終章:新たな食卓、新たな絆(2)
それは、何気ない昼下がりのことだった。秋晴れの空の下、日縁町をそよぐ風が、夏の湿り気を完全に手放していた。磯辺食堂の暖簾は風に揺れ、表に掲げられた新メニューの短冊がからん、と軽い音を立てていた。
「秋のほくほく定食――里芋とさつまいもの味噌あんかけ、秋鮭の炙り、柿なます、小豆と栗のごはん」
そう描かれた文字の横には、結衣子が描いた温かみのあるイラスト。食材は地元の農家や漁師たちの協力を得て集められ、料理は食堂の面々が入れ替わりで下ごしらえをしていた。
春佳は毎朝五時に起きて和菓子屋の仕込みを済ませてから、ふらりと食堂に顔を出す。滝之介は夜の漁の合間に、自分で獲った魚を手にやってきて、「今日の鯵、脂乗ってるぞ〜」と勝手に厨房の冷蔵庫にしまい込む。
岳郎は広報用に、ドローンで食堂周辺の空撮動画を撮ってきては、SNSにアップする。瀬麗奈は、地元の食材が持つ栄養バランスや薬膳の観点からの提案をまとめて、メニューカードの裏に載せるようになった。
玲海華は、町に訪れる観光客に旅館から“磯辺食堂クーポン”を配り、週末になると行列ができるようになった。
佑真は「もう実家に帰っても居場所がなくなった気がする」とぼやきながら、食堂のレジ裏に“仮設オフィス”を作り、オンラインでWebデザインの仕事をこなしながら、合間にフライ返しを握っていた。
「なんか……うち、すごくない?」
結衣子がぽつりと言った。
「いや、すごいよ」
と玲海華。
「町の縮図というか、カオスというか」
と春佳。
「でも、料理出したらちゃんと“うまっ”てなるのが、ずるいよなあ」
と滝之介。
「それが“うちらの店”ってことじゃないの?」
と瀬麗奈が静かに付け加えた。
店の奥では、泰成が静かにメモを取り、料理の味を慎重に確認していた。
「……味噌あんかけの粘度、少し緩い。火加減の調整で収めれば問題はないが、さつまいもが煮崩れしやすい。蒸してから合わせるほうがよい」
「了解」
結衣子が頷く。
ふと、泰成がノートを閉じた。
「……俺は、思ってるより長くここにいるな」
「うん、いるね」
「最初は数日で帰るつもりだった」
「うん、最初はイヤミばっか言ってた」
「……いまも多少は言ってる」
「多少ね。でも、ありがとう」
「……何に対して?」
「全部。最初からずっと、一緒に作ってくれてるから」
泰成は何も言わず、ただ静かに台所の片隅にある出汁用の鍋を見た。
「……そろそろ火を落とすか。煮詰まりすぎる」
その言葉に、結衣子は笑った。
ある晩、町長がふらりと店を訪れた。
「おや、まだやってる?」
「ちょうど片付け中ですけど、まかないならありますよ」
「ぜひ」
町長は、焼き魚と漬物、小鉢の定食を前にしみじみと呟いた。
「この町が、ここまで変わるとはなぁ……」
「そんなに変わりました?」
と玲海華が首を傾げると、町長は真顔で答えた。
「外から何かを持ち込んで町を変えるのは、案外簡単なんだよ。でも、内からじわじわと“自分たちで変わっていく”ってのは、時間も手間も、勇気もいる。ここは、それをやってる」
「……でも、私たち、ただごはん作ってるだけですよ?」
と結衣子が笑いながら言うと、町長は箸を止めて、優しく言った。
「だからいいんだ。人が変わるとき、一番の力になるのは、いつだって“あたたかいごはん”だから」
――その言葉は、厨房の壁にそっと書き記され、やがて店の新しいキャッチコピーになった。
【磯辺食堂――あなたの一杯が、町を変える。】
そしてある日。かつて町に訪れた観光客が再びやってきた。東京から来た若い女性。旅の途中でふと立ち寄ったこの店の“粕汁”が忘れられず、もう一度味わいたくて、仕事を辞めて旅をしていたという。
「ここの味って、“心の真ん中にある味”なんです」
その言葉に、泰成が小さくうなずいた。
「ようこそ。“おかえりなさい”だな」
日縁町の味は、こうして少しずつ、誰かの記憶になっていく。
いつか、ここで食べたひと皿が、誰かを癒す。
いつか、ここで笑った誰かが、誰かの背中を押す。
そしていつか、ここで過ごした誰かが、また新しい味をつくる。
日縁町のグルメ交差点は、今日もすべての“美味しい笑顔”のために、のれんを掲げている。
(終章:終)




