第六章:対立と危機の予感(1)
日縁町に夏の本格的な陽射しが降り注いでいた。空は澄みわたり、港の海は真昼の太陽を反射してキラキラと輝いていた。だが、その明るさとは裏腹に、町の空気にはどこか落ち着かないざわめきが満ちていた。
「ねえ、聞いた? 旧造船所の跡地に、でっかいショッピングモールができるって」
「しかも、名前が“SEAFRONT GARDEN”だってさ。日縁の面影、ゼロじゃん」
「なんでも外資が入ってるらしいよ。シティなんとかって名前の企業」
磯辺食堂のテーブル席で、昼ごはんをつつきながらそんな会話をしているのは、地元の魚屋のおばちゃん二人。冷やしうどんのつゆをすすりながら、あっけらかんと話しているが、その内容は町の未来を大きく左右するものだった。
「また突然な……外資系か。うーん、どうだかなあ」
滝之介がぼやきながら冷やしきつねを口に運んだ。対面に座る泰成は、眉をひそめて箸を止める。
「ショッピングモール……この町に?」
「そう。ニュースにも出てた。もともと町長も知らなかったらしいけど、県と企業が水面下で話を進めてたみたいで」
「……それが事実なら、この町の“食”も変わらざるを得ないな」
「変わるって?」
「外からの大規模流通が入れば、地元産業の価値は相対的に下がる。地場野菜は価格で競合に勝てず、魚も市場に流すしかなくなる。観光客はモールで済ませて、町の中心地には寄らなくなるだろう」
「……そんなのって」
結衣子が、厨房の戸口から言葉を落とした。彼女の手には、味噌の入った小鉢が乗っている。朝から寝かせていた冷や汁のベースを、今まさに仕上げるところだった。
「この町の味って、“近さ”がすべてなんだよ。誰が作った野菜で、誰が採った魚で、誰が炊いたごはんか、みんな知ってる。そういうのが……消えちゃうってこと?」
「正確には、競争力を失う、だな」
泰成の声は冷静だったが、目には静かな憤りが宿っていた。
「で、あんたはどうすんの?」
春佳がやって来て、テーブルにドンと麦茶を置いた。立ち話にしては尋常でない気迫だった。
「……私個人ではどうにもできない。だが、磯辺食堂がこの町の“象徴”として機能できるなら、別だ」
「象徴って、また大げさな」
「だが事実だ。この食堂は、美食コンテスト以来、日縁町の“顔”になりつつある。地元の味を外に発信し、なおかつ根を張り続けている。だからこそ、敵にとっては目障りな存在になる」
「敵って……そのショッピングモールの?」
「外資企業は、食堂を“買う”ことも選択肢として持ってくるだろう。地元色を保ったまま、吸収して“看板”にしたがる可能性が高い」
「冗談じゃない……そんなの、うちの味じゃないよ」
結衣子の声が少し震えた。湯気の立たない味噌汁の椀が、彼女の手の中で小さく揺れた。
「それでさ、町長が来週、企業の代表と直接会うことになってるって。で、なんと――その席に、地元飲食代表として“誰か”が同席するんだってさ」
滝之介の言葉に、一同が凍った。沈黙の中で、春佳がぼそりと漏らす。
「……つまり、うちらの誰かが、“この町の味”を、代表するってこと?」
「その通りだ」
泰成が静かにうなずいた。
「当然、私が出る」
「えっ、ちょっと……自分で言う!?」
「私が最も“外”を知っている。彼らの理屈も論理も、読める。そして私は、“この町の味”に責任を感じている」
「……」
結衣子はその言葉を聞いて、何も返さなかった。ただ、視線を下に落とし、湯気の立たない味噌汁をそっと鍋に戻した。
その日の閉店後。
厨房では、珍しく結衣子が先に帰ろうとしていた。
「ごめん、今日はちょっと、疲れちゃった。先にあがるね」
「……ああ」
泰成はそれを止めなかった。だが、その背中が少しだけ寂しそうに見えたのは気のせいだっただろうか。
その夜、結衣子は海辺にいた。夜の港は静かで、灯台の光が沖のほうで弱くまたたいている。潮の匂い、遠くで鳴くカモメの声、波の音。
「……わたし、何がしたいんだろう」
小さく呟いた声は、夜に吸い込まれていった。
一方、泰成は旅館の部屋にこもり、ノートパソコンを開いていた。だが、画面に文字は進まない。
彼は、自分が何に怒っているのか、まだ整理しきれていなかった。
町のため? 食堂のため? それとも、彼女のため?
(違う……私自身の“場所”のためだ)
自称・グルメ評論家。食べ歩きと論評の日々。その裏にあったのは、“自分の居場所”がなかった人生だった。だからこそ――
(私は、この町を守りたい)
彼の目に、強い光が戻っていた。




