終章:新たな食卓、新たな絆(1)
日縁町の秋は、他の町より少し遅れてやってくる。海の町だからなのか、空気がなかなか冷たくならない。それでも朝晩はようやく涼しくなり、町の人々が長袖を羽織り始める頃、磯辺食堂の厨房にも、ひとつの季節が訪れていた。
それは、変化の季節だった。
「泰成さん、これ見て」
結衣子が広げたスケッチブックには、見開きいっぱいに新しい定食メニューのイラストが描かれていた。色鉛筆の柔らかいタッチで、和皿に盛られた料理がいきいきと並んでいる。
「“寄せ鍋ごはん定食”。地元の野菜と魚で、夜だけのあったかメニュー」
「……イラストの精度が、また上がったな」
「料理が見えてくるから、描くのが楽しくなってきたの。あと、これ全部、本当に作るつもり」
「構成は悪くない。色のバランスも良い。だが、ひとつだけ問題がある」
「えっ、なに?」
「……俺が食べていない」
「うわ、食べたかったのか!?」
「当然だ」
笑い合うふたりの姿を、滝之介がカウンター席から見ていた。
「おいおい、ついに公然の仲か?」
「違う!」
「違う!」
声をそろえて否定したふたりに、滝之介は大げさに肩をすくめて笑った。
「そういうのが一番怪しいんだよなあ。ま、どっちでもいいけど」
「よくないです!」
厨房の奥から春佳の声が響いた。「よくない」とは言いつつも、その声はあたたかく、からかうようでいて、応援しているようでもあった。
日縁町は静かに、だが確実に、変わっていた。
旧造船所の跡地は、かつて外資企業のモールが予定されていた場所だったが、町の反対と保留の流れの中で開発は一時停止となり、現在は「日縁交流広場」として整備が進められていた。磯辺食堂を中心にした「地元発信の場」として、地域住民の声が反映される形で方向転換されたのだ。
「なんだか、ちょっとだけ“勝った”って気がするよね」
玲海華が笑って言ったとき、結衣子はふっと目を細めた。
「うん。でもね、ほんとの勝ち負けは、たぶんこの先なのかもしれない。食べてもらって、また来てもらって、その人の人生に残れるかどうか。それが、うちらの勝負かなって」
「いいこと言うねぇ。さすが“看板娘二代目”」
「やめて、その呼び方!」
「いやいや、もう町の中じゃ定着してるよ。“磯辺のゆいちゃん”って」
「うわ、じわじわ来るなあそれ……」
いつの間にか、磯辺食堂は本当に“みんなの店”になっていた。もともとおかみさんが一人で切り盛りしていた小さな定食屋は、今では結衣子を中心に、地元の若い人たちが自然と手伝いに入る場所へと変わっていた。
たとえば、朝の仕込みには瀬麗奈が時々顔を出す。薬局の仕事の前に、ぬか床の様子を見ていくのが日課になっているのだ。滝之介は夜の漁から戻ると、残り物で勝手に“漁師の夜食”を作っていく。そして、佑真は厨房で黙々と“磯辺公式インスタ”を更新し、コメントに全部返信している。
「なんか、ここに来ると元気になれるんだよな」
佑真がそう呟いたとき、誰も笑わなかった。みんな、その言葉が本当だと思っていた。
ある日、おかみさんがひょっこり店にやってきた。杖をついていたが、顔色は良く、にこにこと皆を見回した。
「いやぁ、ここは相変わらず、よう回っとるねぇ」
「おばあちゃん、座ってて。今、お茶入れるから!」
「いやいや、見てるだけでええんよ。ほんまに、ようここまで育てたねぇ、結衣子」
「……育ててもらったのは、私の方だよ」
「なんやねん、泣かせるやないか」
おかみさんの一言は、町の誰の胸にも沁みた。彼女の味が、店の空気が、今のこの温かい繋がりの始まりだったから。
そして月日は流れ、ある秋の朝。
「ねえ泰成さん、これからもずっと……ここにいるの?」
その問いは、なんでもないように結衣子が口にしたものだった。麦茶を注ぎながら、軽い調子で。
泰成は少しだけ考え、こう答えた。
「……一度くらい、どこかに戻ろうと思った。けど、今はこの町の“記憶”と一緒に生きていたい。だから、ここにいる」
「じゃあ、お願いがあるの」
「なんだ?」
「“うちの定食”に、もう一品、加えてくれない?」
「なんの料理だ?」
「……“泰成さんが作った、初めての磯辺ごはん”」
「……ふむ。なら、私の自信作、“にんじんのラペと焼き椎茸の出汁和え”を……」
「それ、めっちゃ地味!」
「うるさい!」
笑い声が、食堂に満ちた。
その日の夕方、店の窓辺に光が差し込んで、誰かが「おかわりいいですかー」と声をあげた。厨房では、結衣子と泰成が笑いながら、同じ鍋を見つめていた。
料理は今日も、明日も、人と人をつないでいく。
日縁町の食卓は、また誰かの記憶になっていく。




