第一章「磯辺食堂とおばあちゃんの味」(1)
日縁町に着いたその日は、まるで港町が息を潜めているような静けさだった。春の終わり、梅雨入り前の、風が乾いて穏やかな午後。駅前の時計が十四時二十二分を指していた。海辺の町特有の、ややくすんだ瓦屋根と潮の香りがどこか懐かしさを漂わせるが、泰成にはただ「古びた」としか映らなかった。
「……なんというか、都心の“洗練”からはほど遠いな」
トランクの取っ手を握る手に力を入れ直しながら、泰成は一人ごちた。四角く整えられた髪型に、アイロンで伸ばされたシャツ。無駄なシワひとつないベージュのジャケット。その姿は明らかにこの町の空気と調和していなかった。
だが、それでいい。むしろ、この町には“洗練”が必要なのだ。泰成はそう思っていた。
彼がこの町に降り立ったのは、完全なる偶然――いや、正確には、交通手段を間違えた結果だった。取材先と勘違いして降りてしまったのが、この日縁町。普段なら激昂していたかもしれないが、その日は朝から胃が妙に空腹を訴えていた。
「腹が、減った……」
泰成は空腹に抗えず、駅前の地図を見上げた。観光客向けの案内図には、ぽつりと「磯辺食堂」の文字があった。駅から徒歩五分。そこが彼の“転機”の始まりだった。
食堂は、どこか不思議な佇まいをしていた。引き戸の上には、手書きの看板。達筆だが、年季の入った筆致。「いそべ」とひらがなで書かれた暖簾が、海風に揺れている。
泰成はその外観に眉をひそめた。
「これは……期待できる要素が、皆無だな」
だが、腹は誤魔化せない。彼は静かに引き戸を開けた。入口の鈴が、ひとつ軽く鳴った。
中は、外観よりもさらに年季が入っていた。木製のカウンターは少し傾いており、壁の時計は半分止まりかけている。テーブルは四つ。貼られたメニュー表には、手書きで「焼き魚定食」「煮込みハンバーグ」「日替わり」とある。
「いらっしゃーい、あらまあ、都会の人?」
声の主は、白髪のおばあちゃんだった。背は小さいが、目元がやけにくるくるしていて、声がよく通る。彼女がこの店の女将――通称「おかみさん」らしい。
「こちらどうぞ、今日は焼き魚がいいわよ。鯖がぷりぷりしてるから」
「……メニューに価格の記載がありませんが」
「いいのいいの、たいして変わんないんだから。今日は日替わりもあるけど、食べたいもの頼んで」
強引な口調に、泰成は思わず「うっ」と声を漏らした。普段ならこんな無礼には強く出るが、腹が限界に近かったため、声を荒げる気にもなれない。
「……では、日替わり定食を。あと、ご飯は少なめで構いません」
「はーい、ゆいこー! ひとつお願いー!」
奥から「はーい」と返事があり、すぐに足音が近づいてきた。現れたのは、エプロン姿の若い女性だった。髪はゆるくまとめられており、目元が柔らかい。だが、その瞳にはどこか芯のある光が宿っている。
「いらっしゃいませ。お日替わりですね。今日はアジの南蛮漬けと、じゃがいものそぼろ煮、小鉢に青菜の胡麻和え、ご飯と味噌汁です」
「……」
泰成は、黙って彼女の説明を聞いていた。そして、その声と所作にどこか、妙な引っかかりを覚えていた。どこか洗練されているのだ。地方の食堂には不釣り合いな“気配”を、彼女は纏っていた。
やがて運ばれてきた定食を前に、泰成の眉がぴくりと動いた。
盛り付けが、妙に美しい。
アジの南蛮漬けは黄金色のたれに照らされ、赤ピーマンと玉ねぎのコントラストが効いている。そぼろ煮は大ぶりに切られたじゃがいもが艶やかに炊かれ、青菜の胡麻和えは白ごまがふんわり散っている。味噌汁の湯気の向こうに、刻みネギがそっと顔を出していた。
「……なんだこれは」
泰成はまず、アジを口に運んだ。一口、咀嚼。次の瞬間、彼の脳裏にじわりと何かが滲んだ。
酸味が、優しい。揚げたてのアジが酢にほどよく漬けられていて、衣の香ばしさと玉ねぎの甘みが舌の上でふわりと溶け合う。家庭料理の域を出ない――はずなのに、絶妙なバランス感覚がそこにある。
「……おかしい。これは、偶然の味ではない」
思わず箸が止まり、ご飯を一口。こちらも、米が立っている。炊き加減も申し分ない。味噌汁の出汁は昆布と煮干し、そこに薄口醤油が香りを添えていた。
「お客さん、味どう?」
「……これは……」
泰成は答えなかった。否、できなかった。評価しようとした瞬間、心のどこかが揺さぶられたからだ。「評論家」としての鎧を着ていた自分の内側に、何か熱いものが沁みてきた。
「……これは、“料理”だ」
「そりゃそうだよ、何言ってんの」
おかみさんが笑い、エプロンの女性が少しだけ口元を緩めた。だが、その視線はどこか遠くを見つめていた。
「もしかして、あんた、グルメ評論家さん?」
「……どうして、そう思う?」
「だってさっきから、箸の動きが“職業的”だったもん。あと、最後に米を食べるとか、妙に理屈っぽいとこも」
「……ふん」
泰成は鼻を鳴らした。だが、その頬は、ほんの少しだけ赤くなっていた。
「名前は?」
「泰成。斎賀 泰成だ。……本職は……まあ、グルメ評論家のようなものだ」
「ふーん、なるほどね。私は結衣子。地元の人。おばあちゃんを手伝ってるだけ」
結衣子はそう言い、厨房へ戻っていった。その後ろ姿に、泰成は思わず目を細めた。都会で見かけるような“華やかさ”はない。だが、あの料理には、確実に何かがあった。
何か大きな“価値”が。
そして――彼は気づかぬうちに、空になった味噌汁椀を手の中で撫でていた。