第86話 揺るがぬ想い
フェルシアの里へ向かおうと決める前夜、俺たちは一度ギルドへと戻っていた。装備の最終確認や情報整理、そして……仲間との最後の相談のためだ。
夜のギルドは昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。ロビーの灯りも落とされ、明かりがともっているのは奥の会議室と食堂くらいだった。
俺は食堂でセリスと向き合って座っていた。
彼女を送り出したいのか、それとも引き止めたいのか。俺自身は迷っていたのだ。
セリス、彼女の背筋はいつも通っている。その姿勢の奥にある、誇りと信念。俺はそれを嫌いじゃなかった。
「……本当に森に戻るのか?」
静かに問いかけた俺にセリスは小さくうなずいた。
「はい。私の中ではもう迷いはありません」
その目は真っ直ぐだった。闇の中でも、まるで光の芯が通っているように揺らがない。
「カイン殿の偉業。私自身が見て、感じたすべてを森の者たちに伝えます。それでもなお、保守派の者たちが目を背けるのなら——それは彼らの心が閉ざされている証。私は揺さぶりたいんです」
「……揺さぶる、か」
俺は笑った。やはりセリスは強い。
「たとえ報われなくとも、無視されても……それでも言葉を投げ続けたい。それが、今の私にできることです」
彼女の言葉には偽りがなかった。心を絞り出して、それでも届くか分からない相手に向けて歩いていこうとする強さ。俺には真似できない生き方だった。
「でもさ、セリス」
俺は言った。
「戻るってことは、またあの森の掟の中に身を置くことだ。追放された者の仲間だったってだけで、簡単に敵意を向けられることもあるだろう。……それでも、行くんだな?」
「……はい。覚悟しています」
少しの間、俺たちは言葉を失ったまま、暖炉の火の音だけを聞いていた。
パチ……と薪がはぜる。その音がやけにやわらかく、胸に沁みた。
沈黙を破ったのはセリスだった。
「私、昔からあの森が好きでした。閉ざされていても、不器用でも、あの静けさが、四季の香りが、人の声が。だからこそ、そこに息づく者たちに、もっと広い世界を知ってほしい。カイン殿のような人がいて、世界が変わることを……」
「セリス……」
「あなたと出会って、私は変わりました。戦い方も、考え方も。私の信じるべき相手は誰なのか……その答えも」
そのとき、彼女の瞳に揺れた光は、たぶん、俺の知っている感情に近かった。
だが、俺はその感情を受け止めるには、まだあまりに頼りない。
「……気をつけて行けよ」
そう言うのが俺の精一杯だった。
「ええ」
セリスは立ち上がると、腰に下げた愛剣『風哭』の柄にそっと触れた。
「この剣はあなたのもとで磨かれた力です。今度は私の意志で振るいます」
風が吹き抜けたような気がした。誰にも縛られず、ただ自分の意志で動く者の歩み。その背はまっすぐで、しなやかだった。
「……セリス、森で何があっても自分を見失うなよ」
「ええ。私は私であり続けます。カイン殿がそうであるように」
彼女は一度だけ振り返って微笑んだ。そして、そのままギルドの扉を開け、静かに夜の街へと消えていった。
その背を見送ったあと、エルンが隣に来て肩を並べた。
「……優しい人ですね。セリスは」
「ああ。優しすぎるくらいだ」
「それでも、自分で選んだ道です。だから、きっと大丈夫」
俺はうなずいた。彼女の選択を信じる。それが俺にできる唯一のことだ。
ギルドの中庭には雪解けの雫がポタポタと石畳に落ちていた。
春はもうすぐそこまで来ている。




