第8話 この世界で生きる
試練の間に静寂が訪れた。
崩れた石像の破片が床に転がり、舞い上がった砂埃が光の筋となって差し込んでいる。俺は肩で息をしながら、まだじんじんと痺れる腕の感覚を確かめていた。
「……見事です」
エルンストが、感嘆とわずかな畏敬の念を込めて呟いた。彼女は俺の前に進み出ると、厳かに告げる。
「知識、精神、そして力。あなたは古の試練のすべてを乗り越えました。これにより、あなたが『賢者の候補者』たるにふさわしい存在であることを、正式に認めます」
その言葉は、俺がこの世界で確かな一歩を刻んだ証だった。証人として立ち会っていたレオナルドも、もはや疑いの表情はなく、ただ興味深そうに俺を見つめている。
「……それで? これで俺は賢者として認められたってことになるのか?」
「いいえ、まだ『候補者』です」とエルンストは静かに続けた。「次なるは『第三段階:森への貢献と民の信頼』を得る試練が待っています。ですが、その前に……」
彼女は少し言葉を切り、何かを問うように俺の目を見た。その視線に促され、俺は一つの決意を固めた。
(そうだ……このままじゃいけない)
俺は神殿の中央に立ち、集まったエルフたちに静かに語り始めた。
「俺は賢者と認められる前に、皆に伝えておかなければならないことがある。俺はこの体の持ち主だったカイラン・フェルシスとは別の魂を持つ存在だ」
エルフたちの間に再びざわめきが広がる。俺は構わずに続けた。
「俺の本当の名前は、竹内悟志。元いた世界では、ただの人間だった。何らかの理由でこの世界に転生し、この体を得ることになったんだ」
「でも、この世界ではカイランとしての役割を求められている。だからこそ、俺はカイランの名を借りるのではなく、この世界で新たな名を持ちたい」
エルンストはしばらく沈黙し、やがて静かに頷いた。
「……賢者の候補者殿、ご自身で名を決められるのですね」
「そうだ。俺自身の意志で、この世界での名を名乗りたい」
俺の言葉に、エルフたちも次第に納得したように頷き始めた。
「では、どのような名をお望みですか?」
俺は少し考えた後、はっきりと口を開いた。
「――カイン」
その名を口にした瞬間、エルフたちの間に静かな共感が広がった。
「カイラン様の名を受け継いだ、カイン……」
エルンストが感慨深げに呟く。
「なるほど、それならば納得できます。カイン殿、これからはその名で我らの賢者候補者として歩まれるのですね」
「ああ、そういうことになる」
こうして、俺は『カイン』という新たな名を得た。賢者でも、ただの人間でもない、俺自身の名前。それは、この異世界で生きていくという、俺の覚悟の証だった。




