第91話 時の谷より吹く風
夜風が冷たくなりはじめた頃、俺はリゼリアに連れられて里の東側へと足を運んだ。
高台に出ると、空が開け、星々がすでに光を帯びていた。
山の向こうから吹く風は、昼間とは違う匂いを運んでくる。少し湿り気があり、どこか懐かしさを含んでいた。
その場所には、一本の石碑があった。
苔むした岩の表面には古代エルフ語が刻まれていて、淡い光が絶えず脈打っている。
「……これは?」
「記録石よ。この地の『理の歪み』を記録するために置かれたもの。数百年単位で変化する因果のたわみを観測し、記録してきた存在なの」
リゼリアは静かにそう言い、石碑に手を当てた。
「この土地は、アルヴェントの中でも特異な場所。時間の流れが不安定で、空間と意識の層が曖昧になります。未来視や過去視、夢と現の境界が揺らぎやすくなるのも、そのせい」
「つまり、ここの空気は時間そのものが柔らかいってことか」
「正確に言えば、『理の網が緩い』というべきでしょうね。世界を縛る因果の糸が、ここではほどけやすい。だからこそ、外から来たあなたのような存在も……この地に馴染みやすかったのだと思います」
リゼリアの言葉に、俺はわずかに目を伏せた。
彼女が俺の出自を知っていることは、予想していた。
エルンが話していたのだろう。俺が異世界から来たこと。
そして、カイランという存在と融合し、今の俺になったことも。
「俺が特別だって意識は、できるだけ持たないようにしてる」
「わかっています。……だから、あなたはこの里に溶け込めるのです」
リゼリアは風を受けながら、空を見上げた。
「この土地は、もともと特別な者の居場所ではありません。選ばれた力を持つ者が立つのではなく、選ばれなくても歩き続ける者が、根を張る場所」
「……それが、フェルシアか」
「ええ。だから、私はあなたにここで生きてほしいと思っている。賢者でも、英雄でもない。ひとりの住人として、この地に根ざしてほしい」
その言葉が、深く沁みた。
戦いに明け暮れた日々、称えられた名前、与えられた褒賞。
それらが一瞬で消えるような、静けさとあたたかさが、ここにはあった。
「一つ、確認しておきたいんだけど」
「なんでしょう?」
「……俺がここに来て、こうして受け入れられてるのは、俺が誰であるかを知ってるからか? それとも、今の俺を見て判断してくれてるのか?」
リゼリアは微笑んだ。けれど、その表情はどこまでも真剣だった。
「両方です。竹内悟志という記憶を持つ魂が、カイランという身体の軌跡と融合して、今ここにいる。その事実を、私は受け止めた上で、あなたの今を見ている。……私は、今のあなたを信じています」
「……ありがとう。そう言ってもらえて、救われるよ」
風が一段と強くなり、木々の葉を揺らした。
リゼリアはその音を聞きながら、ひとこと、呟く。
「風が変わりましたね。春の兆し……だけではない」
「……何か、来るのか?」
「理の歪みが大きくなる兆候があります。季節の変わり目に起きる自然の揺らぎとは、明らかに異なる。……まだ霧の中にいますが、その先にあるものは、決して小さくはない」
俺は再び、石碑に目を向けた。
その表面は微かに輝き、呼吸をしているようにゆらめいていた。
「この里のためにも、俺にできることをしていくつもりだ。俺は……もう、居場所を失いたくない」
「それで十分です。ここは、あなたを縛る場所ではありません。けれど、あなたが在りたいと願うなら、ここはあなたの根となります」
静かな夜だった。
だが、その静けさの中に、確かな始まりの予兆があった。
俺は、ただの流れ者じゃない。
けれど英雄でも、救世主でもない。
ここでは、俺として在ればいい。
その思いを胸に、俺は星の下で、ゆっくりと息を吐いた。




