第七章:全ては美味しい笑顔のために(2)
まつりが終わった夜、日縁町の空には久しぶりに静寂が戻っていた。夏の夜風がやさしく吹き抜ける中、磯辺食堂の明かりだけがまだ灯っていた。人々の足音が遠のいた通りで、店内からは包丁の軽快な音と、誰かの小さな笑い声が漏れていた。
「このまかない、なんか最高なんだけど……」
滝之介がそう言って頬張るのは、“まつりの残りもの”でつくった即興のまかない定食。冷や飯を使った焼きおにぎり、野菜のぬか漬け、そしてあの粕汁。
「なんか、毎日これでいい気がしてきたなぁ」
「それは困るよ。あんた絶対飽きるタイプでしょ」
「それな」
春佳が笑いながら団子を口に運び、玲海華が食器を重ねながら「この時間が好きなんだよね」とぽつり呟いた。
結衣子は台所で冷やし出汁を容器に移しながら、ふと手を止めた。
「ねえ、みんな……今って、いい時間だね」
誰も何も言わなかったが、全員がそれにうなずいた。うなずきながら、ご飯を口に運び、笑い、明日も来るだろう日常に少しだけ感謝をした。
しかしその翌日、泰成の前に一通のメールが届く。
件名:【特別寄稿依頼】雑誌『料理人たち』8月号/特集「地方料理の再定義」
本文にはこう書かれていた。
これまでの御活動を拝見し、是非“日縁町における食の再発見”というテーマでご寄稿いただきたく存じます。
特に、貴殿が関与された磯辺食堂の料理・地域との関係性について、深く掘り下げた内容を希望いたします。
(料理人たち……)
それは、泰成が学生時代から愛読していた老舗の食雑誌だった。執筆者は日本各地の名料理人、伝説のグルメライター、食文化研究家など、“本物”の舌とペンを持つ者たちだけ。そこからの寄稿依頼は名誉であり、泰成にとっては一種の“到達点”でもあった。
しかし、原稿の締切日は、ちょうど結衣子が新メニュー「はじめてのひるごはん」をお披露目する週だった。
「どうするの? 引き受けるの?」
春佳の問いに、泰成は答えられなかった。
彼は葛藤していた。
(これは、私の人生で最も大きな転機だ。だが……)
厨房では、結衣子が新メニューの試作を始めていた。蒸し鶏の梅肉だれ、出汁巻き、浅漬け、麦ご飯、そして最後に小さな“さつまいもきんとん”。
「これが……“入口”の味?」
「うん。“はじめての日縁ごはん”って、優しくてちょっと甘くて、でも素材の味がちゃんと分かるのがいいと思って」
彼女の言葉が、泰成の胸にしみこんだ。
(この料理は、確かに“未来の記憶”になる。私は、それを――)
翌日、彼は原稿の執筆を断った。編集部には丁寧な謝辞と、「まだ私は“伝えること”よりも、“誰かと一緒に作ること”の途中にいるのです」という言葉を添えて。
その夜。
「えっ、書かなかったの?」
「……ああ」
「……でも、あの雑誌って、泰成さんにとって特別だったんじゃないの?」
「その“特別”よりも、今の“ここ”のほうが大事だと思った」
「……ばかだね」
「……そうかもな」
ふたりは、厨房で小さな焼きおにぎりを頬張りながら並んで立っていた。外では夏の雨が音もなく降り始めていたが、店の中はほんのりとした味噌と炊きたてご飯の香りで満たされていた。
そして数日後。「はじめてのひるごはん」はメニューとして登場した。
観光客の若い女性がひとり、その定食を食べながら、ぽろりと涙をこぼした。
「……すごい。不思議……。初めて来たのに、懐かしい……。これ、ずっと探してた味かもしれない」
結衣子は、そっとその背中を見つめながら、静かに言った。
「それが、“うちの定食”なんです」
――あの日から、日縁町の味は少しずつ、でも確実に、誰かの人生に“入り口”を作り始めていた。
(第七章:終)




