乾いた風が吹いていた。空は高く澄み、潮の匂いに交じって新緑の香りが漂っている。磯辺食堂の店先には、新メニューの短冊が貼り出され、道行く人の目を引いていた。
「郷土のおにぎり定食、好評です」
手書きの文字と、素朴なイラスト。その描き手はもちろん、結衣子だった。毎日少しずつ絵柄を変えては、日縁町の空気をまとわせるように工夫していた。
店の中はというと、昼時を過ぎて落ち着き始めたタイミング。泰成はいつもの定位置に腰を下ろし、炊きたての麦ご飯を一口、ゆっくりと噛み締めていた。
「……安定した味になってきたな。再現性も高い。だが……ほんの少し、遊びが足りないか」
「遊び?」
結衣子が振り返る。エプロン姿のまま、手にしていた湯のみをカウンターに置いた。
「塩分濃度と味噌の香ばしさ、それに焼き加減のバランスは完璧だ。だが、記憶に残る一口、いわば“意外性のスパイス”が欲しい。もし何か入れるなら……山椒か、柚子皮か……」
「うーん、柚子は合いそうかも。でも、それって私の料理の味じゃなくなっちゃう気がして」
「違う。“らしさ”は、変化に柔軟であることだ。固定された味は、いずれ飽きられる」
その言葉に、結衣子はしばらく黙ったあと、小さく笑った。
「理屈っぽいのに、なんでちょっと心に残るんだろう、泰成さんの言葉って」
「当然だ。私は“言葉で料理する男”だ」
「それ、ちょっと恥ずかしい」
店の奥から、咳払いが聞こえた。滝之介だった。彼は大きな段ボールを抱えながら、玄関からズカズカと入ってきた。
「おーい! 来たぞー! 町長からの伝言ってやつ!」
「町長?」
「うん。なんか、お前らに出てほしいんだって。“日縁町代表”としてさ」
「出る? 何に?」
滝之介が段ボールの中から出したのは、一枚のチラシだった。色とりどりの料理写真が並ぶその上には、こう書かれていた。
【第15回 南浜美食フェスティバル】
~地元の味、発掘グランプリ~
「……なにこれ、料理コンテスト?」
「うん、どうやらね。近隣市と合同でやるグルメフェスで、町ごとの代表店舗がエントリーして、料理を披露するんだってさ。優勝したら、観光パンフに載ったり、テレビ取材が来たりするらしい」
「……」
「んで、町長が言ってた。“日縁町は磯辺食堂でいこう”って。おかみさんも“ほれ、勝ってこい!”って言ってたよ?」
結衣子は思わず、おかみさんのいない厨房のほうを見た。いつもならのれんの向こうで、ちゃきちゃきと声を出しているはずの彼女は、今日はちょっとした検査で病院へ出かけていた。
「私が、磯辺食堂代表として……?」
「そっ。もちろん泰成も同行ってことで、な?」
「……私は出場者ではない」
「けど、味見はするだろ?」
「それは……当然だ。料理の設計段階から関わっている。だが、私はあくまで……」
「ぶつくさ言ってないで、来なさいよ、評論家さん」
春佳が入ってきた。何かを察したのか、すでにチラシをひょいと取って眺めている。
「へぇ、これは結構本格的なコンテストね。書いてあるわよ、審査員は地元料理研究家に、テレビ局のグルメレポーター、それに一流ホテルの料理長とか……やるじゃん、これ」
「……問題がある」
「はい出た、泰成の問題提起」
「この町の料理は、“誰かのための味”だ。審査されることを前提とした味ではない。そこに“競う”という要素を加えることが、果たして正解なのか」
「それ、逃げじゃないの?」
結衣子が、はっきり言った。彼女の瞳には迷いがなかった。
「私はね、あの定食を食べた誰かが、“懐かしい”とか“あったかい”って言ってくれることが、一番嬉しかった。けど……たぶん、そう言ってもらえる機会が少なすぎる」
「……」
「町の味を、もっとたくさんの人に知ってほしいの。この町に来るきっかけになってほしいし、誰かの“食べたい”って気持ちに届いてほしい。そう思ったときに、コンテストっていう形も……ありかなって」
泰成はしばらく目を閉じていた。そして静かに口を開いた。
「……分かった。参加しよう」
「えっ、いいの?」
「条件がある。私が“味の設計”に関しては全面的に監修する。それに、ただの味勝負にするつもりはない。記憶と物語を料理に込める。そうでなければ、この町の味は伝わらない」
「……うん、いいよ。私、信じてるから」
「ふたりの漫才、だんだん板についてきたねえ」
滝之介が笑い、春佳が「この町、全員ボケじゃない?」と呆れ顔でぼやいた。
その日から、磯辺食堂の営業時間外で“コンテスト用新メニュー会議”が始まった。