第一章「磯辺食堂とおばあちゃんの味」(2)
その翌日も、泰成は磯辺食堂に足を運んでいた。正確に言えば、他に選択肢がなかった。駅前にいくつか食堂らしき店はあるにはあったが、コンビニすら見当たらないこの町では「当たり前の味」すら保証されていなかったのだ。そして彼は“ハズレ”を極端に嫌う。失敗したくない。そんな思考が、自然と足を向けさせていた。
「……なんだかんだ言って、来てくれるのねぇ、あんた」
おかみさんは、茶碗にご飯を盛りながら笑った。
「ただの空腹を満たすためだ」
「そう言いながら、今日は一番乗りよ。あら、昨日より顔色いいじゃないの」
「……昨日の南蛮漬けが、胃に優しかっただけだ」
「うちは病院かい」
泰成は口を引き結んだ。が、ほんの一瞬だけ、口角がかすかに上がった気がする。
カウンター越しに、結衣子が今日の献立を書いていた。達筆ではないが、素朴な味わいのある文字。書き終えると、彼女は筆ペンを置き、ひょいと顔を上げた。
「あ、泰成さん。おはようございます」
「……昨日の料理だが」
「え? あ、はい」
「昆布の出汁に加えて、煮干しが二種。それと、玉ねぎの切り方が独特だった。繊維を断つように斜め薄切りにして、酢を吸い過ぎないようにしていた。あれは……独学か?」
結衣子は目を丸くした。
「えっ……そこまでわかるんですか?」
「当然だ」
「うわ、やっぱりプロの人だ。……でも、昆布と煮干し、実は二種使ってます。すごい……なんか、バレると恥ずかしいですね」
「なぜだ?」
「だって、“味”って、誰かに指摘されるものじゃないと思ってたから。体で感じるものでしょ? そんなふうに言語化されたら、なんか丸裸にされたみたいで……」
「それは違う。味も、美も、香りも、すべては解像度の問題だ。感じるだけでは不十分。“なぜ美味いのか”を理解してこそ、真の評価ができる。私の仕事は、まさにその“解像”だ」
そう言ったとき、泰成の声は妙に硬く、そして誇らしげだった。まるで盾を掲げるように。
結衣子は一瞬だけ、黙った。そして、ふっと笑った。
「……なるほど。ちょっと怖いけど、ちょっと面白いですね、そういうの」
その言葉に、泰成の胸がかすかにざわついた。「怖い」と「面白い」。並ぶことのない言葉が、まるで自分自身を形容されたようで。
そこに、ドアが勢いよく開いた。
「おーっす! 焼き鯖定食、まだあるー?」
声の主は、漁師のような格好をした若い男だった。潮の香りをまとい、日焼けした笑顔で、遠慮もなく店内に入ってくる。
「滝之介! もうお昼は終わりだよって何回言ったら……」
「いやー、昨日も夜釣りでさあ。腹減って死にそうなんだって。ほら、この顔見て」
「その顔で“死にそう”は説得力ないってば……」
「お願い、ゆいこぉ~。ね?」
「……しょうがないなぁ。おかみさん、鯖、もう一切れあります?」
「あるにはあるけど、あんたほんっと図々しいんだから」
泰成は、その様子を見て内心で呻いた。
(うるさい……。空間の品位が一気に……)
だが、滝之介は泰成に目を向けると、さも当然のように話しかけてきた。
「お、新顔じゃん。観光?」
「……違う」
「じゃあ仕事? なんか、キリッとしてるしな。あ、もしかして役場の視察? いやいや、記者だな? 文春とかフライデー的な」
「違う。“グルメ評論家”だ」
「おおー、マジ? じゃあさ、昨日の煮物の評価ってどうだった? 俺あれ大好きなんだよね、肉と芋の感じがこう……こう……こう、な? しみててさ!」
「語彙力が絶望的だな」
「あはは、言われたー」
泰成は深くため息をついた。だが、心のどこかで、ほんの少しだけ“嫌いじゃない”と感じていた自分がいた。
店の外では、漁港に帰ってきた漁船の汽笛が鳴った。潮風が吹き抜ける中、日縁町の空はゆっくりと、午後の色に染まりつつあった。




