第73話 咆哮の波
静寂が訪れていた。
ほんのひとときとはいえ、戦場に漂う血の臭いと金属音が遠のき、風の音だけが耳を打っていた。
小高い丘の陰に設けられた臨時の野営地で、セリス隊の面々が応急処置と装備の点検を行っている。
「……すみません。わたしの判断が遅れたせいで、被害が……」
セリスは深く頭を下げる。
だが、仲間のひとりがすぐに包帯を巻いた腕を振り、笑って答えた。
「違うさ、隊長。あの場で持ちこたえられたのは、あんたのおかげだ」
別の仲間も、うなずきながら口を開く。
「そうですよ。隊長が先頭で体を張ってくれなかったら、とっくに突破されてたさ」
「……ありがとう」
セリスは顔を上げ、気持ちを引き締めるように剣の柄を強く握り直した。
***
一方、丘の上では俺たちが前線の様子を注視していた。
俺は腰に下げた短剣のバランスを確認しつつ、あたりの空気に変化がないか感覚を研ぎ澄ませていた。
「短い休憩だが、助かるな。剣の馴染みもだいぶ良くなってきた」
「ルナはちょっと疲れたけど、まだ動けるよ。敵の気配はまだ近くない……けど、なんか……あれ?」
ルナが獣耳をぴくりと動かし、空気の匂いを嗅ぐように鼻をひくつかせた。
「変だよ、カイン。空気が重い……なんか、焼け焦げたようなにおいが混じってる。遠くの方から、すごく熱いのが近づいてくる感じ」
俺も目を細め、風の気配を探る。
「……風向きが変わったな。西のほうから不自然な土煙が立ってる」
「カインさん!」
ティルが慌てて駆け寄ってきた。ローブの裾をはためかせ、額に汗を浮かべながら、水晶板の魔力探知器を掲げている。
「大規模な魔力反応を感知しました! 南西の山間部から、極端に密度の高い反応がこちらに向かって移動中です! 数は不明ですが……おそらく本隊です!」
「ついに来たか……」
俺は短く息を吐き、立ち上がった。
「エルン、補助魔法の準備を。ルナ、周囲の警戒を頼む」
「わかりました」
「任せてっ!」
***
その頃、遠く離れた岩山の上では黒いマントを翻すダークエルフ、ネフィラが静かに指先を動かしていた。彼女の足元には複数の魔術式が展開されており、そこに描かれた陣から微かな紫の光があふれている。
「前方部隊、左翼をやや広げて。崖沿いを制圧すれば都市への道が開けるわ……」
空気に溶けるような彼女の声は直接戦場の獣魔族たちに届き、まるで手足となって意思を共有するかのように彼らが動き始める。
その背後、重く鈍い足音が近づく。
ズゥン、ズゥン、と地面の底から響くような振動。
グロム・ザルガス。岩塊のような威圧感とともに巨漢が姿を現した。
全身を覆う漆黒の鎧。異様に広い肩幅と分厚い腕。手甲に生えた骨のような棘が、ごく自然に戦闘のためのものだと無言で告げていた。
「指示は済んだか?」
「ええ。前衛はまもなく交戦距離に入るわ」
「……でかいのは、いるか?」
「カインとその仲間が、まだ戦場に残っているわよ」
グロムの口元が三日月形に吊り上がる。
「楽しみだ。どれだけ斬れば、この疼きが収まるか……」
そしてその時、グラムベルクの南方平野の地平線に煙と塵を巻き上げながら黒い軍勢が現れた。
それはまさに、すべてを飲み込む獣の波だった。獣魔族の怒号が風に乗り、遠くまで響き渡る。
それを見た俺はすっと目を細めた。
「来たな……あれが本隊か」
エルンが隣でつぶやく。
「数だけじゃない……圧が凄まじいです。これまでの相手とは明らかに違います」
ルナはぴたりと動きを止め、じっと前方を見据えている。
「……カイン、あいつ……いる。グロム・ザルガス」
その名を聞いた瞬間、戦場の空気が一層重く澱んだように感じられた。
肌を刺すような圧倒的な殺意が俺たちを飲み込もうとしていた。




