第三章:食材探しと郷土料理の秘密(2)
畑の見学を終え、三人は佐井さんの家の縁側で麦茶を啜っていた。雨上がりの山の空気は澄んでいて、鳥のさえずりがあちこちから聞こえる。泰成はまるで生まれて初めて森を見た子供のように、黙ったまま景色を見つめていた。
「……なんか、どうしたの。評論家さん」
春佳がちょっと茶化すように言うと、泰成は少し遅れて答えた。
「……味とは、ここまで広がるものなのかと思っている」
「うわ、詩人っぽい! 誰か録音しといて!」
「いや、これは真面目な話だ。私は今まで、味は舌で完結するものだと考えていた。しかし……この空気、土、音、湿度、そして人……それらすべてが、あの一杯の味噌汁に溶け込んでいたのだとしたら……」
「なにそれ、結衣子、今のちょっとカッコよかったよね?」
「うん……私も、なんか、じーんと来た」
結衣子が、麦茶の氷をゆっくりかき混ぜながら言った。
「佐井さんのお味噌って、もう何十年も味が少しずつ変わってるんだって。でもね、それを“変わった”って言う人は誰もいないの。“いつも通り美味しい”って言うの。たぶん、それがこの町の味なんだよ」
「“変わらない味”は存在しない。ただ、変わり方が自然だから、人は気づかない……か」
「評論家さん、言葉のセンス、案外あるじゃん」
「当然だ。文章で食っている」
「はいはい」
笑いながら三人が縁側でくつろいでいると、佐井さんが台所から何やら運んできた。
「よし、これ食べてみい」
それは、大根と人参の皮を甘辛く炒めた“きんぴら”。それと、見た目はシンプルな“麦ごはんの焼きおにぎり”。
「うちではな、皮も捨てん。炒めて、ごま油ちょっと垂らして、酒と味醂で仕上げる。昔はどの家でもこうしてた。捨てるとこはないっちゅう考えや」
「……うまい」
泰成は、一口でそう言った。
その言葉には、いつものような分析や批評の尾ひれがなかった。ただ、感じたままの“うまさ”が、言葉になって出ただけだった。
「この焼きおにぎり……味噌が塗ってあるのか?」
「せや。さっきの味噌、少し焼いて香ばしくしてから、表面に塗っとる。味噌は焼くと、香りが倍になるさかいな」
「……“味の立ち上がり”が全然違う。炭の香りと融合して、香ばしさに立体感がある……」
「おっ、また評論家モードに戻った」
春佳が笑ったが、結衣子はふと、目を伏せた。
「この味……磯辺食堂でも出してみたいな」
「お?」
「“郷土のおにぎり定食”って名前で。大根皮のきんぴらと、焼き味噌おにぎり、それと具沢山の味噌汁……どうかな」
泰成は、じっとその言葉を噛み締めた。そして、静かにうなずいた。
「それは……良い。コンセプトが明確で、味の流れに無理がない。“土地の記憶を食べる”というメッセージが、しっかり通じる構成だ」
「ほんとに? やった……!」
「いや、やったじゃない。構成は良いが、肝心なのは“仕上がり”だ。再現できるかどうか……いや、再構築できるか。磯辺食堂の“味”として成立させるには、もう一段階の工夫がいる」
「ええっと……そこまで言わなくても……」
「そこが大事なのだ。君が目指すのは、ただの郷土再現ではなく、“記憶と現在の融合”だろう?」
結衣子の目がまっすぐ、泰成を見返す。
「うん、そう。食べた人が、“ああ、これ懐かしい”って思えるような、でも、“今また食べたい”って思える料理にしたい。……それができたら、きっとこの町の味も、次の人に渡せるって思うの」
「ならば……私が試作を手伝う」
「えっ、ほんとに?」
「料理はできる。私は理論派だが、技術も持っている。結衣子、君が感覚で組み立てるなら、私はそれを論理で支える。……それはきっと、今までにない“料理”になる」
春佳がわざとらしく手を叩いた。
「出た! 名コンビ宣言!」
「違う」
「照れてる~!」
「黙れ」
帰りの車の中、泰成は珍しく助手席でウトウトしていた。春佳がチラリと横目で見て、小声でつぶやいた。
「……あんな顔もするんだ、あの堅物」
後部座席の結衣子も、どこか柔らかい顔をして窓の外を眺めていた。
そしてその翌週、磯辺食堂ではついに“郷土のおにぎり定食”の提供が始まった。
焼き味噌おにぎりは、炭火で炙った表面に、佐井味噌の香りがふわりと広がる。大根皮のきんぴらは、シャキシャキとした歯応えと、ほんのり香るごま油の風味。味噌汁には、季節の野菜がごろごろ入っている。
初めて食べた客が、ひとり言のように呟いた。
「……懐かしいなぁ……昔、おばあちゃんが作ってくれたおにぎり、思い出すよ」
その言葉を聞いた結衣子の目が、かすかに潤んだ。
そして泰成は、厨房の隅でそれを見つめながら、そっと万年筆を走らせていた。
《“記憶を食べる”という概念は、理屈を超えて人の心を揺さぶる》
《この味には、地層のような時間が含まれている》
《これが、郷土料理の秘密かもしれない》
(第三章:終)