第73話 咆哮の波
静寂が訪れていた。ほんのひとときとはいえ、戦場に漂う血の臭いと金属音が収まり、風の音だけが耳を打っていた。
小高い丘の陰に設けられた臨時の野営地で、セリス隊の面々が応急処置と装備の点検を行っている。
「……すみません。わたしの判断が遅れたせいで、被害が……」
セリスは深く頭を下げる。
だが、仲間のひとりがすぐに笑って答えた。
「違うさ、隊長。あの場で持ちこたえたのは、あんたのおかげだ」
別の仲間も、頷きながら口を開く。
「そうですよ。セリス隊長がいなかったら、とっくに突破されてたさ」
「……ありがとう」
セリスは顔を上げ、気持ちを引き締めるように剣の柄を握り直した。
一方、丘の上では俺たちが前線の様子を注視していた。俺は腰に下げた短剣のバランスを確認しつつ、あたりの空気に変化がないか感覚を研ぎ澄ませていた。
「短い休憩だが、助かるな。剣の馴染みもだいぶ良くなってきた」
「ルナはちょっと疲れたけど、まだ動けるよ。敵の気配はまだ近くない……けど、なんか……あれ?」
ルナが耳をぴくりと動かし、空気の匂いを嗅ぐように鼻をひくつかせた。
「変だよ、カイン。空気が重い……なんか、火のにおいが混じってる。遠くの方から、すごく熱いのが近づいてくる感じ」
俺も目を細める。
「……風向きが変わったな。西のほうから、土煙が立ってる」
「カインさん!」
ティル・グラウスが慌てて駆け寄ってきた。ローブの裾をはためかせ、額に汗を浮かべながら、水晶板の魔力探知器を手にしている。
「大規模な魔力反応を感知しました! 南西の山間部から、極端に密度の高い反応がこちらに向かって移動中です! 数は不明ですが……おそらく、本隊です!」
「ついに来たか……」
俺は短く息を吐き、立ち上がった。
「エルン、補助魔法の準備を。ルナ、周囲の警戒を頼む」
「了解です」
「任せてっ!」
その頃、遠く離れた岩山の上では、黒いマントを翻すダークエルフ、ネフィラが静かに指先を動かしていた。
彼女の足元には複数の魔術式が展開されており、そこに描かれた陣から微かな紫の光があふれている。
「前方部隊、左翼をやや広げて。崖沿いを制圧すれば、都市への道が開けるわ……」
彼女の声は直接戦場の獣魔族たちに届き、まるで意思を共有するかのように彼らが動き始める。
その背後、重く鈍い足音が近づく。
グロム・ザルガス。
鉄を打ちつけたような足音とともに、巨漢が姿を現した。
全身を覆う漆黒の鎧。異様に広い肩幅と分厚い腕。腕の甲に生えた骨のような棘が、ごく自然に戦闘のためのものだと告げていた。
「ネフィラ……指示は済んだか?」
「はい、グロム様。前衛はまもなく交戦距離に入ります」
「……でかいのは、いるか?」
「ええ。カインとその仲間が、まだ戦場に残っています」
グロムの口元が吊り上がる。
「楽しみだ。どれだけ斬れば、この疼きが収まるか……」
そしてその時、グラムベルクの南方平野の地平線に、煙と塵を巻き上げながら黒い軍勢が現れた。
それはまさに、獣の波だった。獣魔族の怒号が風に乗り、遠くまで響き渡る。
それを見た俺は、すっと目を細めた。
「来たな……あれが、本隊か」
エルンが隣で呟く。
「数だけじゃない……圧がすごい。これまでの相手とは、明らかに違います」
ルナはぴたりと動きを止め、じっと前方を見据えている。
「……カイン、あいつ……いる。グロム・ザルガス」
その名を聞いた瞬間、空気が一層重くなったように感じられた。
戦いの本番が、ついに幕を開けようとしていた。
 




