第五章:人間関係のほころびと絆(1)
日縁町に、夏の入り口がやってきた。セミの鳴き声がちらほら聞こえ始め、山の稜線は濃く色を増し、海風が少しだけ温度を帯びていた。磯辺食堂の裏庭に植えられた紫陽花が、朝露を抱きながら、柔らかく咲いている。
「今日も暑くなるわねぇ……」
おかみさんがうちわで顔をあおぎながら、厨房で大きな鍋を覗き込んだ。味噌とだしの香りが、ゆっくりと立ち上っている。その隣では、結衣子が冷やしうどんの下準備をしながら、慎重に薬味を刻んでいた。
「みょうが、多めにしようかな。さっぱりしたの、みんな好きだし」
「うんうん。しそもええなぁ。あとでおばあちゃんちから穫ってこようか?」
「お願いします」
会話は穏やかだったが、厨房の空気にはわずかな緊張があった。美食コンテストで準グランプリを取ったことは町にとっても大きな出来事で、それ以降、食堂には観光客がちらほら訪れるようになっていた。
そのぶん、日常の“味”を守りながら、外からの目にも応えねばならなくなった。
泰成は、厨房の奥の壁に立てかけられたノートパソコンの前で、今日も目を細めていた。グルメブログの更新に向けて、記事を書いては消し、書いては修正している。
(“変わらない味”をどう伝えるか……。読者の半分は、新しい驚きを求めている。だが、驚きとは往々にして、“違和感”の裏返しでもある。結衣子の料理は、驚きではなく、安心と郷愁でできている……)
思考を巡らせていると、店の入り口で「いらっしゃいませーっ!」という声が響いた。玲海華だった。彼女は最近、食堂の手伝いもするようになっていた。旅館の看板娘である彼女が厨房にいるだけで、客の目も心なしか和らぐ。
「はい、こちら麦茶です。暑いので、先にどうぞー」
「ありがとうねぇ、旅館の人だろ? あんた、感じええなぁ」
「いえいえ、うちのご飯は出前してないけど、ここなら食べられますからね〜」
にこやかに対応する玲海華の後ろで、カウンターに座った佑真が麦茶をすする。
「……はあ、やっぱここ、落ち着く」
「最近、ずっとここ来てるよね、佑真くん」
「うん、バイト先が閉店しちゃって……。で、いま無職モードに突入してて。あ、でもまた履歴書書いたよ」
「おお、えらいえらい」
滝之介が手を振って入ってくると、結衣子がフライパンをあおる手を止めた。
「滝之介さん、今日は早かったね」
「今日はさ、朝漁が早く終わったから、干物の仕分けもすぐ終わって。ついでにここの冷やしうどん狙い!」
「わー、ありがとう。ちょっとだけ、変えたんだよ、つゆのだし」
「えっ、まじ? じゃあ正座して食べなきゃ」
「厨房で正座はやめて〜!」
その様子を眺めていた泰成は、ペンを手に取った。
(食堂という場所の魅力は、“料理”以上に、“場”の構築にある……。彼らは客であり、共同体の構成員でもある。料理はそれを繋ぐ“媒体”にすぎないのか……)
そんなある日。
町役場から、食堂に新しい依頼が届いた。
「地元グルメの共同開発プロジェクトへの協力依頼ですって……?」
結衣子が読み上げると、厨房全体がざわついた。
「なんそれ」
「なんか、外部の飲食事業者が、日縁町を拠点に新しい商品を作りたいらしくて……その試作のために、地元の店とコラボをしたいんだって」
「コラボ……」
「けっきょく外の人が入ってきて、“地元風”に色をつけるってやつでしょ。中身は都会の味にされて終わりって、相場が決まってるのよ」
春佳がどこか刺々しい口調で言った。その言葉に、泰成もゆっくりと頷いた。
「君の言うことにも一理ある。だが、必ずしも悪ではない。問題は、地元側の意志がそこにあるかだ」
「意志……」
「たとえば君が、“この食堂の味を誰にも譲りたくない”と思うなら、交渉は断るべきだ。だが、“外に向けて伝えたい”という意志があるなら、交渉はすべきだ。主導権をどちらが握るか、が全てだ」
「……難しいね」
「難しくはない。答えはひとつ。“自分の味を、誰のために作るのか”」
その夜、結衣子はひとり、厨房に残った。味噌をかき混ぜる。米を研ぐ。鍋の音、包丁の音、すべてがやけに静かに聞こえた。
(私の味は……誰のため?)
(母のため? おかみさんのため? 町のため?)
(……私自身のため?)
その答えは、まだ出ていなかった。




