第93話 揺るがぬ日々にて
澄んだ空気の中で斧を振るう音が響いた。
朝の光が斜めに差し込む里の広場。俺は薪を割り、エルンは近くで洗濯物を干し、ルナは子どもたちと追いかけっこをしていた。
——静かで、温かい日々だった。
戦火の中で魔族と剣を交え、どこに居ても異物のように浮いていた自分が、今ではここで笑っている。そんな状況が、まだどこか不思議だった。
「おーい、カイン! ちょっと手を貸してくれー!」
広場の向こう、農具小屋のほうから男の声が飛んできた。顔を上げると道具を抱えた青年が手を振っている。
「井戸の水路にまた小石が詰まったらしくてさ。ちょっと『魔法の流し洗い』頼めないか?」
「ああ、すぐ行く」
俺は手にしていた斧を壁に立てかけ、軽く埃を払ってから歩き出す。
こうして名前で呼ばれ、頼られるようになってから、もう数日が経った。
仕事は次々と舞い込んできた。水脈整備、橋の補強、古い書庫の結界修理。すべて、俺ができることだった。
(……ああ、慣れてきたな)
魔法の展開速度も精度も、上がっている。特に最近はカイランの記憶から術式を呼び出す感覚にも慣れ始めていた。
『水精の環流』も、『蒼閃』の派生術も、もう術式を意識せず、自然と発動できる。
(俺って案外この世界向きだったのかもしれないな……)
そんな思いが、ふと脳裏をよぎった。以前の俺なら恐れ多くて言葉にすらできなかったことだ。
水路の詰まりを直し、頼まれた修理を終えて小屋から出ると、ちょうどエルンが手を振っていた。
「カイン、少し休みましょう。お茶、淹れてあります」
「……ああ、助かる」
家の縁側で三人並んで座り、湯気の立つ器を手にする。
ルナはちゃぶ台の上でごろりと横になり、両足をばたばたさせている。
「なんかさ〜、ここにいると『がぉー!』な敵とかいないのに、いっぱい楽しいことあるよね!」
「……『がぉー!』な基準はさておき、確かに。ルナが楽しそうにしてるのを見るのも悪くない」
エルンが静かに微笑む。
「ここでの暮らしが少しずつ日常になってきた気がします。カインも……以前より肩の力が抜けたように見えますよ」
「……そうかもな」
里に来る前の俺はこの世界で生き延びることがすべてだった。力を振るい、戦いの中で成果を上げることでしか存在を示せないのだと思っていた。
でも今は違う。
土を耕し、水を整え、人と会話をする。剣を振るわずとも、俺であることが許される。
(……そういう意味では俺はこの土地に受け入れられたんだろう)
心の奥で、そんな手応えのようなものを感じていた。それは確かに自信だった。
けれどその中に、ほんの少し——慢心が混ざっていたことは自覚していなかった。
その日の夕暮れ、広場に夕餉の香りが広がるころ。子どもたちの間で、ある話がささやかれ始めた。
「ねえ、あの道の奥の木の陰に人みたいな影が立ってたんだよ」
「ボクも見たよ。白い服だった……でもすぐ消えたの」
子どもたちの空想話だと、最初は誰も取り合わなかった。けれど、それが三人も四人も口を揃えて語るようになったとき、さすがにリゼリアも眉をひそめた。
「……あのあたりには結界を敷いてあるはずなのですが」
「魔族の気配は感じない。でも、気を張っておくべきだな」
俺はそう返しながらも、心のどこかで「大したことじゃない」と思っていた。この平穏な日々が、そんな簡単に壊れるはずがない——と。
だがそれが、思考の油断だと気づくのに、さほど時間はかからなかった。




